敦煌

敦煌

敦煌とは中国の西、甘粛省にある都市で、かつてはシルクロードの要衝の地でした。西からの旅人にとっては中国への入り口であり、中国からの旅人にとっては西域への出発点です。

敦煌はまた莫高窟(ばっこうくつ)という名の仏教遺跡でも有名です。ここには、492の石窟があり、20世紀初め、その1つで数多くの巻物が発見されました。これを敦煌文書といい、シルクロードを行き交ったさまざまな民族の言葉で書かれています。のちに莫高窟は世界遺産となり今やここには世界中の観光客が訪れます。

敦煌とは

敦煌とは中国の西、甘粛省にある都市で、古代シルクロードのオアシス都市です。中国からは西域への出発地点であり、西からの旅人にとっては中国への入り口でした。古代には中国と西域のオアシス諸国との交易の中心として繁栄しました。

敦煌の地図
敦煌は漢の最西端に位置しています。

4世紀ごろには仏教の中心地となり、この地の僧侶たちが岩壁に石窟を掘り、瞑想用として用いました。

5世紀ごろには釈迦の生涯を石窟に描くようになり、多くの参拝者や巡礼者を集めました。この石窟が集まっている場所を莫高窟、または千仏洞と呼びます。

1907年にイギリスの探検家スタインによって、莫高窟の石窟の1つに数多くの文書が隠されていたことが発見され、この文書はのちに「敦煌文書」と呼ばれるようになりました。

莫高窟
莫高窟。
莫高窟内部
莫高窟内部。
莫高窟内部
莫高窟内部。

古代の敦煌

敦煌はタクラマカン砂漠の東に位置するオアシスで、紀元前2000年ごろに人が定住するようになりました。

その後この地は月氏匈奴など西域における強力な民族の支配を受けてきました。

前漢武帝の時代に匈奴攻略のために張騫が月氏国に派遣され、それをきっかけに西域との交易が始まったことで、匈奴の支配下にあった河西回廊の直轄支配を進めました。

河西回廊というのは黄河の西と漢最西の関所、玉門関を結ぶ回廊のような細長い場所のことです。ここは西域に行くには必ず通らなければならない交通の要所であり、5つのオアシスが並ぶように点在していました。この5つのオアシスの最西端が敦煌です。

武帝以前、は軍事的、外交的に匈奴におされていましたが、武帝に仕える霍去病将軍などの活躍によって匈奴は北漠の地(ゴビ砂漠の北。モンゴル)に追われ、河西回廊のオアシスは漢の支配下に入ります。

敦煌が漢の支配に入ったのはBC.111といわれていますが、諸説あります。

こうして漢の都長安は敦煌を中継地点に西域の国々と直結するようになり、西域貿易が一挙に拡大して、安息(パルチア)、黎軒(アレキサンドリア)、条枝(シリア)、身毒(インド)などに交易を求める使節が送られました。

その後敦煌は、後漢、西涼、北魏、隋、唐の支配を受け、唐が弱体化すると吐蕃、北宋、西夏、モンゴルと、さまざまな民族に支配されました。

莫高窟(千仏洞)

莫高窟
莫高窟。

敦煌では4世紀ごろから地元の僧侶たちが、岩肌に石窟を掘り、そこで瞑想をするようになりました。

5世紀になると石窟内部の壁に釈迦の生涯を描くようになります。

こうしてここは仏教徒たちが参拝し、巡礼する場所となりました。

石窟の南北の長さは1600メートルで5層になっており、一番高い所は50メートルあります。

現存する洞窟は全部で492ありますが、この石窟群を莫高窟、または千仏洞と呼びます。

南北朝期の石窟は36、隋代は約100、唐代の石窟は約300で石窟全体の約60%を占めます。

宋代以降石窟の形はやや変化し、西夏以降新しく作った石窟はありません。

元代の石窟は宋代に似ており、その後莫高窟は衰退していきます。

敦煌は唐代以降諸国の戦いの場になっていきました。

スタインと敦煌文書

イギリスの探検家オーレル・スタインは20世紀初頭、シルクロード各地で探検し数多くの成果を挙げていますが、その中で最もよく知られたものは敦煌文書の発見です。

そしてこの発見によりスタインは特に中国において悪名高き歴史上の人物になりました。

なぜなら彼は莫高窟の1つに隠されていた貴重な文献を、中国政府や中国の研究者には知らせずこっそりと大量に安値で持ち出したからです。

この貴重な文献こそ「敦煌文書」として世界に知られるものです。

20世紀初頭の世界は帝国主義の時代でした。

強いものは称えられ、弱い者は食い物にされ、そのことに誰も同情することはありません。

当時の中国は清朝末期。

西域の文化財管理はいい加減で、中国の学者たちも自ら敦煌くんだりまで調査に出かけるものはいませんでした。

こうした状況のもと貴重な文化財が大量に敦煌から持ち出されたのです。

イギリスの探検家だけでなく、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシアそして日本の探検隊もここでわずかに残った文献を買い取っています。

