貂蝉の生涯と伝説【中国四大美人の中で唯一の創作人物】

貂蝉

貂蝉とは

貂蝉
貂蝉。

貂蝉ちょうせん」とは中国四大美女の一人です。春秋時代西施漢代王昭君、唐の楊貴妃、そして後漢末の貂蝉です。この中で前三人は実在の人ですが、貂蝉だけは小説『三国演義』の中で作り出された架空の人物だとされています。

四大美人の生きた時代(年表)
四大美人の生きた時代(年表)。西施が春秋時代、王昭君が前漢時代、貂蝉が後漢~三国時代、楊貴妃が唐代の人です。

「貂蝉」という名前

美女の名前として「貂蝉」はなんとも違和感があります。貂は動物の「テン」のことですし、蝉はそのまま「セミ」です。美女の名前がテンとセミって?!

これはもともとは武将のかぶり物、つまり冠とか帽子の類だったようです。その後南北朝時代になると、このかぶり物で貴人に仕えた女性を「貂蝉」と呼ぶようになったのだとか。

貂蝉の物語の背景

貂蝉は『三国演義』第8回からこの物語に登場します。

董卓
董卓。

後漢の王朝は2世紀の終わりごろから外戚(皇后の親族)と宦官による権力争いが続いて混乱し政治的な空白ができるのですが、そこにもぐり込んだのが董卓とうたくという軍人です。彼は後漢の宮廷に入り込んで専横を極めるのですが、それに対して曹操の呼びかけで反董卓連合ができます。この中には三国時代の英雄・劉備、関羽、張飛もいました。

呂布
呂布。

董卓には呂布という義理の息子がいて、この呂布がめっぽう強く、劉備、関羽、張飛の三人が束になってかかっても完全には打ち負かすことができなかったほどです。

「呂布」対「劉備・関羽・張飛」
「呂布」対「劉備・関羽・張飛」。『三国演義』の虎牢関の戦い。

反董卓連合軍は董卓をいいところまで追いつめるのですが、意見が分かれたり互いに牽制しあったりしてやがて崩壊してしまいます。

董卓は幼い献帝(後漢最後の皇帝)を連れて洛陽から長安に移るとますます横暴になっていき、機嫌を損ねるといつ命を奪われるかわからないので誰も何も言えません。そこで以前も董卓を亡き者にしようと謀った後漢朝廷の高官・司徒おういんが「連環の計」を企てます。「連環の計」の意味はいくつかあるのですが、ここでは美女を使って陥れる「美人計」と仲を裂く「反間の計」の二つを使った策略のことです。

王允
王允。

董卓と呂布

董卓の義理の息子・呂布は『三国演義』最強の武将と言われます。もともとは并州刺史の丁原の養子でした。名馬・赤兎馬せきとばに心奪われて養父を裏切って亡き者にし、董卓の義理の息子となります。この呂布と馬のコンビは「人中の呂布、馬中の赤兎」と称えられています。

美人連環の計

さていよいよ貂蝉の登場です。

ある夜王允は董卓の横暴ぶりに国の前途を憂えて眠れず、庭を散歩しているとこの家の歌妓・貂蝉が月を眺めながら深いため息をついています。彼女はこの年16歳、子供の頃から屋敷内で我が子同然に可愛がっていた少女です。

王允が「どうした?」と声をかけると貂蝉は自分の心配事を打ち明けます。

「近頃ご主人様はお国のことで悩んでいらっしゃるご様子。どうにかしてさしあげたいが、か弱い女の身で何もして差し上げられず、こうしてため息をついていたところです」

王允はこの話を聞いて驚き、彼女の顔をじっと見つめ、はたとあることを思いつきます。そこで貂蝉を画閣と呼ばれる美しい部屋に連れていき、彼女に向かって何度も拝礼し涙を流して「董卓と呂布の父子を美女連環の計で滅ぼそうと思う。ついてはその任を引き受けてはくれまいか」と頼むのです。

貂蝉はその場でこれを引き受けます。王允は再び頭を下げ、「この話はくれぐれも漏らさぬよう」と念を押します。

こうして王允は貂蝉を娘として呂布に引き合わせます。呂布は彼女の美しさに心奪われ、すでに正室があるゆえに側室として彼女をもらい受ける約束をします。

側室として嫁がせるためには良い日取りを選ばなくてはなりません。それに手間取っている間に、王允は貂蝉を董卓にも会わせ、彼もまた彼女の美貌に心奪われます。その様子を見てとった王允は即座に「この娘を董卓様に献上したいと思いますが如何?」と聞きますと董卓は大喜び。

こうして貂蝉は呂布に心惹かれながらも二人の間で双方に良い顔を見せ、時には涙を流したり自ら命を絶つ真似をしてみたりして迫真の演技を繰り広げ、呂布の董卓への憎悪をかき立てていきます。やがて呂布は王允に打倒董卓をそそのかされてその気になり、登城の途中で董卓を倒します。

その後呂布は貂蝉を側室として迎え入れ、下邳の戦いでは正妻とともに呂布の出陣を引き留めていますが、貂蝉をめぐる記述はここで終わっています。

貂蝉が四大美女になったのは?

貂蝉が『三国演義』に出てくるのは上記の場面だけなのですが、なぜ彼女は四大美女とされるまで中国の民衆の心をとらえたのでしょうか?

まずは『三国演義』が中国人からとても愛された物語だということがあるでしょう。みんなが知っている、ほとんど男ばかりの物語に出てくる美しく、しかも男顔負けの度胸を持った少女が貂蝉でした。

彼女はまずとても美しい人でした。

さらには秘密が漏れれば命を奪われる可能性があるのに、最後まで王允との約束を守り、自分の感情に流されず使命をまっとうする智と勇の人でした。

彼女は父でもあり主人でもある王允の国を憂うる心を知って、なんとかこれを助けたいと思う孝と忠と義の人でもありました。

このように美人であるとともに、儒教的道徳観からいって人としてもすぐれていたところに、民衆は女性の理想像を見ていたのかもしれません。

貂蝉の年齢

貂蝉がこの物語の中で活躍した時の年齢は数え年で16歳です。中国の古典で16歳はよく「年方二八」(芳紀まさに16歳)と書かれます。これを日本人はつい「28歳」と読んでしまうのですが、2×8で16歳のことです。

昔の中国で美女とは一般に15歳から20歳までの女性を指し、これ以上の年齢の女性は美女の範疇に入れなかったと言います。そこで古典に出てくるヒロインの年齢も16歳という設定が多いのでしょう。

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