西域

西域

西域(さいいき)とは、中国大陸の西の地域の総称で、どこまでを西域と呼ぶのかについては時代によって変わります。前漢武帝に仕えた張騫(ちょうけん)の活躍で、は西域の国々と交流、交易を始めました。西域には日本でも知られる楼蘭(ろうらん)などさまざまな国があります。

目次

  1. 1. 西域とは
  2. 2. 張騫の冒険
  3.  2-1. 張騫以前
  4.  2-2. 武帝の登場
  5. 3. 西域諸国
  6.  3-1. 大宛
  7.  3-2. 楼蘭
  8.  3-3. 烏孫
  9.  3-4. 康居
  10.  3-5. 大月氏
  11.  3-6. 安息

西域とは

西域の地図
西域の地図。

西域(さいいき・せいいき)とは、中国大陸の西にある地域の総称ですが、西域という言葉が含む範囲は時代によって異なります。

中国の文献に「西域」という言葉が初めて現れるのは『漢書』西域伝です。この記述によれば「西域」とは、玉門関(ぎょくもんかん…甘粛省)・陽関(ようかん…甘粛省。玉門関の南)から西、葱嶺(そうれい・ツォンリン…パミール高原のこと)から東、バルハシ湖(カザフスタン)の東部、南部と現在の新疆ウイグル自治区一帯を指します。

玉門関
玉門関。漢の最西端に築かれました。(写真は唐代に築かれたもの)

ところがこの地域以外の大宛国、大月氏国など、パミール高原より西の諸国についても「西域伝」の中で紹介されており、漢代における「西域」は必ずしもきっちりと固定された地域を指す名称ではないことがわかります。

現代において一般に古代「西域」とは「玉門関、陽関から西の地域の総称」であり、狭義では「パミール高原より東」を指し、広義では「上記に加えて、パミール高原より西、アジア西部とヨーロッパ東部も含む」とされています。

また現代中国の西端に「新疆ウイグル自治区」と呼ばれる地域がありますが、この「新疆」とは「新たに加わった国土」という意味で、18世紀にここを征服した清朝によって名付けられました。

清朝以前、この地は単に「西域」(西の地域)と呼ばれていました。

「新疆ウイグル自治区」すなわち「西域」は、東は甘粛省、青海省などと接し、西はインド、アフガニスタン、パキスタン、タジキスタン、ロシア、モンゴルなど8か国と国境を接する広大な地域です。

パミール高原はこの地域の西側にあり、漢代の西域の説明…玉門関の西、パミール高原の東…に一致しています。

張騫の冒険

張騫以前

『漢書』は後漢の時代(B.C.206~8)に書かれた前漢(25~220)の歴史書で、中国人が「西域」と正式に出会ったのはこの時代、つまり前漢の時代です。

「正式に」というのは、それまでにも中国の西に住む人々がラクダに乗って砂漠を横切り中国大陸に入ったことはあったからです。

20世紀初頭何人かの探検家が「西域」の砂漠を探検し、砂にうずもれていた多くの考古学的資料を発見しました。それらによると紀元前1200年にはすでに「西域」に暮らすさまざまな人々が殷王朝に贈り物をしてことがわかっています。殷王の后・婦好の墓からは多くの玉の装飾品が発見され、その一部は西域のホータンで採れる玉でした。

武帝の登場

前漢の第7代皇帝である武帝(B.C.156~B.C.87)は、それまでの皇帝が低姿勢で接してきた匈奴に対して戦いを挑み、優れた将軍たちの手腕により次々と勝利を収めていきました。

そんな時武帝は匈奴の捕虜から耳よりな話を聞きます。匈奴によって西に追い払われた月氏(げっし)という国が、漢と組んで匈奴を挟撃しようともくろんでいるというのです。

匈奴は漢にとって長年の宿敵です。この話に乗りたい武帝ですが、中国大陸の西の果てとはいったいどんな場所なのか、月氏国というのはどこにあるのか、どういうルートをたどればそこに着くのか、紀元前のこの頃漢に住む者のほとんどにとってこれはまったくの謎だったのです。

