楚の国の歴史・地図・物語 【古代中国、春秋戦国時代の大国】
楚(そ)とは春秋戦国時代の大国で、一時は大きく勢力を伸ばしましたが、のちに秦に敗れ滅亡しました。楚は末期に屈原という偉大な詩人を出し、滅亡時の項燕将軍、滅亡後の項羽や劉邦など時の英雄を輩出しました。
目次
- 1. 楚とは
- 2. 楚の成り立ち
- 3. 楚の台頭と荘王
- 4. 楚という国家の特殊性
- 5. 楚の滅亡と屈原
- 6. 楚の末裔…項羽と陳勝・呉広の乱
楚とは
楚とは古代中国・春秋戦国時代にあった国で、春秋末期BC.223に秦によって滅ぼされました。楚は現在の湖北省・湖南省・江蘇省・安徽省・江西省・浙江省などにまたがる広大な領土を持つ国家で、首都は郢(えい)、現在の湖北省江陵の北にありました。
春秋戦国時代の楚の地図
楚の成り立ち
楚は中国神話伝説にある三皇五帝の一人・黄帝の末裔で、周の文王の時に楚の蛮地に封じられ周王朝の子爵になったといわれています。
古代中国では黄河中下流域を中原(ちゅうげん)と呼びここを中華文明の中心と考え、周囲は東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・北狄(ほくてき)と呼んで、異民族が暮らす蛮地(ばんち…文明的ではない未開の地域)と見なしていました。たとえば古代日本は、中国の歴史書では「東夷伝」(東夷に関する記述)の中で扱われています。
楚が黄帝の末裔なら、中原の民族が南下して国を作ったことを意味するのかもしれませんが、発掘されている楚の出土品からは、楚の文化が明らかに中原とは異質であることを示しています。楚は南方の異民族によってできた国という説が有力です。
西周の昭王の時、楚は征伐の対象となり、昭王はこの征伐の際、死んだか行方不明になったとされています。
西周第9代夷王(いおう)の時周王室は衰え、諸侯の中には周に従わず互いに争うものがありました。
この頃、楚の熊渠(ゆうきょ)は、長江や漢水(かんすい…長江支流。漢江とも)地域を治めて民心を得ており、軍を周囲の小国に向けて征伐していました。そして「我々は蛮夷(ばんい…野蛮人)だから中原のしきたりに従う必要がない」と言って自分を王と呼ぶようになりました。
当時周王室の藩屏(はんぺい…守護役)であった諸侯国の主を王と呼んではならなかったのですが、楚は自分たちを「蛮夷」とする周王室や中原諸国からの蔑視を逆手に取ったのです。
夷王の子・厲王(れいおう)は暴虐の王であったので、楚は周の征伐を怖れ王と自称することをやめましたが、その後、熊徹(ゆうてつ)の時代に再び王を名乗るようになり、熊徹は楚の初代の王・武王となりました。
楚の台頭と荘王
楚の武王の子・文王は郢を都に定め、周囲の小国に恐れられるようになりました。
この頃、斉の桓公がBC.679に会盟(かいめい…春秋時代、覇者が諸侯を集めて盟約を結ぶこと)して中原の覇者として認められました。
当時楚も斉に匹敵する強大な国家となっていました。
楚の成王の時、斉の桓公が楚を滅ぼそうと遠征してきましたが、成王はこれを防いで桓公と盟約を結び、一方自らは周囲の小国を滅ぼしました。
その後宋の襄公が会盟をしようとして楚を招くと、「弱小国の宋が楚の王を招くとは無礼千万。友好を装って討ってくれよう」と宋に出向き襄公を捕らえて辱め、その後宋を討ちました。
楚の第6代荘王は、BC.606洛水(らくすい…河南省を流れる黄河の支流)に向けて進軍し、周の都・洛邑(らくゆう…河南省洛陽の西にあった都市)のそばで軍事演習をやっていると、東周の定王が荘王をねぎらうために重臣を派遣しました。
