荊軻(けいか)【史記に描かれた義侠の刺客の物語】

荊軻

荊軻とは始皇帝がまだ秦王であった時代に、王の依頼を受けて秦王暗殺を企てた人物です。『史記』「刺客列伝」に描かれた荊軻の人物とその物語は、古来ひとびとの胸を打ってきました。

荊軻とは

荊軻が始皇帝を襲う場面
荊軻が始皇帝を襲う場面。

荊軻(けいか)とは中国戦国時代(BC.475~BC.221)の刺客、つまりテロリストです。戦国七雄の一つ・の皇太子に頼まれて秦王・政(のちの始皇帝)暗殺を謀りますが失敗に終わり、燕もこれをきっかけに秦からの攻撃を受けて滅亡します。

荊軻はテロリストつまり現在からみれば犯罪者ですが、彼の物語は今も人々の胸を打ち、映画にもなっています(『荊軻秦王を刺す』、日本語タイトル『始皇帝暗殺』)。

荊軻と燕の太子・丹

戦国時代後期の地図
戦国時代後期の地図。荊軻が暮らした燕は東北にあります。

荊軻は衛という河南省にあった小国の人でした。読書や撃剣を好み、喧嘩を売られてもそれを買おうとはせずに周囲から臆病者と笑われていました。

後に衛を出て諸国を遊歴しますが、戦国七雄の一つ燕の国で、犬殺しを仕事にしている者や筑(ちく)という楽器の名手である高漸離(こうぜんり)という者と仲良くなり毎日いっしょに飲み歩いていました。

酔いが回ると高漸離が楽器を鳴らし荊軻が歌って泣いたり笑ったりして、傍らに人がいないかのようでした。ここから「傍若無人」という成語が生まれました。

こんな生活を送っていながら荊軻は読書を好み、その人柄には落ち着きがありました。遊歴した諸国では賢者や豪傑と呼ばれる人と交わり、燕では田光(でんこう)という人物と知り合いました。田光は付き合ううちに荊軻は並みの人間ではないと思うようになりました。

その後秦の人質として送られていた燕国の世継ぎ・太子丹が、秦王・政の自分に対する待遇のひどさを恨んで燕に逃げ帰ってきました。

太子丹は帰国してから秦への報復を考えましたがうまい手がみつかりません。

当時秦はを討ち日の出の勢いです。にもその勢いが迫ろうとしていました。

家臣に相談しても、「冷たくされたくらいで今の秦にたてついたりすべきではありません。秦にとって燕を討つのはいとも簡単なことなのですよ。秦の怒りを買うようなことをすればどんな禍が起こるかわかりません」と言われてしまいます。

「さてそれではこの恨みをどうやって果たしたらよいのか」と丹に言われ、家臣が「田光先生は人物です。この方に相談してはいかがでしょう」ということで、太子・丹は田光に会うことにしました。

田光が太子の屋敷を訪れ、丹が胸の内を明かすと田光は「私はもう年を取って精力が衰えました。ただ私の親友に荊軻という者がおります。この男は間違いなく太子のお役に立ちましょう」と言いました。

丹がそれではその方にお会いしたいと言って田光はいとまを告げるのですが、その際太子が門口で「今日の話は重大な機密ですので他言なされませんように」と耳打ちします。田光は笑ってうなずきました。

太子の屋敷から戻ると田光は荊軻に会い、太子とのいきさつを話してきかせて丹に会いに行くよう荊軻に言いました。言い終わると田光は「太子は私に秘密をもらすなとおっしゃった。私は疑われたのだ。大事な謀(はかりごと)で人の疑いを招くようでは義侠の士とはいえない。この場で自分は死ぬので、太子には国の大事が漏れることはないと伝えてほしい」と言うや田光は自ら自分の首をはねてしまいました。

荊軻が太子の元を訪れ田光の言葉を伝えると、太子は涙を流して「大事な謀を成功させたいばかりにあのように言ったまでのこと。なぜ自害などを」と嘆きました。実は田光のこの行動には荊軻への励ましもあったと『史記』には書かれています。自分の命と引き換えに荊軻に覚悟と勇気を与えたのだと。

太子・丹の謀とは秦王に刺客を送ることでした。荊軻はいったんは断るのですが、のちに太子のたっての願いに受けることにします。

「私ごときが今秦に向かっても秦王に会わせてはもらえますまい。もし秦から燕に亡命してきた樊将軍の首と燕の領土の一部を贈り物として持っていけば会ってもらえるかもしれません」と荊軻が言うと、太子は「樊将軍は私を頼ってきたお方だ。そんな酷いことはできない」と言います。

