匈奴の歴史~紀元前に北アジアを支配した騎馬遊牧民族~

匈奴

匈奴(きょうど)とは古代中国史にたびたび登場する騎馬遊牧民族です。冒頓単于という王の時代に全盛期を迎えました。のちに匈奴は南北に分かれ、南匈奴はに服属、北匈奴は北方や西方に追われていきました。

匈奴とは

匈奴は北アジアにおける最古の騎馬遊牧民族で、中国の戦国時代から五胡十六国の時代にかけて、北アジアや中国の北部を支配した騎馬遊牧民族の総称です。戦国時代には戦国六雄に協力して攻略に参加したり、李牧将軍と戦って敗北したりしています。秦朝時代は蒙恬(もうてん)の活躍で匈奴はオルドスから追われました。漢王朝成立直前には、高祖・劉邦が匈奴で最も勇猛な冒頓単于の軍に包囲され、以後は力関係において匈奴の下に甘んじました。武帝の時代に漢は黄金時代を迎え、衛青や霍去病といった優れた武将により対匈奴戦は連戦連勝。これ以降匈奴の勢いは衰え、やがて南北に分裂。南匈奴は漢に帰順し、北匈奴は北や西に追われていきました。

秦と匈奴の地図
秦と匈奴の地図。匈奴は左上に位置しています。
漢の地図(bc60)
前漢の地図。匈奴は左上に位置しています。
年表
匈奴は戦国時代~五胡十六国時代にかけて存在しました。

匈奴の起源

匈奴」の名はBC.318に中国の文献に初めて登場しましたが、その時はすでに強力な政治勢力を持つ集団として描かれていました。

北アジアの騎馬遊牧民族はそれぞれオオカミなどを始祖とする伝説を持っていますが、匈奴にはそうした始祖伝説がありません。こうしたことから「匈奴」という単一民族がいたわけではなく、古代中国の戦国時代(BC.475~BC.221)から五胡十六国(304~439)の時代にかけて、北アジアや中国の北部を支配エリアとした騎馬遊牧民族の総称であり、19の部族が連合した政治集団だったと考えられています。

匈奴の起源やその本拠地などについては、近年の考古学の進展によりその実態が少しずつ明らかになってきていますが、まだその真実の姿をはっきりと捉えるところまではいっていない謎の集団です。

匈奴と中国の関わり

戦国時代

匈奴の名前が中国の歴史に現れるのは、古代中国の戦国時代、いわゆる戦国七雄)が生き残りをかけて戦いを繰り返していた時代です。

陝西省にあった秦は中原(ちゅうげん…黄河中下流域)の国々から夷狄(いてき…野蛮人)として見下されてきましたが、秦は孝公の時代に「商鞅の変法」という改革を実行して急速に国力をつけ、東方の中原の地に向かって進出を図るようになっていました。

そこで東方の韓・魏・趙・斉・燕の5か国は連合して秦を牽制しようと、匈奴に対秦連合軍への参加を要請しました。

匈奴もオルドス地方(黄河が北に向かって箱型に屈曲する場所にある高原)への進出を図っていたため、渡りに船とこの誘いに乗りましたが、この時匈奴軍を含めた連合軍は函谷関(かんこくかん…河南省にあった古くからの関所)で秦に敗北してしまい、匈奴は北に敗走しました。