その時荘王はその重臣に周王朝に伝わる九鼎という宝物の大小や軽重について聞きました。九鼎というのは、夏を建てた禹王が九州(中国全土)から黄金を集めて作った鼎(かなえ…青銅器などで作られた古代の器物)のことで、周王朝の王権の象徴、日本でいう「三種の神器」のようなものです。
荘王は「いずれこの宝物は我が楚がいただく」、つまり「周の王権を奪うぞ」という意味で九鼎の大小や軽重を聞いたのです。するとこの重臣は「鼎の大小、軽重はその持ち主の徳によって変わるもの。周王朝がこの九鼎を戴いている以上、天は周に支配者としての使命を与えているのです」と毅然として言い返しました。
この言葉を聞いた荘王は、周を倒すのはまだ時期尚早かもしれないと思い直し、楚に引き返したといいます。
この話は成語「鼎の軽重を問う」(かなえの けいちょうを とう…権威・権力がある人の能力を疑い、その権威・権力を奪おうとすること)として今も使われています。
さてその後も荘王は、陳や鄭を属国化し、晋との戦いでも勝利して晋の影響力を奪っていきます。さらに中原諸侯に対する影響力も強め、「春秋五覇」の一人にも数えられる大物政治家になりました。
ちなみに春秋五覇とは春秋時代に現れた5人の覇者(実力と名声を兼ね備えたリーダー)のことです。誰をこの五覇に数えるかは諸説ありますが「斉の桓公」と「晋の文公」だけは必ずこの中に入ります。
『漢書』(かんじょ…前漢の歴史を書いた正史)では、楚の荘王は自らを王と称し、周王室に対する尊王意識を欠いているとして覇者と認めていませんが、荀子はこれを覇者として数えています。
荘王にちなんだ成語に「鳴かず飛ばず」というものがあります。「なんら活躍することなく過ごしている」という意味です。
荘王は父穆王の死後即位しますが、3年間ただ自堕落な暮らしをしていました。しかも自分を諫める者は斬るとまで言う始末です。
忠実な家臣が諫言すると「3年鳴かず飛ばずだった鳥はいったん飛び立てば天にも届くだろう。心配するな」と言うのです。
こうして3年後、荘王は動き出すや安心しきって職務を怠り私腹をこやしていた者を片っ端から処分しました。彼は家臣を油断させて観察していたのです。
この話が元になって成語「鳴かず飛ばず」が生まれましたが、この話の中の「鳴かず飛ばず」は「将来を見据えてチャンスを待っている」という意味で、今の日本語の成語の意味とはだいぶ異なります。
荘王の死後、楚は晋に敗れて覇権を失い、やがて長江下流では呉や越といった国が台頭してきます。
楚の平王の時に重臣・伍子胥(ごししょ)が呉に亡命し、この伍子胥を腹心とした呉王の闔閭(こうりょ)に楚は敗れ都も陥落してしまいます。楚の家臣・申包胥(しんほうしょ)が秦に頼み込んで援軍を差し向けてもらい、やっと呉を撃退しました。その後再び勢いを持ち直した楚は、威王の時に攻めてきた越を破り、逆に越に攻め込んでこれを滅ぼしました。
楚という国家の特殊性
戦国時代にあって楚は他国と異なりいわゆる下克上がありませんでした。王はもとより重職はすべて王の一族で占められ、したがって楚には古代的な氏族制度が残っていました。これは各地を王族がそれぞれ支配する体制で、君主の権力や国の統制が弱く、やがて優秀な臣下による斬新な改革を進めた秦に追い詰められ滅亡に向かいます。
楚の滅亡と屈原
張儀のワナ
秦の恵文王の時、秦は斉を征伐しようとしますが、斉は楚と合従(がっしょう…戦国七雄のうち秦を除いた6国が縦(従)に同盟を組んで共に秦に対抗しようとする説。縦横家の蘇秦が唱えた)を組んでいたので、この連合を引き裂くために秦の宰相・張儀が楚にやってきて、楚王・懐王(かいおう)を以下のように説得しました。
