黄帝
ここでは中国の三皇五帝(神話上の天帝たち)の一人であり、中央の天帝である黄帝について紹介します。中国人は自らを「炎黄子孫」(炎帝、黄帝の子孫)と呼ぶことがあります。
目次
- 1. 黄帝とは
- 2. 黄帝、蚩尤に勝利する
- 3. 『黄帝内経』は黄帝の元で書かれた
- 4. 司馬遷と「黄帝」
黄帝とは
黄帝は中国の伝説上の帝王で、三皇五帝の中の1人とされています。三皇の中の1人という説と、五帝の中の1人という説がありますが、『史記』では五帝の最初の1人として描かれています。
寿丘(山東省曲阜市)にて生まれた黄帝は、姓を公孫と言い、名を軒轅と言いました。生まれたときから神霊を持ち、幼い頃から優秀だった黄帝(当時は軒轅)は、成長し聡明な人物となります。
黄帝が育った頃、世の中は神農が治めていましたが、その権威は失われ、諸侯は互いに争い合い、人民は苦しめられていました。
(※『史記索隠』によると、ここで言う神農は、氏族としての神農であり、三皇の1人の神農ではなく、その子孫であると言われています。)
黄帝は争い合う諸侯を征伐していき、結果諸侯たちは黄帝に従うようになります。ただし諸侯の中で蚩尤だけは征伐できませんでした。
黄帝は兵を揃え、食料を増産し、八卦、法律、暦などを作ります。軍備を整えた黄帝は、阪泉の地で神農との決戦を迎えます。この地で三度にわたる激戦を繰り広げた黄帝は、ついに神農を打ち破ります。
黄帝、蚩尤に勝利する
蚩尤は銅の頭に鉄の額を持ち体は獣、その常食は砂、石、鉄でした。兵器を作るのを得意とし、天空を飛び回ったり、風雨をあやつったりする力を持っていました。
黄帝が神農を倒した後、蚩尤は黄帝からその地位を奪い取ろうと戦いを挑みます。激しい戦が繰り広げられ、黄帝側の形勢危うく黄帝の娘までが出陣します。この娘の名は「魃(ばつ)」と言い勇敢に戦いますが、この戦いの後は疲れ果てて天に昇ることができなくなってしまいます。また魃の住むところは日照りが続き、この土地の人々はこれを恨んで魃を「旱魃(かんばつ)」と呼び追い出そうとしました。やがてこの激しい戦は最後に黄帝が勝利をおさめて終わりを告げます。
この勝利の結果、黄帝(当時の名は軒轅)は帝王となり、黄帝と呼ばれるようになります。
『黄帝内経』は黄帝の元で書かれた
黄帝の元には有名な医師がおり、そのうちの一人は今に伝わる『神農本草経』(しんのうほんぞうけい)や『黄帝内経素問』(こうていだいけいそもん)などを著したと言われています。『黄帝内経』は中国最古の医学書で、現代でもよくつかわれる「未病」(みびょう)という言葉はここで初めて使われました。『神農本草経』では365種の薬物を上品・中品・下品の三分類し、上品は無毒で長期服用が可能な薬、中品は毒にもなる薬、下品は毒が強く長期服用が不可能な薬と書かれています。
司馬遷と「黄帝」
中国最大の歴史家司馬遷はその著書『史記』をこの黄帝の記述から書き始めています。『史記』の記述で最も力を入れて書かれた本紀において、黄帝以下の帝王の生涯とその事跡について、時代や人間の徳の盛衰を書いている、と言われます。「黄帝については史実とは思っていないが、これを書くことには価値がある」と断り、五帝という理想的な皇帝のトップに黄帝を持ってきていますが、それは黄帝が徳を修めた帝であることを重視したからだと言われます。中国は徳を修めた帝によって治められる国である…そう言わんばかりの司馬遷の誇りを今の中国の為政者にもぜひ持ってもらいたいものです。中国だけとは限りませんが…。