オルドスの地図
オルドス。

趙の武霊王と「胡服騎射」

BC.307戦国七雄の一・趙の武霊王(BC.325~BC.299)は匈奴の服装と戦術に興味を持ち、匈奴の「胡服騎射」という戦いのスタイルを軍隊に取り入れました。

胡服とは匈奴の服装で、立て襟(つめ襟のこと。日本の学生服の襟の形)にズボンです。

当時の中国で人々は、ゆったりとした着物風の長衣を着て腰のところで帯を締めていました。

一方胡服は立て襟の上着にマチのあるズボンを履きます。

戦争をする場合どちらの方が動きやすいか一目瞭然です。

匈奴はこうした行動的な服を着、馬を乗りこなしながら敵に矢を射って戦いました。これが「胡服騎射」です。

一方古代中国ではいくさの担い手は貴族であり、優雅なガウン風の着物を着て3人で戦車(戦闘用馬車)に乗り、歩兵軍団を指揮して戦いました。

馬に乗って自ら矢を射るなどはしません。

当時下着をつける習慣はなかったといいますから、アクティブに動き回ることは不可能でした。

一般兵士が「胡服騎射」で戦えば戦果を挙げることができ、これは貴族の権威の低下にもつながります。

また誇り高い中原の民族が蛮族の胡服などを着るのは沽券(こけん)にかかわることでした。

「胡服騎射」を採用しようとした趙王は、貴族たちの大変な抵抗を受けながら、この改革をやり通したことが『史記』には詳しく書かれています。

中原の誇り高い民族にとって、戦いに勝つためとはいえ匈奴の風習を受け入れるということがどれほど大変だったかが伺われます。

趙の李牧将軍

匈奴との関わりといえば、趙の将軍・李牧(りぼく…?~BC.229)も有名です。

李牧は匈奴から趙を守る役目を担う将軍でした。

匈奴はたびたび趙など漢民族の領土に侵入し、隙あらば人や物資を略奪していきました。

草原の民族・匈奴には人的資源も物も圧倒的に不足しており、略奪は彼らの生存に不可欠だったのです。

しかしこれは農耕民族の民・漢民族にとってはたまったものではありません。

こうして李牧将軍は匈奴から民や財物を守るという役目を与えられました。

彼はこの任務に就くと兵士たちに「匈奴が侵入してきたら城塞にこもり、匈奴兵を捕まえてはならぬ」と命じます。「もしこの命令に従わず、彼らを捕縛したら斬る」とまで言うのです。

兵士は何だかわけがわかりません。

匈奴が来ると趙の兵士は狼煙をあげ、すぐさま城塞に逃げ込みます。

この姿を匈奴は嘲り、趙の兵士もまた李牧をさげすみました。

うちの将軍は臆病者だ…と。

この話を耳にした趙王は李牧を叱りました。けれども李牧は自分のやり方を変えようとはしませんでした。そこで趙王は李牧を辺境防衛の職務からはずしました。

新しくやってきた将軍は匈奴兵が現れるとすぐさまこれに立ち向かいます。

ところが逆に襲撃されて敗北し、周囲の民ともども大きな損害を出しました。匈奴は簡単な相手ではなかったのです。

趙王はこれに懲りてまた李牧将軍の登場を願います。

ところが李牧は病と称して首を縦に振りません。

趙王の度重なる懇願にやっと「それならば…」と承諾しましたが、その条件として自分のやり方に口を出さないよう約束してもらいました。

こうして李牧はそれまでどおり、匈奴がやってきても城塞にこもって反撃せず、匈奴から嘲りを受け続けていました。

ある時再び匈奴軍がやってきました。

この時李牧の行動はいつもとは違っていました。

彼の率いる趙軍は匈奴軍に逃げたと見せかけて匈奴の大軍10万をおびきよせたところに、奇襲をかけて10万の軍勢をすべて討ち取りました。鮮やかな勝利でした。

匈奴はその後10年というもの趙の国境を脅かすことはありませんでした。10万の軍勢の全滅は、趙軍に手を出す勇気をしばし匈奴から奪ったのです。

それまでの李牧の行為は相手を徹底的に油断させるワナでした。

敵のみならず味方からも嘲笑われ、職務をはずされても、いや、だからこそ李牧は喜んでいたに違いありません。

これで匈奴もオレが臆病者だと信じるぞ、と。

長い時間をかけた李牧の智謀の勝利でした。誰に何といわれようと謀略を心に秘め、時がくればそれを実行する、歴史に残る名采配です。

秦王朝

蒙恬の活躍

秦を統一した始皇帝(BC.259~BC.210)は将軍・蒙恬(もうてん…?~BC.210)に10万(30万とも)の兵士をつけて匈奴討伐に向かわせました。

蒙恬はオルドスの北側に関所を築き、各地から集めた流刑者を関所の警備につけました。

蒙恬は食糧や物資の輸送の便のため、秦の咸陽と河南を結ぶ道路を建設しました。よく踏み固められたこの道路の遺構が後にオルドスの地で見つかっています。

蒙恬は北方の異民族諸族を征服するとともに、万里の長城造りにも尽くしました。

この長城は、甘粛省を出発点とし、遼東まで1万里以上の長さを持ち、黄河を越え曲がりくねって北に向かっていきます。

こうした蒙恬の活躍は匈奴を震え上がらせました。

漢王朝

BC.210秦の始皇帝が亡くなると中国は動乱の時代に入ります。

BC.202、の貴族の末裔・項羽と沛の庶民・劉邦は始皇帝亡き後の中国における覇を争っていましたが、この戦いは劉邦の勝利に終わり、BC.201、劉邦は皇帝の座につきました。

漢(前漢)の高祖の誕生です。

高祖・劉邦は功あった自軍の武将を諸侯として中国各地を与え、これを治めさせました。

辺境の馬邑(ばゆう…山西省)は匈奴防衛の要の地でしたが、劉邦はここを韓王信(かんおう しん…有名な劉邦の武将・韓信とは別人)に与えました。元々韓の国の王であった韓王信はこの処遇に不満でした。