「楚が斉との同盟関係を破棄するなら、秦の土地600里を献上しましょう。こうすれば楚は斉の勢力を弱めると同時に秦を利用することもできます」
この案を喜んで受け入れた懐王は、国境を閉ざして斉との同盟関係を破棄します。
張儀は秦に帰国後そのまま秦の朝廷に姿を見せなかったので、懐王は斉に対する楚の態度が不十分だったのかと思い、家臣を斉の隣国・宋にやってその割符を借りて国交のない斉に送り、斉王を罵らせました。
これに怒った斉王は、秦との関係を改善させ、斉・秦の国交が回復しました。
秦・斉の国交が回復し、楚が孤立すると張儀は朝廷に現れ、楚の使者に「私には6里の封地があるのでこれを楚の懐王に献上しようと思う」と言います。600里の約束が6里、たった1%になってしまったのです。
楚の懐王は張儀のウソに激怒し、秦征伐に出兵しますが大敗。のちに秦は懐王に手紙を送り「秦・楚の国境で秦側にある武関(ぶかん)で楚王と会見し、盟約を結びたい」と呼びかけました。これを受け取った懐王はどうしたものか悩んだ末武関に出向いたのですが、これは秦側のワナでした。これに引っかかった懐王は武関で捕まり、脱出を試みても失敗、病気になって秦の地で死んでしまいました。その後楚は秦との国交を断ちました。
屈原
この懐王の時代に、『楚辞』の詩人として有名な屈原が生きていました。屈原は楚の貴族で、政治家でもありました。
当時の楚にとって大問題は、西の超大国・秦とどう向き合っていくかということで、斉と同盟して秦に対抗するか(合従説)、秦と同盟を組むか(連衡説)意見が分かれていました。
屈原はこうした中で合従説つまり秦に対抗する政策を唱えていたのですが、かたくなで妥協を知らない性格だったために周囲に疎んじられ、王からも遠ざけられてしまいました。
結局楚の懐王は秦からやってきた張儀の仕掛けたワナに落ち、戦いにも負け、王自身が秦に監禁されてしまいました。
屈原はその後楚を追われて国内を放浪し、楚の将来に絶望して汨羅江(べきらこう)という湖南省北部にある長江支流の川に身を投げて亡くなります。
命日は旧暦の5月5日、やがてこの日は中国では「端午節」(たんごせつ)と呼ばれて屈原に由来した節句になりました。屈原の遺体が魚に食われないようにと米を川に投げ込んだことが粽(ちまき)を食べる習慣になったり、屈原を探そうと船を出したことがドラゴンボートレースとなり、これらの風習は中国文化圏では今も残っています。
項燕将軍敗れる
懐王が亡くなるとその子・頃襄王(けいじょうおう)が即位し、秦と講和を結びました。
BC.278に秦の白起(はくき)によって都・郢が攻め落とされ、その後の楚は衰退の一途をたどりました。
BC.225に秦の将軍・李信が大軍を率いて楚に攻め入りますが、楚の将軍・項燕(こう・えん)がこれを撃退します。
翌年秦の将軍・王翦(おう・せん)が60万の大軍とともに攻め込むと楚軍は大敗し、楚王は捕虜になりますが、項燕はなおあきらめずに楚の公子・昌平君を王として擁立し抵抗を続けました。
翌BC.223昌平君は戦死、項燕は自殺に追い込まれて楚はここに滅亡しました。
楚の末裔…項羽と陳勝・呉広の乱
項羽といえば前漢の高祖・劉邦と天下を争った英雄ですが、実は上記した楚の大将軍・項燕の孫にあたります。祖父、孫ともに乱世の英雄でした。
また始皇帝の死後反乱を起こし秦滅亡の口火を切った陳勝・呉広のうち、呉広は自らを項燕と名乗って人々の支持を集めようとしました。偉大な将軍・項燕を楚の人々は忘れてはおらず、死んだことも認めようとしなかったのです。
やがて秦は楚の項羽と劉邦によって滅亡しました。
秦に滅ぼされたとはいえ、楚の影響力は秦に負けてはいなかったのです。