胡亥の生涯【宦官の陰謀によって即位した秦の二世皇帝】

胡亥

胡亥(こがい)とは始皇帝の末子で、始皇帝が急死したのち、宦官・趙高の策謀により二世皇帝となりました。短い治世はすべて趙高に操られ、最期もまた趙高によって命を奪われました。

胡亥とは

胡亥(こがい…BC.230~BC.207または BC.221~BC.207)とは、始皇帝の末子で、秦王朝第二代皇帝・二世皇帝のことです。始皇帝の死後、始皇帝の側近で宦官の趙高によって第二代皇帝となりますが、趙高によって自殺に追いやられ、秦はその翌年BC.206に滅亡しました。

戦国時代中期の地図
秦王朝の地図。
年表
年表。秦王朝は約15年ほどで滅んでしまいました。
秦二世皇帝陵
秦二世皇帝陵。

胡亥の年齢

胡亥の年齢についてはBC.230誕生説とBC.221誕生説があります。前者ならば亡くなった時の年齢は23歳、後者ならば14歳です。秦滅亡の原因の一つとなった愚昧な王として名を残す胡亥ですが、23歳ならばともかく14歳であれば愚昧というより悲劇の少年王でしょう。

歴史書『史記』の中で、胡亥を死に追いやった趙高が胡亥について「春秋に富む」と語ったとあり、これは20代の皇帝には使えない、10代の少年王にこそふさわしいという学者もいます。

謀略によって皇帝となる

胡亥は始皇帝の末っ子として生まれ、父の寵愛を受けていました。始皇帝最後の全国巡幸の旅についていくことを希望して許されていますので、大勢の始皇帝の子供の中でも特に可愛がられていたことがわかります。

秦滅亡の原因を作った張本人は始皇帝の側近で宦官であった趙高ですが、趙高は胡亥の家庭教師でもあり、法律などを教えたといわれています。

趙高は丞相・李斯とともに始皇帝の巡幸についていき、その旅の途中で病に倒れた始皇帝から長男・扶蘇(ふそ)への遺言となる手紙を預かりました。その手紙を使者に託す前に始皇帝が亡くなったことが、胡亥の運命を決めました。

始皇帝が亡くなった時に胡亥がもし11歳ならばまだ幼い公子、19歳ならばまだ若く未熟な公子であるとともに、自分の教え子であり気心が知れている胡亥が二世皇帝になったならば…趙高が「我が世の春だ」と思ったにちがいありません。

長男の扶蘇はとうに成年となっており、人民からの人望も厚く名将の蒙恬とともに僻地にいる…もし扶蘇が皇帝となったならば、宦官の自分など排斥されてしまう…趙高はこう思ったのかもしれません。

…幸い始皇帝の手紙も玉璽(皇帝の印鑑)も自分が持っている。この手紙さえ握りつぶしてしまえば、扶蘇や蒙恬に自殺を命じる手紙を捏造するならば、邪魔者はなくなる…

こうして趙高はこの計画を胡亥と李斯に伝え、この謀略に気乗りしない彼らをおどしすかし、仲間に引き込んでいくのでした。この謀略のもと、ニセの勅書によって長男・扶蘇や蒙恬将軍は自殺に追い込まれました。

胡亥が皇帝時代に行ったこと

こうして胡亥は秦王朝の第2代皇帝となるのですが、すべては趙高の手のうちで踊らされる傀儡にすぎませんでした。

胡亥は、父・始皇帝の信任厚く、師でもある趙高を心から信頼していたのでしょう。彼は即位すると趙高の進言に従って、自分に心服しない大臣や将来自分と争う可能性のある公子たちの命を奪い始めました。また父・始皇帝の遺志を継いで阿房宮(あぼうきゅう)の工事を再開し、人民や食糧を徴発し、厳しく法を執行しました。

これらのことが人々の不満を呼び、まずは陳勝や呉広が反乱の口火を切りました。

彼らは秦の兵隊でしたが任務に向かう途中大雨に遭い、秦の法律ではたとえ不可抗力でも任務を達成できなければ死刑になるため、それならばいっそと反旗を翻したのです。

彼らは秦に滅ぼされた楚の名将・項燕や始皇帝の長男・扶蘇の名を騙って兵を募りました。項燕や扶鮮は二人とも人望があり、まだ生きているという風説があったのです。

やがてこの反乱はあちこちに飛び火し、秦を滅ぼす大きなうねりとなっていきました。

趙高が権力を簒奪することなく、丞相・李斯に強い信念があって趙高の謀略を退けることができたならば…父・始皇帝を諫めるほどの見識の持ち主であった扶蘇が二世皇帝となっていたならば…父・始皇帝の統治の行きすぎを是正して、秦王朝は末長く続いたかもしれません。

「馬鹿」のいわれと胡亥

日本語の「馬鹿」が何に由来するのか、なぜ愚か者のことを「馬鹿」というのか諸説あります。そのうちの一つはこの胡亥と関係した以下の話から来ています。

胡亥を自分のいいように動かし、我が世の春だった趙高がある日、鹿を胡亥に献上し、「これは馬でございます」と言いました。家臣たちが胡亥につくか、自分につくか確かめようとしたのです。

胡亥が笑って「どうしてこれが馬なのか」と周囲の家臣に聞くと、ある者は「馬ではなく鹿でございます」と言い、ある者は趙高におもねって「いえ馬でございます」と答えました。

趙高は「鹿だ」と言って自分におもねらなかった者を密かに処刑し、その後宮中で趙高に逆らう者はいなくなりました。

胡亥の最期

やがて反乱が全国で起こり、討伐に出た秦軍が退却を余儀なくされるようになると、趙高は胡亥が自分を責めて命を奪うのではないかと恐れ、婿を使って胡亥を自殺に追い込み、遺体は皇帝としてではなく庶民として葬られました。

趙高はその後公子である子嬰(しえい)を次の傀儡に据えましたが、その子嬰によって自分もまた命を奪われました。その理由は子嬰もまた趙高に命を狙われると思っていたからです。

秦王朝はその末期、互いにやらなければやられる恐怖が支配する場所となっていたのでしょう。