BC.201匈奴の大軍が馬邑に押し寄せてきました。

匈奴最強の単于(ぜんう…匈奴の君主)・冒頓単于(ぼくとつ ぜんう)の軍です。

韓王信は匈奴軍の恐ろしさを知っており、これとは戦わず和睦しました。

のちにこの行為が劉邦の疑念を招くと、韓王信は漢から逃げ匈奴軍に降伏しました。

「平城の恥」

BC.200、冒頓単于は中国攻略を目論み、40万の軍勢を従えて平城(へいじょう…山西省大同)に南下、劉邦はこれを32万の軍勢で迎え討ちました。

平城の地図
平城の地図。

冒頓単于は逃げるふりをして劉邦を白登山に誘い出し、7日間包囲しました。

陳平(ちん ぺい…劉邦の武将・側近)はこれに対して、冒頓単于の閼氏(あつし…単于の后や側室のこと)に贈り物をするよう、その際使者に、閼氏の嫉妬心をかきたてるような言葉を言わせるよう進言しました。

その言葉とは「漢には美女がおおぜいおります。あなたの夫君である冒頓単于が漢を征服したならば、きっと漢の美女に心奪われ、あなたは后を廃されてしまうでしょう」というものでした。

これに不安を抱いた冒頓単于の閼氏は、夫にこれ以上戦わないよう進言し、単于はこの進言を受け入れて一部の兵を退かせました。このスキに劉邦は包囲から脱出することができました。

このことからは、匈奴にとって閼氏という閨閥(けいばつ…妻の親族)の存在は大きかったことが伺われます。

またこの出来事は「平城の恥」と呼ばれ、以後漢の皇帝が自ら軍を率いることはなくなりました。一方匈奴軍は常に単于が大将軍として軍を率いて戦いました。

「平城の恥」によって匈奴軍の強さを思い知らされた劉邦は、冒頓単于に使者を送り和平条約の締結を求めました。

BC.198に匈奴との間に結ばれた条約は以下のようなものです。

1.漢朝廷の公主(皇帝の娘)を単于の閼氏として差し出す。

2.漢は匈奴に毎年、綿・絹・酒・米などを献上する。

3.漢の皇帝と匈奴の単于の間に兄弟の盟約を結ぶ。

この条約は匈奴に有利で、漢にとっては屈辱的な不平等条約でした。

武帝と張騫

「平城の恥」以降、漢は匈奴との対立を避け、第5代の文帝、第6代の景帝の時代には匈奴への融和的な姿勢は一層強化されました。にもかかわらず匈奴の漢への侵攻はやみませんでした。

第7代の武帝は16歳で即位すると、匈奴を攻め滅ぼして祖先以来の屈辱を晴らしたいと考えました。武帝時代の漢は武力攻勢を支えるに十分な財力を蓄えており、武帝の意欲を後押ししました。

その頃、匈奴の捕虜が「匈奴は月氏(げっし…古代東アジア・中央アジアにあった遊牧民族の国家)の王を討ち破ってその頭蓋骨を酒器としたため、西に逃げた月氏の民は匈奴をひどく憎み、ともに匈奴を討つ国家はないか探している」と伝えました。

これを聞いた武帝は喜び、月氏と連合して匈奴を挟撃する策を立てました。この作戦を成功させるには月氏の元を訪れ、共に匈奴を討とうと説得する人物が必要です。この時当時無名だった張騫(ちょう・けん…?~BC.114)が名乗りをあげました。

