越(古代中国・春秋時代)の国の歴史と物語【歴史地図付き】
越は春秋時代に長江流域にあった国です。越は呉とともに、「呉越同舟」の故事や呉越の戦いで有名です。越王・勾践は呉の夫差とともに戦いを繰り返し、互いに屈辱をなめますが、最終的に越の勝利で終わりました。呉越の戦いの物語には、中国四大美女の一人・西施のエピソードもあります。
※上の画像は越の首都会稽(浙江省紹興市)。
目次
- 1. 越とは
- 2. 呉越の戦い
- 3. 呉を滅ぼした後の越
- 4. 范蠡と西施の物語
- 5. 呉越の攻防とそれにまつわる成語
越とは
越(えつ)は古代中国の春秋時代(BC.770~BC.476頃)に長江流域にあった国です。越の人々は体に入れ墨をして断髪つまり髪を結うことなく、中原とは異なる習俗を持っていました。
司馬遷の『史記』では、越国は禹(う…中国最古の王朝「夏」の始祖)の末裔によって建てられた国とされています。越王・允常(いんじょう)の時代に、越は歴史の表舞台に現れました。
呉越の戦い
越の允常は隣国・呉王の闔閭(こうりょ)と戦い、允常が没すると勾践(こうせん)が立って越王となりました。その翌年も呉越は相戦うのですが、その際勾践は囚人(決死隊という説も)を使って呉の恩義を叫ばせながら自決させるという戦法を採り、呉軍がこれに驚いて茫然としているうちに越軍は襲い掛かりました。
この戦いで呉王の闔閭は負傷し、その傷が元でほどなく亡くなってしまうのですが、闔閭は臨終の際息子の夫差(ふさ)に「越の恨みを忘れるな」と言い残します。
夫差は三年以内に父の仇をとることを誓い、毎晩薪の上に身を横たえ、体の痛みを感じるたびに復讐を誓いました。そして楚から亡命してきた伯嚭(はくひ)を宰相にして兵士の訓練に励みました。
それから二年後、夫差は精鋭軍を率いて越を攻めこれを打ち破ります。
越王勾践は五千の兵とともに会稽山にこもりますが、呉軍に包囲されて逃げ道を失い「呉王の臣下になりますので許してください」と言って呉に和睦を求めました。
呉の夫差はこの願いを聞き入れようとしますが、楚からの亡命者で重臣の伍子胥(ご ししょ)が止めます。ところが同じく重臣の伯嚭は和睦するよう呉王に勧めます。実は伯嚭は越の賄賂を受け取っていたのでした。
伍子胥が「今越を滅ぼさなければ将来の禍根となりましょう。越王勾践は賢君であり、家臣の范蠡(はん れい)もまた優秀な男です。勾践が国に戻った後はまた呉に刃向かうでしょう」と諫めたのですが、夫差はこれを聞かず勾践を許して帰国させてしまいました。
越王の勾践は国に帰ると、苦い肝をそばに置いてはこれをなめ、「会稽の恥を忘れまいぞ」と誓うのでした。
それからの七年間勾践は質素を旨とした生活をし、臣民を大切にして士気を鼓舞し、呉への報復を念じ続けました。
一方夫差の方は、越に注意を払うようにという伍子胥の度重なる諫言にまったく耳をかさず、斉を征伐に行ったり伯嚭の讒言を聞き入れたりして、最後は伍子胥に自害を命じました。
伍子胥は「自害せよ」という夫差の命令を聞くとこれを嗤ったあと、「わしが死んだ後この目をえぐりだして呉の東の門に置け。その目で越軍が呉城に攻め入ってくるのを見とどけてくれるわ」と言って自害します。この後夫差は政治を伯嚭に任せてしまいました。
3年後、越王勾践は家臣の范蠡に「伍子胥が死んでから呉王の周りはおべっか使いしか残っていないだろう。そろそろ呉を討ってもいいのではないか」と言うと、范蠡は「いや、もうしばらくお待ちください」と言って止めました。
翌年、呉王夫差が北方の諸侯と黄地で会盟(かいめい…覇者が諸侯を集めて盟約をすること)しようと出かけると、呉の国内には皇太子と老人子供婦女だけが残りました。
越王勾践が再び范蠡に呉討伐について問うと范蠡は今度は首を縦に振りました。こうして越は呉を襲い、勝利を収めました。
黄地にいた呉王夫差は会盟に集まった諸国にこれを知られるのをおそれ、秘密にして越に和睦を請い、越はこれに応じました。
その4年後越は再び呉を討ち、呉の都を包囲して夫差を姑蘇の山に追い詰めます。夫差の部下が越王に和睦を願いに行くと、越王勾践はこれを受けようとします。すると范蠡が「今、天は呉を越に与えようとしています。天に逆らうおつもりですか」と諫めました。
勾践は范蠡の言葉を受け入れたものの夫差を憐れみ、東の邑に百戸を与えその長にしようと伝えたのですが、夫差はこれを断りました。呉王夫差は「伍子胥に合わす顔がない」と言って自刎して果て、こうして呉は滅びました。
呉を滅ぼした後の越