そこで武帝は西方に旅して月氏国を探してくる者はいないか、誰か名乗りをあげよと呼びかけます。そこで張騫という名の身分の低い役人が手を挙げ抜擢されたのでした。

100人の従者を与えられ未知の西域に旅立った張騫は、途中匈奴に捕まり10年もの長きに渡って捕虜としての生活を送るのですが、やがてスキを見て脱出。月氏国、この頃は大月氏(だいげっし)国と名を変えた国にたどり着きます。

ところが当の大月氏国では漢と協力して匈奴を挟撃したいという考えはすっかり忘れられていました。結局張騫は武帝の命令を果たすことができず、漢に戻ろうとします。が、帰路ふたたび匈奴に捕縛、また1年ほどを匈奴の捕虜として過ごし、今度もスキを見て脱出、長安の都に無事戻りました。

出発からは実に13年もの月日が経ち、100人の従者はたった一人になっていました。

当初の目的は果たせなかったこの冒険旅行ですが、自分の足でいわゆる「西域」エリアを歩き回った張騫は西域各国…大宛国(フェルガーナ…現在のタジキスタン、ウズベキスタン、キルギスタンにまたがる地域)、康居(こうきょ。ソグディアナ。かつてシル-ダリア流域に存在した遊牧民の国家)、大夏(たいか…バクトリア地方)を訪れ、これらの国と社会を見聞しました。

漢に戻った張騫は自分の見聞を問われるまま武帝に話します。覇気あふれる武帝は好奇心に胸躍らせて張騫の土産話に耳を傾けました。武帝は特に交易への関心をかき立てられました。中でも「汗血馬」(かんけつば)と呼ばれる大型でたくましい馬に武帝は強い関心を持ちました。匈奴との戦いで、中国産の馬では体の大きさで匈奴の馬にかなわず、武帝は悔しい思いをしていたのです。

大月氏と手を結んで匈奴を倒すという張騫の外交的使命は実を結びませんでしたが、漢の朝廷には「西域の情報」という大きな成果がもたらされました。未知のエリアだった西域が、エキゾチックな魅力あふれる場所として初めて中国人の前に登場したのでした。

西域諸国

ここでは、前漢の武帝の時代初めて西域を訪れた張騫の足取りを追って、司馬遷の『史記』大宛列伝から、古代西域諸国のおおよそを紹介しましょう。

これら西域諸国は現地名とそれを漢字で記した中国名があります。( )にカタカナで記したものが現地名です。

大宛

「大宛(フェルガーナ)は匈奴の西南、漢の西に位置し、漢からおよそ1万里の場所にある。ここでは稲や麦を植えており、ワインがあり、良い馬が多い。

馬は血のような汗を出す馬、汗血馬で、その先祖は天馬である。70余りの町や村があり、人口は数十万人。

この国の北に康居という国があり、西には大月氏国、西南には大夏、東北に烏孫、東に于闐(うてん)がある」と張騫が語った話が『史記』には書かれています。

武帝はこの汗血馬を求めて2度大宛に遠征部隊を送りました。

楼蘭…楼蘭の美女・さまよえる湖「ロプノール」

楼蘭(クロライナ)、姑師(トルファン)は町に城郭があり、塩沢(ロプノール)に臨む」

史記』にこう記された「楼蘭」は「楼蘭の美女」と呼ばれるミイラで有名です。

死亡年齢40歳とされるこのミイラは紀元前19世紀に埋葬され、1980年に発掘されました。亡くなってから4000年近く経っているのに、ミイラにはかつての美貌の面影がはっきり残っており「楼蘭の美女」と呼ばれるようになりました。楼蘭国の民は西北インド系民族とされています。

楼蘭はタクラマカン砂漠の北東部にあった都市国家で、さまよえる湖と呼ばれる「ロプノール」(中国名は塩沢)の西に面していました。4世紀ごろにロプノールが干上がった後、この国も砂漠の中に消えていきました。1900年にスウェーデンの探検家・ヘディンによって遺跡が発見されました。

「楼蘭」という文字と名前の響き、かつて栄えやがて砂漠に飲み込まれていった国、発掘された美しいミイラ…などから楼蘭には「シルクロード」の神秘性を代表する国のイメージがあります。