張騫は武帝の命を受け、BC.139に従者100人ほどを連れて長安を出発しました。

月氏の元を訪れるには匈奴の勢力圏を通過する必要がありますが、そこで張騫一行は匈奴に捕まってしまいました。

単于は漢からやってきた張騫を優遇しましたが、これは張騫を情報源として活用するつもりだったからです。

遊牧民族は情報を非常に重視していたといわれます。

張騫はこうして匈奴の地に10年以上とどまり、匈奴人の妻を与えられ子供ももうけました。

その後スキを見て、妻と従者一人のみ連れてこの地を脱出しました。

当時月氏は匈奴勢力下にあった烏孫という民族によって西に追いやられており、西トルキスタンに大月氏(だいげっし)という国家を建てていました。

張騫はこの大月氏国にたどり着き、漢と組んで匈奴を討つよう説得しましたが、大月氏の匈奴への恨みはこの頃すでに消えてしまっていました。

張騫は任務を果たすことができず、失意を抱えて漢に戻るのですが、途中再び匈奴に捕まってしまいます。

この時匈奴では内乱が起きており、張騫はこれに乗じて再び逃げ出すことができました。

こうして張騫はBC.126年、出発から13年の後に長安に戻ることができました。100人の従者はたった一人になっていました。

匈奴と霍去病

武帝と匈奴の関わりを知る上では霍去病(かく・きょへい…BC.140~BC.117 武帝時代の武将)の名を欠くことはできません。

武帝の命令で西に旅立った張騫は、成果を挙げることができず13年という長い年月を経て長安に戻りました。

当時武帝は、寵愛していた側室で後の后・衛子夫(えい・しふ)の弟である衛青(えい・せい)を将軍として匈奴と戦わせていました。

武帝は戻ってきた張騫を朝廷に呼び、西域の情報をあれこれ聞き出し、その情報を活用して匈奴との戦いに全力で臨みました。

BC.124から始まる数年間の匈奴との死闘は、双方に多くの犠牲を出しながらも漢側の勝利に終わりました。

この戦いでは衛青将軍の元で戦った衛青の甥・霍去病が大活躍をしました。

この軍事の天才・霍去病は23歳という若さで亡くなり、武帝は霍去病の墓を自らの墓の隣に建てさせました。

寵臣だった霍去病があまりにも若くして亡くなってしまったことへの武帝の嘆きの大きさが伝わってきます。

こうして漢は武帝の時代に衛青や霍去病の活躍で、匈奴を北方へと追いやることに成功しました。

漢の地図(bc60)
前漢の地図。匈奴は武帝の時代に勢力圏を減らしました。

李陵

衛青・霍去病の戦いからしばらくして、武帝に仕える将軍の一人・李陵は李広利将軍のもとで匈奴と戦って敗北、刀折れ矢尽きて匈奴に投降しました。

武帝はこの情報に激怒、李陵の家族や一族を全員滅ぼしました。

匈奴に投降した漢人に李という武将がおり、武帝は、漢と戦うために匈奴兵を訓練していると聞いて、これが李陵であると誤解したのでした。

祖父・李広の代から漢の朝廷に忠義を尽くしてきた李陵は一族全滅の話を伝え聞いて絶望。憤怒のあまり匈奴に身を投じ、匈奴の単于の娘を嫁として匈奴の土となりました。

李陵は不朽の史書・『史記』を書いた司馬遷との関わりでも有名です。

司馬遷は漢の朝廷で李陵の同僚でした。

武帝の前で李陵を弁護し、武帝の激しい怒りを招いて捕縛され屈辱的な刑を受けます。

司馬遷はこの屈辱に懊悩し、その苦しみの中で『史記』を完成させました。

李陵と匈奴との関わりなくして、この優れた史書はこの世に現れなかったと言っても過言ではありません。

王昭君の物語

匈奴と漢の関わりでは「王昭君」(おう しょうくん)の物語も有名です。

「平城の恥」以降、漢は匈奴と和平条約を結び、皇女を単于の妻として与えることになりました。

王昭君は第10代皇帝の元帝の時代の人ですが、この政策のもと匈奴の単于に送られた女性です。

王昭君は劉姓の皇女ではなく、後宮の女性の一人でした。この時代の匈奴と漢では力関係が以前とは異なり、漢に優位なものになっていました。

王昭君は呼韓邪単于(こかんや ぜんう)の妻となりましたが、呼韓邪単于はすでに老齢で、嫁して2年後に亡くなり、王昭君は呼韓邪単于の別の妻が生んだ皇太子の妻となりました。

