霍去病【対匈奴戦で活躍するも若くして亡くなった将軍】
霍去病(かくきょへい)は前漢の武帝に仕えた将軍で、匈奴征伐に大活躍をしましたが、若くして亡くなりました。
武帝は霍去病の死を惜しみ、その墓を自らの陵墓の近くに建てさせました。
目次
- 1. 霍去病とは
- 2. 将軍衛青と霍去病の活躍
- 3. 霍去病、驃騎将軍となる
- 4. 若き将軍の死
霍去病とは
霍去病(かく きょへい…BC.140~BC.117)とは前漢の第7代皇帝・武帝に仕えた将軍で、同じく武帝に仕えた衛青将軍は伯父に当たります。
去病という印象的な名は「病を去る」(病気にならない)という意味ですが、皮肉なことに彼は若くして病死しました。
父は霍仲孺(かく ちゅうじゅ)といい平陽県の役人で、母は衛少児。衛少児は後の武帝の皇后となる衛子夫や衛青将軍の姉に当たります。つまり霍去病にとって衛皇后や衛青将軍は実の叔母、叔父です。
そうそうたる一族の生まれではありますが、決して由緒正しい名家というわけではありませんでした。
衛子夫つまり武帝の衛皇后や衛青将軍の母は衛媼(えい おう)と呼ばれる女性ですが、この媼は「おばさん」という意味ですから本当の名前は残っていない、つまり市井の名もなき人です。
衛媼が平陽侯の屋敷で働いていたとき、平陽侯に仕えていた鄭季という人物が見染めて愛人関係になります。つまり正式の結婚ではなく、二人の間に生まれた子供、衛子夫と衛青は衛媼の私生児です。衛子夫は長じて武帝の姉の家で歌妓となり、衛青は北方で羊飼いをしていました。
社会の底辺にいたと思われる二人の人生が大きく展開していったのは、武帝の姉の家で歌妓となっていた衛子夫が武帝に見染められて愛妾となってからのことでした。やがて衛子夫が武帝の子をみごもると、子供がいなかった武帝の皇后が衛青を捕らえて命を奪おうとします。友人の助けで事なきを得ましたが、その話を聞いた武帝は衛青を自分の側近にとりたてました。
衛子夫は武帝の子供である三男一女を生み、それに嫉妬した最初の皇后は巫祝(ふしゅく)と呼ばれる巫女(みこ)にまじないをさせて衛子夫に呪いをかけました。そのことが後に発覚すると武帝は激怒して皇后を廃し、衛子夫を皇后としました。そして衛青を将軍に取り立てました。
こういう一族の一人として生まれた霍去病もまた18歳のときに、叔母である衛皇后のツテで宮中に入り武帝の侍中(じちゅう…侍従)になります。
将軍衛青と霍去病の活躍
BC.129年に衛青は車騎将軍となり、対匈奴戦で大きな成果を挙げました。共に出陣した他の将軍が戦果を挙げることができない中で、衛青は匈奴の居住区域の奥深くまで入り込み、匈奴数百人の命を奪いました。
翌年BC.128年にも衛青は車騎将軍として出陣し、匈奴数千人を斬りまた捕虜にしました。
その翌年BC.127年には雲中から出陣して、匈奴の手中にあったオルドスと呼ばれる地域(内モンゴル西南部に位置する)を奪い返しました。さらに朧西(ろうせい…現甘粛省にあった地域)に進軍して二つの国の王を敗走させ、河南の地を漢の朔方郡(さくほうぐん…現内モンゴル自治区オルドス市とバヤンノール市一帯の地域)にしました。
この功績により衛青は3800の封邑(ほうゆう…封じられた領地)を得、長平侯となりました。
BC.124年、125年にも出撃して匈奴を攻め、華々しい戦果を挙げました。しかしやがてその勢いも衰えていきます。
ちょうどこの頃、衛青の甥・霍去病が頭角を現すのです。
霍去病、驃騎将軍となる
BC.123年、霍去病は叔父である衛青将軍について匈奴征伐に従軍し、将軍の次の部将(部隊の将軍)として首級(しゅきゅう…討ち取った敵の首)二千以上という大きな成果を挙げました。霍去病18歳の年です。さらに単于(ぜんう…匈奴の君主の号)に従う王族二人を捕らえて斬り、この功によって1600戸の封地を得、冠軍侯(かんぐんこう)の号を与えられました。
同じ年の夏、霍去病は再び武帝の命を受けて北地郡(ほくちぐん…甘粛省東部、寧夏回族自治区、陝西省北西部にまたがる郡)から出陣して匈奴を討ち、居延水(きょえんすい…現在の中国内モンゴル自治区の砂漠にある塩湖。ガシュン・ノールとも)から祁連山(きれんざん)まで進軍し、匈奴軍と戦って首級三万を得、匈奴の諸王など百人以上を捕虜にしました。