そこで荊軻は直接樊将軍に会いに行き「秦はあなたの両親を始め一族をすべて滅ぼしています。今あなたの首を頂戴し、それによって秦王に近づけば、その機をねらって私が秦王を討ちます。こうすればあなたの恨みも一緒に晴らせるのではないですか」ともちかけました。

樊将軍はそれを聞いて「良いことを教えていただいた」と言って自刎します。こうして荊軻は樊将軍の首級と燕からの贈り物、太子が用意した鋭利な匕首などを持って秦に向かいました。

風は蕭蕭として易水寒し

出立の日、見送りに来た人は皆白装束の喪服姿でした。易水という燕の国境の川まで来ると、荊軻は仲間の高漸離の筑が奏でる変徽という名の悲壮なメロディに合わせて即興の詩を歌いました。

風は蕭蕭として易水寒し

壮士ひとたび去って復(また)還らず

(風がヒューヒューと吹きすさぶ。易水は寒い。壮志を抱く男がひとたびここを去れば二度と再び戻ってくることはない)

死を覚悟した歌です。見送りの者は皆すすり泣きました。

この場面は『史記』の中で最も有名な場面の一つで「ひとたび去ってまたかえらず」というセリフは中国では今もさまざまなところで使われています。

こうして荊軻は車に乗って燕を去り、後ろを振り向くことはありませんでした。

咸陽へ

秦の都・咸陽につくとまず贈り物をもって秦王の寵臣に賄賂をおくります。賄賂を得た寵臣は、荊軻が樊将軍の首級と燕の領土の一部を秦王に差し上げるべくやってきたと、秦王に伝えます。秦王・政はこれを聞いて喜び、荊軻を咸陽宮で謁見します。

秦王に会った荊軻が領土の地図を広げようとした時中から匕首が出てきました。荊軻は左手で秦王の袖をつかみ、右手に匕首を持って王を刺そうとしました。

王が驚いて後ろに退くと袖がちぎれ、王を刺すことはできませんでした。秦王は自分でも剣を抜こうとしましたがあわてていたのでうまく抜けません。

荊軻が逃げる王を追いかけると王は柱をめぐるようにして逃げていきます。

周りの家臣たちはあわてふたむきますが、王の命令がなくては剣を持って王に近づくことはできない決まりです。

秦王の侍医が薬箱を荊軻に投げつけ、荊軻がひるんだスキに家臣が「秦王様、剣を背中に背負いなさいませ」と声をかけると、王は剣を背負ってやっと鞘から剣を抜くことができました。

一方は短い匕首、一方は長い剣、王の方が優位に立ちました。秦王がその剣で荊軻の左股を切ると荊軻は尻もちをつき、匕首を王に投げつけました。匕首は王に当たらず、王は荊軻にさらに切りつけます。8か所に傷を負った荊軻は観念して座り込むと笑い出し、秦王を罵りました。

この後荊軻は王の家臣によって討たれ、燕の太子による秦王暗殺計画は失敗に終わりました。

その後の燕

秦王暗殺未遂事件は燕の家臣が心配したように燕滅亡の引き金となりました。秦はこの事件を大義名分として燕に遠征軍を送ります。BC.226に燕都陥落。丹もまたその過程で討たれました。丹の死によって秦による対燕戦は中断。秦は対楚戦に注力します。楚を平定すると再び燕に大軍を送り、燕王を捕虜としBC.222燕を滅ぼしました。

悲劇のヒーロー・荊軻の魅力

『史記』刺客列伝の中で司馬遷は荊軻についてこう書いています。「自分が一度決めたことをうやむやにせず、自分の意志を裏切ることをしなかった。こうして名を後世に残した。これがどうしてむなしいことだろうか」

士はおのれを知るもののために死す…刺客列伝にある言葉です。

荊軻は『史記』を読むかぎり、その前半生は一見自堕落で、地位も家柄もまともな職業もなかった人物のように見えます。

そんな男である自分を「こいつはただものではない」と信じてくれた田光の思いにこたえるために、荊軻は秦王を討つというきわめて可能性の低い無謀な企てを引き受けました。

自分を男として見込んでくれた者のために命をかける…この日本の任侠の原型のような純な生き方と相まって、「風は蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去って復た還らず」という悲壮な調べが、荊軻を悲劇のヒーローとして歴史の中にくっきりと残すことになったのではないでしょうか。