李信 【秦の統一に貢献した将軍の生涯・地図・年表】

李信

李信(りしん)は戦国時代末期のの若い武将で、との戦いで活躍しました。楚の戦いではその若さ、未熟さが裏目に出て敗北し、秦王、後の始皇帝の怒りを招きます。

漢代の李広将軍やその孫の李陵は、李信の子孫です。

李信とは

李信は、秦王、後の始皇帝に仕えた秦の将軍です。始皇帝による六国平定において、対戦、対戦、対戦などで活躍しました。秦が総力を挙げて討とうとしていた南の大国、楚との戦いにおいて、秦王からどのくらいの兵力が必要かと聞かれ、李信は20万で充分と豪語し、歴戦の勇者・王翦(おうせん)将軍が60万と答えると、秦王は若い李信を抜擢しました。ところが緒戦に勝った李信はその後追撃してきた楚軍に敗北し、秦王の怒りを買います。結局対楚戦はベテランの王翦によって勝利することができました。李信はその後も活躍したようですが、没年等はわかっていません。対楚戦における若者の自負と老者の貫禄が鮮やかな対比を見せるエピソードの中で、李信は輝いています。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。始皇帝が即位した頃はおおよそこのような勢力図でした。
年表
李信は戦国時代に活躍しました。

始皇帝暗殺未遂事件と李信

戦国時代(BC.475~BC.221)末期、まだ秦による中国統一がなされる前のことです。

戦国七雄と呼ばれる国々を中心に群雄割拠の世の中でしたが、この時代が終わりに近づくと秦が一国抜きんでて中国大陸の超大国となっていました。ここのトップが後の始皇帝となる秦王の政(せい)です。

当時この秦王を暗殺しようと企てた国がありました。今の北京のあたりにあった(えん)で戦国七雄の中では弱小国です。なぜこんな大それたことを企てたかというと、ここの皇太子が秦王に不愉快な目に遭わされ、その屈辱が忘れられなかったからでした。

戦国時代には各諸国の公子たちが人質として他の国に送られていました。こうした習慣は日本の戦国時代にもありました。国の王子を人質として送っている以上、そこを攻めることは難しくなります。真っ先にその王子が命を奪われますから。

さて燕の太子・丹は子供の頃人質として趙に送られていました。秦の政、後の始皇帝もまた人質の息子としてで生まれ、二人は幼馴染でした。

ところが政が秦に戻り13歳で即位し秦の少年王となった時、燕の太子・丹はまた人質として趙から秦に送られました。

幼いころの仲良しの元に送られたわけですから良い待遇が得られるだろうと丹は期待したことでしょう。ところが政の態度はきわめて冷淡なもので、それを侮辱と受け取った丹は復讐を思い立ったのです。

丹は人を介して荊軻(けいか)という流れ者に秦王暗殺を依頼します。

荊軻はこの依頼が師と仰ぐ田光からのものだったのでこれに応じます。

田光も荊軻も義を重んじる義侠の士でした。紆余曲折を経て荊軻は秦王の住む咸陽の宮殿に乗り込み、秦王を切りつけるのですが失敗に終わります。

このテロ未遂事件で秦王・政は激怒し、王翦(おうせん)将軍に燕侵攻を命じます。

秦軍は10か月で燕の都・薊(けい)を落とし、燕王・喜(き)と太子・丹は精鋭兵を連れて燕の東・遼東に立てこもりました。

ここで李信の登場です。

李信は燕王を追いこれを激しく攻撃しました。

この時、代王の嘉(か…元趙王の兄。趙が秦によって滅ぼされるとかつてあった代の地で国王を名のった)が燕王に手紙を送りました。

「秦王が激しく燕を攻めるのは太子・丹のせいです。もし王が丹の命を奪って秦王に献上するなら、秦王はこれを赦し燕は再び国として生きのびることができるでしょう」

その頃李信に追われていた丹は遼東の衍(えん)水という所に身を隠していました。燕王はそこに使者を送って丹を斬りこれを秦王に献上しようとしました。

その後秦は5年という時間をかけて燕を攻め滅ぼし、燕王を捕虜にし、その翌年中国統一を果たして秦王朝が誕生しました。

では秦王暗殺未遂事件の張本人・太子丹はその後どうなったのか?

丹は燕王によって斬られて秦に献上されたとも、李信によって衍水で捕虜になったともいわれ、はっきりしたことはわかりませんが燕滅亡以前に命を落としたようです。

楚攻略

始皇帝像
始皇帝像。

燕攻略でその勇猛ぶりが知られた李信は、秦による攻略の際、秦王・政にこう聞かれました。「わしは楚を攻め滅ぼしたいのだが、将軍ならどれほどの兵力が必要と思われるか」

李信は「20万あれば十分です」と答えました。

秦王は名高い王翦将軍にも同じ質問をしました。王翦は「60万は必要です」と答えました。

秦王はそれを聞いて「王翦将軍は老いた。意気地なしだ。李将軍の言っていることの方が正しい」と思い、李信と蒙恬将軍に20万の兵をあずけ楚に進軍するよう命じました。

王翦はこの話を聞き、病気になったと称して故郷・頻陽に帰って隠居してしまいました。

この対楚戦で李信は平輿(へいよ…河南省の汝南)を攻め、蒙恬は寝丘(しんきゅう…河南省固始)を攻めてどちらも大勝しました。

そこで李信は兵を引き上げ、西に向かって蒙恬と城父(じょうほ…河南省宝豊)で会合をしました。

その時三日三晩不眠不休で追撃してきた楚軍は李信軍を撃破し、秦軍は敗走しました。

この結果に秦王・政は激怒し、すぐさま王翦の隠居地に向かうと自ら頭を下げて王翦の出陣を願いました。

王翦は辞退しますが政のたっての頼みに「それでは兵を60万つけてくださるなら」といってこれを受けます。王翦の出征に政・のちの始皇帝は自ら灞水のほとりまで見送りました。

王翦の大軍が襲ってくると聞いた楚ではこれを防ごうと国中の兵士を集めます。

一方王翦軍は陣地を作ったきり楚軍の挑発にも乗らずに、兵士たちは飲んで食って寝て遊んでいます。

兵が十分休養を取ったと見た王翦将軍はいざ出陣、鋭気を養った秦軍兵士は意気盛んで楚軍をおおいに打ち破りました。楚の名将・項燕もまたこの戦いで命を落としました。

秦軍は楚の都を落として楚王を捕虜にし、こうして中国南方の大国・楚は秦に滅ぼされました。BC.223、秦の天下統一の2年前のことでした。

李信のその後

対楚戦では大口をたたいたばかりに勝利も面目も失い、秦王の怒りを招いた李信ですが、お咎めはなかったようでその後も対燕戦、対斉戦に参加し、秦の天下統一に貢献しました。

前漢の時代に匈奴との戦いで名を馳せ、その勇気や智謀が敵味方に称えられた李広(りこう)将軍は李信の子孫です。ところでこの李広将軍には飛将軍というあだ名がありました。漫画『キングダム』の主人公・信は李信をモチーフにしていると言われており、その部隊は作中で飛信隊と呼ばれていますが、この隊の名前は『史記』などの史実の資料上には存在しておらず、李広将軍の飛将軍という名からとったのかもしれません。

また、『史記』の著者である司馬遷がかばった李陵将軍はこの李広将軍の孫に当たります。

作家・中島敦はこの李陵を主人公に『李陵』という名の短編を書きましたが、この作品はよく国語の教科書に載っていますので読んだ人も多いでしょう。