長平の戦い【40万人が埋められた逸話と発掘による真実性】

長平の戦い

長平の戦いとは、戦国末期に戦国七雄が戦ったいくさの名前です。趙が老練な廉頗将軍によって長期戦にもちこんで3年、秦のスパイが放った流言にのってしまった趙軍が、若く未熟な将軍に代えたところを、秦の名将白起が撃ち破りました。この戦いでは、秦軍が投降した趙兵40万を生き埋めにしたことでも有名です。

長平の戦いとは

長平(ちょうへい)の戦いとは、中国の戦国時代(BC.475~BC.221)末期のBC.260年、始皇帝による中国統一まであと約40年という時期に長平(山西省高平のあたり)で起きた秦と趙の戦いのことです。秦の白起(はくき)将軍によって趙軍の捕虜40万が生き埋めにされたことで有名です。この戦いによって戦国の世の帰趨…秦による中国統一は決まったといわれています。

長平の地図
長平の地図。
年表
年表。

長平の戦いに至るまで

BC.262秦は昭襄王…始皇帝の曽祖父…の時にを攻め、野王(やおう…河南省沁陽市)を奪いました。

このため韓の上党郡は、南に位置する野王のさらに南にある韓の都・新鄭(河南省新鄭市)と切り離され孤立を余儀なくされました。韓王は上党郡を秦に譲渡して和議に持ち込もうとしますが、上党郡の民衆は秦の支配下に入ることを怖れ、韓の北に位置する趙に帰属しようとしました。

趙王はこの件について「戦国四君」の一人・平原君らに意見を求めますが、平原君の弟・平陽君は「秦と戦うことになるから上党の土地は受けるべきではありません」と言い、それに対して平原君は「何もしないのに領土を得られるのですから献上を受け入れるべきです」と言います。鄭王は結局平原君の意見に従って上党郡を趙の版図に入れました。

趙のこの対応に対し、秦は王齕(おうこつ)を将軍としてBC.262趙に出兵させ上党郡を占領しました。上党郡の民衆は上党郡よりさらに北にある長平に逃げました。王齕将軍はこれを追い、趙の領土に侵入しました。

趙では有能な3将軍の一人・趙奢はすでに亡く、長らく趙を支えてきた藺相如(りん・しょうじょ)は病床に、藺相如刎頸の友廉頗(れんぱ)のみすでに老いたりとはいえ健在でした。そこで趙王は廉頗将軍に長平城を守らせました。

長平の戦い

廉頗の持久戦

こうして長平城をめぐる戦いが始まるのですが、廉頗将軍は戦いを持久戦に持ち込み、秦軍に挑発されても外に打って出ることはなく秦軍の疲労を待ちました。

やがて3年の月日が経ち、この膠着状態に秦の宰相・范雎(はんしょ)は趙にスパイを送り、「秦は趙奢(ちょう・しゃ)将軍の子・趙括(ちょう・かつ)を恐れている」という噂を流して、廉頗の追放をもくろみました。

趙王は戦線の膠着状態に業を煮やしており、この噂に飛びついて廉頗を罷免し、趙括を将軍にしました。

趙括の抜擢

趙の名将の一人・趙奢の息子である趙括は軍事学の秀才でした。

趙括が趙の将軍に抜擢された時趙奢はすでにこの世を去っていましたが、戦場に出たことのない軍事学の秀才にいくさはできないと考えていた父は、息子を認めていませんでした。これを将軍にしたら趙は滅びる…とまで思っていたのです。

そこで遺言として、趙括を将軍にという話が来ても断るようにと妻に言い残しました。

病に伏していた藺相如もこの抜擢に反対しましたが、趙王は耳を貸さず趙括を将軍に据えました。

この情報に秦の范雎は喜び、白起将軍を長平の地に差し向けました。

趙の命運を託された趙括は、すぐさま攻撃に出て白起将軍率いる秦軍を深追いし、秦のワナにはまって別動隊に退路を断たれてしまいます。

秦軍はその後46日間にわたって趙括軍を完全包囲して兵糧攻めにし、趙軍内では互いに人肉を食い合う地獄に陥ったといいます。

こうした苦境から脱しようと趙括は精鋭を率いてイチかバチかで打って出ますが、敵の放った弓矢にあっけなく斃れてしまいます。机上の秀才の最期でした。

白起将軍の穴埋め事件とその後

大将を失った40万の趙兵は降伏しますが、秦軍に40万もの敵兵を養う財力もなく、といってこのまま彼らを放てば今後どういう報復に出てくるかもわからず、白起は趙の少年兵240人を故郷に帰したほかは残りの趙兵40万を全員穴埋めに処しました。

その後白起は勢いを保ったまま趙の都・邯鄲(かんたん)に迫ります。この鮮やかな戦いぶりに、秦の宰相・范雎は自分の地位を脅かされることを怖れて昭襄王に撤兵を勧め、王もこれを入れて趙と講和を結びました。

白起はこのことで范雎に不信感を持ち、これが一端となって後に自害を迫られます。

自分がなぜ死ななければならないのか、白起はおのれに問い、やがて「長平の戦いで40万の趙兵を穴埋めにした。確かに自分には罪がある」と納得し死についたと伝わっています。

この偉大な将軍の死を秦の民衆は悲しみ、廟を立てて弔いました。

古戦場発掘

長平の戦いの跡からは近年多くの人骨が発掘され、紀元前260年の歴史が事実であったことを現代に伝えています。

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