周文王(姫昌)【周王朝の開祖の父】

周文王

周文王とは周王朝の開祖・武王の父です。息子の武王が周を建てたのち父に「文王」と諡したことでこう呼ばれています。人望高かった文王は、また太公望のエピソードでも知られています。日本では釣り好きの代名詞として用いられる「太公望」とは周の軍師呂尚のことで、呂尚は文王に認められて周の軍師となり、兵法書『六韜』を著したと伝えられています。

周文王とは

周文王とは、周王朝の創始者・武王の父のことで周王朝の始祖的な存在です。周文王の本名は姫昌。姓を姫(き)、名を「昌」(しょう)と言い、殷王朝から「西伯」の爵位を授かり「西伯昌」となりましたが、死後「文王」と諡(おくりな…死後の称号)され一般には文王と呼ばれています。

周王朝の地図
周王朝の地図。首都は地図中央左に位置する鎬京(今の陝西省西安)。
年表
年表。周王朝は紀元前11世紀に殷を滅ぼして成立しました。

周王朝の先人

周文王は周王朝の開祖の父に当たる人ですが、周は王朝になる前にかなり古い歴史を持ち、聖王・の時代にまでさかのぼることができるとされています

后稷
后稷。

周族の始祖は后稷(こうしょく)と言い、母親が巨人の足跡を踏んで産気づき后稷を産み落とすのですが、母はこれを不吉と感じ、いったん捨ててしまいます。そこで「棄」(き)と名付けられました。子供をいったん捨てるのは土地の聖霊を体に受けさせる風習とも言われています。

「后稷」というのは「農業を司る長官」という意味であり、舜が周族の始祖に与えた号です。

「后稷」の「稷」は穀物の「きび」のことで、当時もっとも大切な穀物とされていました。

こうしたことから周という部族はその最初から農耕と深いつながりを持っていたと考えられています。

周文王の誕生

周という部族は周の12代目・古公亶父(ここう たんぼ)の時代に岐山(きざん…陝西省岐山県北部)の麓にある「周源」という場所に移ってそこに城郭や集落を築きました。この地名から「周」の名をつけたという説、もともと周という名だったのでこの一帯を周源と言うのだという説があります。

古公亶父には3人の息子がいてその末っ子の息子、つまり古公亶父の孫が昌、のちの文王です。文王は幼少期から高い徳をもっていたといわれ、周囲の期待を背負って周一族の後継者となりました。

周の勢力範囲の拡大

周族の後継者となった文王は武力で勢力を拡大したり、他国の境界線をめぐる紛争の調停者役を果たしたりしました。

この話には以下のようなエピソードが伝わっています。

境界争いをしている2つの国が人望のある文王に調停を求めにくると、周の領地内では民が互いに境界を譲り合い、年上の人には礼を尽くしているのを見て自分たちの争いが恥ずかしくなって調停を求めることをやめ、この紛争は解決したというものです。

文王は儒家によって高く評価された政治家ですので、上記のような物語がたくさん残されています。

周文王と太公望の出会い

文王をめぐるエピソードとして最も名高いのは「太公望」・呂尚との出会いです。

太公望と言えば日本では釣り愛好家の代名詞ですが、この物語は以下のようなものです。

ある日文王が狩りに出かけようとして亀甲で占うと「今日の獲物は天下獲りの助けになる人物だ」というものでした。これを聞いてから狩りに出かけると河のほとりで釣り糸を垂れている老人がいました。話しかけるとなかなかの人物です。そこで文王は彼を車に乗せ連れて帰るのですが、名前もわからず素性もわかりません。そこで周りの者に信用させるために「この人こそは太公(父君)が我が周を栄えさせてくれるとして待ち望んでいたお方だ」と言ったということから「太公望」という言葉が生まれました。

太公望の本名は呂尚といい、予言どおり彼は軍事にも経済にもすぐれた才能を発揮し、有名な『六韜』(りくとう…兵法書。戦国時代の書と考えられている)も呂尚が文王とその子・武王に兵法を指南するという形で書かれています。ちなみに「虎の巻」という言葉はこの『六韜』の中にある表現が元になっています。

「文王を称える大雅」と明治維新

孔子が編纂したといわれる中国最古の歌謡集『詩経』は「国風」(各地の民謡)・「雅」(宮廷音楽)・「頌」(宗教音楽)に分かれ全部で305篇ありますが、この中に「文王を称える大雅」という歌があります。

この歌詞に「周雖旧邦 其命維新」(周は旧邦といえどもその命はこれ新たなり)という言葉があります。周はの時代から始まる古い国ではあるが、文王が天命を受けて天子となったのだからまだ新しい国であるという意味です。

実は「明治維新」という言葉はこの歌詞から生まれたのです。

中国は王朝が倒されては次の王朝が生まれるという「易姓革命」(儒教による王朝交代の理論)の国ですが、日本は天皇家がはるか古代からずっと続いており、革命…天の命令が革(あらた)まる…によって次の王朝ができてくる国柄ではありません。

そこで明治維新の時「革命」という言葉は使わずに「古くから皇室のある国ではあるが、体制は新しくなるのだ」という意味で、詩経のこの歌から「維新」という言葉を採用したのだそうです。

ちなみに明治の日本では爵位が作られ戦前まで存在していました。公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵ですが、この爵位も周王朝が使っていたものです。

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