竹書紀年の歴史と内容【盗掘をきっかけとした発見】

竹書紀年

竹書紀年ちくしょきねん」とは古代中国・戦国時代の歴史書のことで、西晋時代に盗掘された魏の襄王の墳墓から発見されました。竹簡に書かれていたことからこの名がついています。

竹書紀年とは

竹書紀年ちくしょきねんとは、古代中国・戦国時代(B.C.403~B.C.221)の魏の国の歴史書全13編のことです。

西晋時代(265~316)の279年に、河南省に住んでいた不準(ふじゅん)という名の墓泥棒が、戦国時代の魏の襄王(じょうおう…?~B.C.296)の墳墓を盗掘したところ、中から竹書(竹簡に記された書)が現れました。その竹簡には西周春秋時代の晋から戦国時代の襄王20年(B.C.299)までの歴史が年ごとに記されていました。そこで「竹書紀年」と名付けられました。

この竹書には他の書物にはない記録が含まれ、近代以後に発掘された文字資料と内容が一致していることから、司馬遷史記』のミスの訂正に用いられています。

竹書の作者も書かれた年代もともに不明です。

『竹書紀年』は、漢代前漢B.C.206~A.D.8・後漢A.D.25~A.D.220)には行方がわからなくなっており、西晋時代に発見、その後唐代(618~907)と北宋時代(960~1127)に再び散逸してしまいました。清代(1644~1912)に失われた部分の収集が始まり、中華民国(1912~1949)の時代に、司馬貞(しば てい…唐代の文人)の『史記索隠』(しき さくいん…『史記』の注釈書)に引用された諸文献から『竹書紀年』の復元事業が始まり、現在も続けられています。

明代に別の『竹書紀年』が現れましたがこれはニセモノであり、本物の方を「古本(こほん)竹書紀年」、ニセモノの方を「今本(きんぽん)竹書紀年」と呼びます。

年表
年表。

『竹書紀年』の発見状況

『竹書紀年』が発見されたのは3世紀という古い時代ですがその時の状況は以下のようなものだったといいます。

西晋の初め、河南省の汲県で不準という名の墓泥棒が、こっそり古い墓を掘り出したが中は真っ暗で副葬品が見えなかった。そこで出てきた竹片に火をつけて財物を探したが、期待したような金銀は出てこなかった。現れたのは束になった竹片ばかりで彼はがっかりし、竹片を捨て去ると多少金目のものだけを持ち去った。村人がこのことを役人に知らせると、役人がやってきてこの竹片を調べた。竹片の大きさはみなほぼ同じで、表面に文字が書かれていた。竹片の量はかなりのものだったが、それらに書かれた文字は比較的きちんと整っていた。そこで彼らはこの竹片をまとめ、何台かの車に積むと運んでいった。この竹片こそ中国史を揺るがせた『汲塚書』すなわち『竹書紀年』だった。竹書は汲県から首都・洛陽に運ばれた。竹簡の長さはすべて古尺で2尺4寸、墨で文字が書かれ、竹簡1枚につき40字書かれていた。文字は「小篆」であったとも「科斗文字」(オタマジャクシのような形をした空想上の文字)であったともいわれている。比較的規範的な戦国時代の文字であった。

『史記』に書かれていたことと『竹書紀年』に書かれていたこと

『史記』と『竹書紀年』に書かれていたことの違いについて、以下にひとつ例を挙げておきましょう。

・「武王が紂を討って周を建国した史実について…」

『史記』では「紂王の暴虐があまりにひどく、重臣も逃げ出す状態だったので、武王は『殷王の罪は重い。討たねばならぬ』と告げ、文王の位牌を奉じて兵車300乗と勇士300人、兵45000人を率いて東にいた紂王を討った」と書かれています。

これに対して『竹書紀年』では、「周武王乘纣王主力东征东夷,进而偷袭商都」(周の武王は紂王が東征して東の蛮族退治に出かけているすきに、これに乗じて商の都に奇襲をかけた」と書かれています。

周の武王による殷討伐が『史記』では司馬遷の歴史観にのっとって描かれているのに対し、『竹書紀年』では歴史的事件のみが淡々と記録されていることがわかります。

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