呉を滅ぼしたあと越は呉の領土を得、長江下流の地を我が物とします。その後は北上し、都を一時蘇州から山東の琅琊(ろうや)に移しました。東方の諸侯を征伐したり、斉や晋の諸侯と徐州で会盟するなどして、越王勾践は諸侯から覇王と呼ばれるようになりました。
ところが勾践が死ぬと越の力は衰えていきました。
春秋の終わりに鮮やかな花火のように歴史に登場した呉と越は、こうしてともに歴史の舞台から消えていきました。
越王勾践の活躍に力があった家臣の范蠡は、その後斉に行き、越に残っていた勾践の腹心の一人・文種(ぶんしゅ)に手紙を送りました。
その手紙には「越王の勾践という人は首は長く、口はとがっていて鳥のようです。あの方とは苦労をともにすることはできますが、楽しみは共にすることはできません。なぜあなたは越から逃げ出さないんですか」とありました。
范蠡は斉に行くと名前を「鸱夷子皮」(しいしひ)と変え、行く先々で商売に成功するとともに名声を残したといいます。
范蠡と西施の物語
以上は主に『史記』「越王勾践世家」に記されている内容です。
後世范蠡といえば必ず西施(せいし…中国四大美女の一人)が浮かぶのですが、『史記』にはこの名は出てきません。
西施は春秋時代に実在した女性だといわれています。
范蠡が呉王夫差の戦意を失わせるため美女を献上する策を立て、そこで美女さがしに出かけある村で西施に出会います。
当時西施は13、4歳くらい、彼女はこの「選美」(美人コンテスト)に選ばれて宮中に送られます。
彼女は3年間、越王からの贈り物として恥ずかしくないように歌舞や礼儀、立ち振る舞いなど、当時美女に必須とされた教養を学びました。17歳になると呉王夫差のもとに送られるのですが、果たして夫差はこの美女にうつつを抜かし、政治や国防をおろそかにして国を滅ぼしてしまいました。
『史記』に西施の名が出てこないことについて歴史家は、西施のように女性が外交の道具として使われるのは当時普通のことで、取り立てて名前を出すような存在ではなかったからだと言います。
ただ『墨子』『孟子』などさまざまな本では古くから西施の名は取り上げられてきました。
たとえば『墨子』には「西施之沈、其美也」(西施が沈められたのはその美しさのせいである)と書かれていて、墨子(ぼくし…戦国時代の思想家)が生きた紀元前4~5世紀すでに西施という美女の存在は人々に知られ、その最期が川に沈められたのだと考えられていたことがわかります。
西施の最期について一説では呉王が自殺する前に、西施を皮衣に包んで長江に投げ捨てたとか、越王勾践が越に戻ってきた西施を同様にして長江に沈めたとの説もあります。
さらにまた別の説では越王勾践の妻が西施の美貌に嫉妬し、自分の夫もまた呉王と同じようになるのではないかと邪推して川に沈めたともいわれています。
いずれにしても何者かによって西施は「鸱夷子皮」という皮で作られた袋に入れられ、川に捨てられたというのです。
政治の道具となって利用されたあげく、こんな悲劇的な最期ではあまりにも哀れということでしょうか、昆劇『浣紗記』では勾践の部下・范蠡が西施を呉王夫差に送ってから10年の後、西施が呉から戻ってくると彼女を妻にしたという話になっています。
『史記』に書かれているその後の范蠡についての話では、呉滅亡後、范蠡は猜疑心の強い越王勾践に殺されることを恐れて越から逃げ出し、名前を「鸱夷子皮」と変えて太湖に船を浮かべ斉に渡ったとあります。「鸱夷子」というのは西施を包んで捨てたとされる皮袋のことでもあります。なぜ范蠡は「鸱夷子」という名前に変えたのか。ある学者は范蠡は西施が好きで忘れられなかったからではないかと解釈しています。
呉越の攻防とそれにまつわる成語
呉越の攻防はきわめてドラマチックなので、この物語からは以下のようないくつもの成語が生まれています。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)…呉の夫差が父の仇を討とうと薪の上に寝たり、越の勾践が会稽山の屈辱を晴らそうと肝をなめたように、復讐や目的を達成するために苦労をすること。
会稽の恥(かいけいのはじ)…越の勾践が会稽山で屈辱をなめたように、敗戦の屈辱をなめること。または以前受けた恥辱のこと。
呉越同舟(ごえつどうしゅう)…呉と越のように仲の悪いものどうしが同じ場所にいること。また敵同士が行動をともにするとの意味も。
顰に倣う(ひそみにならう)…胸を病んだ美女・西施が顔をしかめているのを見て、自分も顔をしかめれば美女に見えるかと思って真似た醜女がいたという話から良し悪しを考えずに人まねをして笑いものになること。