これは匈奴独特の習俗で嫂婚制といい、死者の妻は一族の者と再婚する制度で、一族の財産の流出を防ぐなどの意味を持っています。

こうして王昭君は匈奴の新しい単于の妻となって匈奴の皇女を生みました。

王昭君は悲劇の女性として有名ですが、実は匈奴の中で高く安定した地位を得ていたといわれます。

王昭君の物語は元代に書かれた元曲『漢宮秋』(かんきゅうしゅう)によって有名になりました。

絶世の美女・王昭君は朝廷画家に賄賂を贈らなかったので醜く描かれ、そのために匈奴の単于の妻にさせられ、故郷を遠く離れた蛮族の地に嫁していったという悲劇の物語です。

『漢宮秋』に描かれた王昭君の物語は日本には古くから伝わり、謡曲『昭君』にもなっています。19世紀にはヨーロッパにも伝わりました。

文字を持っていなかった匈奴は、こうして漢の価値観によって一方的に描かれるしかありませんでした。

匈奴の歴史

以上は中国の歴史に現れた匈奴の姿です。次に匈奴自身の歴史を眺めてみましょう。

頭曼単于の時代

始皇帝が中国を統一した頃、北アジアでは匈奴に頭曼(とうまん…?~BC.209)と呼ばれる単于が現れて諸部族を統一しました。

彼は秦に対抗して黄河流域のオルドスに進出しました。

そこで始皇帝は蒙恬に命じて匈奴を討たせました。

こうして秦はオルドスを匈奴から奪い、黄河に沿って44の県城を築きここに屯田兵を設置し、山の険しい所を国境として、以前からあった燕・趙・秦の長城を修復しました。

これが万里の長城です。

この結果、匈奴は北方に退却しました。

冒頓単于の時代

BC.210に始皇帝が亡くなると、後継者争いが始まり、そのスキを狙って頭曼はオルドスを奪還しました。

彼には冒頓(ぼくとつ…BC.234~BC.174)という長男がいましたが、頭曼はこれを廃して寵愛していた妃が生んだ別の子供を後継ぎにしようとしました。

その当時匈奴の東には東胡、西には月氏(げっし)という有力部族がおり、頭曼はこの冒頓を月氏に人質として送り込みました。

その上で月氏を襲い、月氏の手で冒頓の命を奪わせようとしました。

しかし冒頓は月氏の良馬を盗んで匈奴に無事逃げ帰ってきました。敵の良馬を盗むことは匈奴において最高の誉れでしたので、頭曼はしかたなく冒頓を後継ぎの地位に就かせました。

その後冒頓は父親の頭曼の命を奪い、単于となりました。

さらに東胡を討ち、勢いに乗って月氏も打ち負かし、オルドスに侵入した後、漢の領土の燕や代にも侵入しました。

こうして冒頓単于の時代、匈奴は北アジアの覇者となりました。

分裂・衰退・滅亡

冒頓単于に続く2代の単于の時代が匈奴の最盛期です。

漢の武帝による匈奴との戦いの後、匈奴は勢いを失っていきました。

BC.58の呼韓邪単于(こかんや ぜんう)の時代に匈奴は南北に分裂し、呼韓邪単于は漢の王昭君を后として得ると同時に、漢に帰服しました。

呼韓邪単于の子孫は南匈奴として後漢の守りの任務に就くようになりました。

一方北匈奴は南匈奴などの攻撃を受けて、北方や西方に移動し、4~6世紀にヨーロッパに現れたフン族の祖となったのではないかという説もあります。

後漢の後期から魏晋時代にかけて、匈奴では内紛などがあって衰退していきました。

匈奴の社会体制や経済、文化、人種など

匈奴は行政機構と軍事機構を一体化する体制を取っていました。

自然災害や略奪行為のための軍事行動を迅速に行うことが目的だったといわれています。

集団の核は「屠各種」という支配種族にあり、その最高権力者を「単于」(ぜんう)、その后を「閼氏」(あつし)と呼びました。

単于の下には「二十四長」と呼ばれる将軍がおり、それぞれ1万騎ほどの軍を統括していました。

匈奴の経済は遊牧と狩猟によって成り立っていました。

司馬遷の『史記』匈奴列伝には「随畜」という言葉があり、これは匈奴が家畜の移動に従って自分たちも移動したことを意味するのではないかといわれています。

匈奴は遊牧だけでなく農業も行っていたようです。

さらに匈奴は商業民族でもありました。漢との間には交易があり市が開かれていました。

中国・内モンゴルの長城一帯からは多くの青銅器が発掘されていますが、ここにはかつて「オルドス青銅器文化」がありました。

この青銅器文化の担い手は匈奴であると考えられています。

オルドス青銅器文化の地からは、騎馬戦に使われたと思われる短剣、甲冑、馬具などが出土し、それらの品には動物のデザインが施されています。

透かし彫りなどに見られるそれらのデザインからは優れた芸術性が伺われ、美術品として高く評価されています。

またさまざまな鉄製の道具も出土し、ここには高度な鉄の精錬技術があったことがわかります。

匈奴とはどんな民族だったのか、その容貌はどういうものだったのか、アーリア人種系、モンゴル系など諸説あります。

始皇帝の兵馬俑坑から、匈奴兵と思われる人形(俑)が発掘されていますが、それらにアーリア人種系の特徴は見られず、また匈奴の墓と思われる墳墓から発掘される人骨調査からも、匈奴は現代のモンゴル人に似た顔だちや体つきだったという説が有力です。

ただし匈奴が西に移動する過程で、アーリア人種との混血があったとする見方もあります。