祁連山は中国青海省と甘粛省の境界にそびえる山で高さ5547メートル。
祁連山脈と呼ばれる、チベット高原の北側、西北から東南に走る平均海抜4000メートル以上の山々の主峰で、匈奴の対漢出陣基地でもありました。
この祁連山をこの戦いで漢に奪われた匈奴の歴史は、嘆きの歌となって今に伝えられています。
わが祁連山を失い、わが六畜をして蕃息せざらしむ。
わが焉支山(えんしざん)を失い、わが嫁婦をして顔色なからしむ。
漢にわが祁連山を奪われ、家畜用の草原を失った。焉支山も奪われて、女性たちは化粧ができなくなった…と嘆く歌です。
焉支山は紅花(べにばな)の産地で、この紅花が臙脂(えんじ)すなわち化粧品の原料になるのですが、漢匈戦争の敗戦によって匈奴の女性たちが化粧品を手に入れることができなくなったと嘆いているのです。
この戦いの主役が霍去病でした。
霍去病活躍で匈奴の対漢西方防衛線は崩れ、ここの防衛責任者である渾邪王(こんやおう…?~BC.116)は単于の怒りを怖れ、部隊を引き連れて漢に投降しました。
武帝はこの知らせを受け、霍去病に匈奴の投降兵たちを迎えるよう命じましたが、匈奴兵たちの多くは霍去病の軍隊を見ると逃げ出してしまい、霍去病はこれら逃亡を企てた匈奴兵八千人を斬らせました。彼は渾邪王を車で長安に送り、投降した匈奴兵数万は自ら率いて漢に帰還しました。弱冠18歳、若き将軍の堂々たる凱旋でした。
漢の対匈奴対策というのは、高祖劉邦がかつて白登山で冒頓単于に包囲されて以来、毎年頭を低くして匈奴に贈り物をするなど一貫して低姿勢でした。
劉邦の死後、未亡人となった呂后に冒頓単于は侮辱的な手紙を送っていますが、創建間もない若い国家・前漢がまだ盤石ではないのを知っている呂后は屈辱に耐え、冒頓単于に贈り物を送ってご機嫌を取りました。漢にとって匈奴の武力はそれほど脅威だったのです。
武帝の時代になると、文帝、景帝とぜいたくを廃して国力をつける政権運営が続いたこともあって、国庫には潤沢な資金が蓄えられていました。16歳で即位した武帝も覇気ある若い帝王です。対匈奴戦は朝議にかけられ検討した結果いったんは否決されますが、最終的に謀略作戦を採るという対匈奴戦が決定します。一種のだまし討ちです。この謀略によるいくさは失敗に終わり、以後漢政府に不信を抱いた匈奴は毎年国境を越えて人民を拉致するようになり、これを受けて漢政府も対匈奴戦争を続けざるを得なくなりました。
この泥沼のような戦争で、大活躍をしたのが衛青、そして若い霍去病でした。内心びくびくもので始めた戦いが、戦力としては格上の相手に破竹の勢いで勝ち続けるのですから、武帝の喜びは大変なものだったでしょう。
霍去病はこの勝利によって武帝から数十万金の褒賞のほか、1700戸が封地として与えられました。
霍去病の目を見張る戦いぶりに比べて、他の将軍たち、たとえば李広将軍(?~BC.119)は匈奴の左賢王に包囲されて全滅に近い敗北を喫し、西域への遠征で有名な博望侯・張騫(?~BC.114)は戦場への道に迷うというありさまで、この失態に張騫は死刑は免れたものの庶民の身分に落とされてしまいました。
この時の対匈奴戦の結果、漢朝廷では西北地域に対する防衛負担が軽くなり、人民に兵役負担の減免を行うことができました。また渾邪王の投降によって漢の領土となった元渾邪王故地には、武威(ぶい)、酒泉(しゅせん)、張掖(ちょうえき)、敦煌、いわゆる河西4郡が置かれました。この地は後に漢王朝西域進出の起点となりました。
若き将軍の死
霍去病はBC.121年には驃騎(ひょうき)将軍の号を受け、その名声は日増しに高まっていきました。
ところがそれから2年、霍去病は突然病で亡くなってしまいました。彗星のように現れた軍事の天才はこうして突然消えていったのです。24歳の若さでした。
武帝はこれをひどく悲しみ、自分の陵墓である茂陵(もりょう)の東に霍去病の墓を作りました。その墓所は祁連山を模して山の形をし、墓所の前には匈奴の兵士を踏みつけている馬の石像があり、今も見ることができます。
二千年以上も前の偉大な帝王の若き将軍を悼む思いが、惻惻(そくそく)として伝わってくる墓所です。