また『史記』が書かれた時代は「塩沢」と呼ばれた湖「ロプノール」が、「さまよえる湖」と呼ばれるのはこの湖が時代によって場所を変えているからです。

この湖はあまり標高差のない場所にあることから、川への堆積作用や浸食作用によって川筋が変わりやすく、その結果湖の場所が変わるという現象が起きます。そのことからヘディンによってこう名付けられました。

さまよえる湖・ロプノールは現在完全に干上がっており、JAXAによる衛星写真では耳のような形の干上がったロプノールが映し出されています。

湖床には道路も建設されており、観光客も行けるということですが…「さまよえる湖」という神秘的なロマンの面影は消えてしまったような気がします。

トルファンは現・中国の新疆ウイグル自治区にある町で、住民の大多数がウイグル族です。

ウイグル族の祖先はモンゴル高原の遊牧民族で、9~10世紀に定着して農業を始めました。

トルファンは天山山脈の雪解け水でできたオアシスで、シルクロードで最も高温、西域最大のブドウの産地です。

かつてこの地では漢族と西域民族が相戦い、かつ交流してきました。

烏孫

『史記』では「烏孫は大宛の東北2000里のところにあり、家畜に従って移動している。匈奴と同じ風俗で、弓を射る兵が数万いて勇敢である。もとは匈奴に服属していたが、自らが強くなると服属は名ばかりで、年々の集まりにも行こうとしない」と描かれています。

古代の烏孫国には漢代に武帝の甥の娘、細君がこの国の王に嫁ぎ、烏孫公主と呼ばれました。

烏孫は天山山脈の北にいたトルコ系の遊牧民で、張騫はこの国を通過して大宛に行ったと考えられています。

張騫は後に再び使節として烏孫を訪れており、これを契機に漢と烏孫の交易は盛んになります。こうした関係の中で細君という名の漢の公主の烏孫への降嫁も行われたのでしょう。

康居

「康居は大宛の西北2000里ほどのところにあり、遊牧の民で月氏と風俗が同じ。弓を射る兵が8~9万いる。小国で南は月氏国に、東は匈奴に名目上服属している」と『史記』にあります。

康居もトルコ系の遊牧民族で、ウズベキスタンの首都・タシケントに中心部があったと考えられています。

張騫は大宛に到着した後、馬や通訳を用意してもらってまず康居に行き、そこから大月氏国に送り届けてもらったようです。

康居は古くから東西交易の中心地だったオアシスで、ここを通るキャラバン隊はまずここを目指し、それから大月氏国に向かったといわれています。

大月氏

「大月氏は大宛の西2000里~3000里のところ。南は大夏、西は安息(パルチア)、北は康居に接し、遊牧の民。匈奴と風俗が同じ。弓を射る兵が10万~20万いたので匈奴を軽んじていたが、匈奴で冒頓単于が立つと月氏を攻め破り、老上単于の時には月氏の王を討ち取ってその頭蓋骨で杯を作った。

はじめ月氏は敦煌と祁連山(甘粛省)の中間にいたが、匈奴に敗北した後は、大宛を通り越して、西方で大夏を討ちここを服従させ、この地で国を建てた。

移動できなかった月氏の一部は、祁連山山中の羌族の地を領土として小月氏と号した」

と『史記』は張騫の言葉を伝えています。

安息そしてシリア、ローマへ

「安息は大月氏の西数千里のところにあり、風俗は土着して田畑を耕している。大宛と似ており、これに所属する町は大小数百あり、最も大国である。商売する民がいて、車や船で近隣国家に行き、時にはさらに遠方にも行く。銀を貨幣とし、貨幣には王の顔を描いている。記録は皮に横書きの文字を書く」

『史記』にこう書かれた「安息」はイラン高原にあったパルティア国だろうといわれています。

こうして張騫の見聞はイランに及び、さらに西の「条枝」(シリア)や奄蔡(アルチャク)、黎軒(ローマ)まで言及しています。

張騫の冒険はまさに中国側から見た「シルクロード」の発見で、「西域」とはよく見えない、神秘に包まれた国々をも遥か彼方に微かにとらえた地域全体といってもいいのかもしれません。