董仲舒の生涯と思想【文官登用制度を整備した前漢の儒学者】

董仲舒

董仲舒(とうちゅうじょ)は前漢武帝に仕えた儒学者で、儒学内の異説を整理し、儒学以外のさまざまな説を吸収し、それらを総合し折衷した哲学を打ち立てた人といわれています。

董仲舒とは

董仲舒(とう ちゅうじょ…生没年不詳)は広川国広川(現・河北省)の出身で、前漢の思想家であり儒学者です。中国史上最大の学者の一人とされています。

董仲舒の出身地・広川の地図
董仲舒の出身地・広川。

大変な勉強家で、3年間一歩たりとも庭に下りたことがないほど勉強に励んだといわれています。

景帝時代(BC.157~BC.141)に春秋学の博士(はかせ…古今に通じることを司る官職)となり、武帝即位の直後(BC.140年)、官吏登用制度における賢良(けんりょう…漢代官吏の名称の一つ)に察挙(さっきょ…推薦によって任用)され、江都相(こうとしょう…江都国の行政長官)に任命されました。

ちなみにこの「春秋学」とは、儒教の経典である『春秋』と、その解説である『公羊伝(くようでん)』『穀梁伝(こくりょうでん)』『左氏伝(さしでん)』中の歴史的事実がどう記述されているか等を見ることによって、孔子の見解等を考察する学問のことです。

景帝の次に即位した武帝は、その翌年中央や地方の行政長官に対して、すぐれた人格や高い教養を持つ者を官僚として推挙するよう通達を出しました。このとき法家思想や縦横家を学んだ者は国を混乱させる可能性があるとして排除し、儒家思想をマスターした者のみ推挙の対象にしました。

董仲舒もこうして推挙され、武帝の試験に応じた者の中からみごと登用の栄冠を勝ち取った人物です。

董仲舒はこの試験において、官僚には教養が必要であり、その教養の根幹をなすものは儒家思想による『五経』(易経書経詩経礼記春秋)であると進言しました。

武帝は董仲舒のこの意見を受け入れ、以後は朝廷に設置された五経の講座を学んだ者と、各地から推挙された儒学の基本をマスターした人材とが、中央官僚として登用されるようになりました。

この文官登用制度は後に「科挙」となり、以後20世紀初めの清末まで二千年の間継承されていきました。

元号制度もまた武帝が董仲舒のアドバイスを受けて制定したものです。この元号制度は本家の中国では1911年に廃止されましたが、日本では昭和、平成、令和と21世紀の今もまだ大切に受け継がれています。令和になった年、中国では日本で継承されている元号について話題になり、自分たちは失ってしまったのに…と複雑な心境が語られていました。

董仲舒は後に中大夫と呼ばれる役職を経て、膠西相(こうせい…現・山東省濰坊市一帯の行政長官)になりましたが、冤罪を恐れ、任期を残して退官。その後は亡くなるまで朝廷に出仕することなく、学問と著述に専念しました。

春秋公羊学

董仲舒による学問は「儒学内の異説を整理し、儒学以外のさまざまな説を吸収し、それらを総合し折衷した哲学」だといわれています。

彼は、「陰陽災異」(意志を持った天が、自然災害や異常現象を通して君主に警告を与えるという儒教の学説)の要素を加えた独自の「春秋公羊学(しゅんじゅう くようがく)」を打ち立て、「宇宙の主宰者は天であり、天と人は相互に感応する」という「天人相関説」を説きました。

「春秋公羊学」は漢代儒学の中心で、『春秋三伝』のうち『公羊伝』を『春秋』経文の正統な解釈であるとしました。春秋公羊学では『春秋』を革命の書とし、この思想は漢が周に代わって中国を統治する理論的根拠となりました。それから約二千年後の1898年、康有為らが推し進めた戊戌変法(ぼじゅつのへんぽう…清朝の政治改革運動)でも、その理論的根拠となりました。

『春秋三伝』のうち、『左氏伝』は歴史的解釈であるのに対し、『公羊伝』は理論的、思想的解釈で、その書き方も簡略的なので、公羊学は拡大解釈が特色だといわれています。

公羊学は董仲舒に始まり、それを継承・集大成したのは、後漢末の何休(かきゅう…129~182…後漢の儒学者)です。

公羊学の特徴としては、

(1)左伝派が周公を尊ぶのに対し、孔子を尊ぶ。

(2)家族道徳を重んじる。

(3)行為の結果より動機を重んじる。

(4)復讐や武力革命を認める。

(5)侠気(きょうき…義侠心)を賛美する

などがあり、清朝時代のアヘン戦争以降、公羊学は変革のイデオロギーとして注目を集めるようになりました。

董仲舒は大物か

董仲舒は武帝に、儒教を国家唯一の正統思想とすべきであると提言したといわれています。儒教の国教化です。これが採択され、前漢武帝の時代に儒教の体制化が実現したとされているのですが、これについては『史記』など前漢時代の史料には書かれておらず、後漢時代に編纂された『漢書』でのみ言及されています。

また『史記』の董仲舒伝では、彼は不遇な人生を送ったと書かれており、儒教の官学化に貢献した人…つまり国家の大物という董仲舒像は『漢書』で描かれているだけなのです。

そこから董仲舒に関する『漢書』の文章は、『漢書』の編纂者・班固(はんこ…32~92…後漢初期の歴史家・文学者)が、董仲舒を特別視した伝記や功績を意図的に書いたのではないかともいわれています。