みな当時の列強国です。

スタインが敦煌文書を発見した経緯は以下のとおりです。

最初の発見者はスタインではなく王圓籙という名の元兵士です。

彼は後に清朝の軍から離れて放浪し、その過程で道教の道士となり1900年頃敦煌にやってきました。

その後莫高窟で管理人を始めた王道士は、莫高窟の第16窟でタバコを吸っていると煙が石窟の入り口から奥へと流れているのに気づき、奥の壁の一部を叩き壊してみました。

するとそこは隠し部屋になっていて、中は約16立方の空間、そこに文書が3メートルの高さまで積み上がっていたのです。

王道士は地方の役人にこのことを伝えましたが、ちょうどこの頃清では義和団の乱が起きた後で、清朝政府にはこの文書を回収する資金がなく、そのまま文書を洞窟の奥に残して管理するよう王道士に命じるのみでした。

それから7年後、2度目の探検で中央アジアにやってきていたスタインがこの話を耳にします。

スタインは王道士に近づくために、自分は僧正玄奘を尊敬している者だと装いました。

玄奘のように写本を集めてインドの仏教寺院に送るのだと伝えると、王道士は警戒をゆるめました。

こうして約11000点以上の文書を秘密裏にスタインに売り、王道士はそのお金を石窟を修復する費用に充てました。

王道士はまったく文字の読めない人だったといいます。

さてこうして多くが外国に持ち出された敦煌文書ですが、そのほとんどは仏教に関する宗教書でしたが、中には道教、マニ教、ゾロアスター教、キリスト教(ネストリウス派)などに関するものもありました。

このほか公的な書簡や個人の手紙、外国語の会話集、暦、売買契約書、質屋の書類、会計台帳、医学、数学、歴史、ワインの作り方、織物についての参考書など文書の内容は多岐にわたります。

使われている文字は、漢字のほか、ホータン語、サンスクリット語、ソグド語、タングート語、チベット語、古ウイグル語、クチャ語、ヘブライ語、古チュルク語などの文字です。

現在これらの敦煌文書はデジタル化され、オンラインで読むことができます。

いつ誰がなぜ敦煌文書を隠したのか

ではいったいこれらの文書をいつ誰がなぜ隠したのでしょうか?

一説には11世紀の半ば、敦煌など西域一帯が西夏に征服された時期に、略奪や焼却を恐れた修行僧たちが隠したのではないかといわれています。

井上靖の『敦煌』ではこの説に基づいて、今から1000年近い昔、敵襲来の緊迫した中で仏教経典を守ろうとする若い僧侶たちが荷造りするさまが描かれ、敦煌文書というきわめて学術的な価値の高い、ある意味抽象的な存在のために生きた人間のにおいが漂い始めます。

ところが、いやそうではない、という説もあるのです。

その説によると、西夏は仏教を準国教として重んじたのだから、僧侶たちがそんなに恐れるはずはなかったというのです。

そうするとなぜあんなに大量の文書が隠されていたのか?

それは要らなくなったから捨てたのだ、だからあんなに内容に一貫性がないのだというのです。

要するに隠し場所は1000年前のゴミ箱だったと身も蓋もない話です。

この説によると、むしろゴミだったからこそ、集めたことに意図がなかったからこそ客観的な過去の史料になり得たのだといいます。

確かに外国語会話集とか質屋の書類とかワインの作り方とか、わざわざ残したとしたらあまりに脈絡がなく、でも逆にだからこそ過去の史料としてはワクワクするほど面白いともいえそうです。

中国の傷と世界遺産と

敦煌文書はある意味、中国が列強によって弱肉強食のターゲットになっていた時代の証拠品ともいえます。

随分前になりますが新聞にあるシンポジウムについての話題が載っていて、その中で、日本の学者が「敦煌は中国にあるが敦煌学は日本にある」と言って中国側から批判を浴びたとありました。

敦煌文書に関する研究では日本の学者はすぐれた成果をあげており、「敦煌学」という言葉も日本で作られたものです。

日本の学者はその成果を伝えようとしただけなのかもしれませんが、それは中国人の痛みに触れてしまったのでしょう。

欧米でも「私が敦煌ならパリかロンドンに連れていってもらった方がよい。北京よりきちんと保存してもらえるから」と学者が言ったという話もあります。

文革では歴史的な文物は迫害を受け失われたものも多いので、あのまま敦煌文書が中国に残っていたならばどうなっていたかはわかりません。

またスタインの行為も中国側のずさんな管理に責任の一端はあります。

1987年敦煌の莫高窟は世界遺産に登録され、世界中から観光客が訪れます。