中庸(書籍)の成立過程と解説【言葉の由来となった経典】

中庸

中庸』は儒教の経典「四書五経」の1つで、特に新儒学の中心人物・朱熹によって高く評価されました。

『中庸』という経典に出てくる「中庸」とは「その時その場で最も適切で妥当なこと」という意味です。

『中庸』はもと『礼記』という経典の中の1篇で短いものですが、内容は哲学的で難解です。

儒教は後漢後期から宇宙論や形而上学的要素を求められ、その必要から『中庸』は書かれたといわれています。

※上の写真は朱熹が講義した嶽麓書院。

中庸とは

中庸」とは辞書で引けば「極端ではなく穏当なこと」などと出てきます。この言葉の出典が『中庸』です。『中庸』は儒教の経典「四書五経」のうちの1つで、儒教を代表する書物といえるでしょう。

ではこの『中庸』という経典にいう「中庸」とはどういう意味なのか。辞書でいう「極端でなく穏当なこと」という意味なのか。

まったく違うとはいえませんが、もっと深く、「人間の精神において厳しく求められる徳性」というべきものです。

「中庸」という言葉にも何となくそうした匂いが漂いますが、私たちは普通そうした意味をこめては使っていません。

それでは具体的にはどういうことなのでしょうか。

それは「その時、その場で最も適切で妥当なこと」だと解釈されています。

これは辞書にある「中庸」の意味「極端でなく穏当なこと」と似ていますが、こちらが生活していく上で、或いは人間関係において、トラブルや争いごとを避ける生活の知恵的な印象があるのに対し、『中庸』という書物を読んでいくと、こちらの「中庸」はそうした「ハウツー」的なものではなく、精神修養的なもの、人生をかけて自分の心の弱さと対決していくときの指針という印象があります。

『中庸』の成立過程

『中庸』は『大学』と同じく、元は『礼記』の中の1篇でした。全49篇中第31篇です。当然ながら字数は少なく、3568字です。

著者は、孔子の孫の子思だといわれてきましたが、近年『中庸』は『孟子』より新しく、『中庸』の作者は子思説は否定されるようになっています。

唐代に文人韓愈が『礼記』の中の「大学」篇と「中庸」篇に注目しました。

宋代では「中庸」がさらに重んじられるようになりました。

北宋の儒学者兄弟・二程子は『大学』『論語』『孟子』『中庸』をテキストとして門人に教えました。

その後南宋の朱熹は『四書章句集注』を著し、この本によって『中庸』は儒教の経典としてその地位を確かなものにしました。

朱熹は『中庸』の全文3568文字を33章に分けて編集しました。

1~20章までは「中庸の徳」について書かれており、21~33章までは「誠」を身につけるべきであることについて書かれています。

『中庸』の内容について…朱熹『中庸章句』から

『中庸』は短くても難解ですが、その一部を紹介すると以下のとおりです。

朱熹が『中庸』に注釈をつけた『中庸章句』の序に、『論語』にある言葉を引いて「中を執れ」という言葉が出てきます。

そしてこの「中」とは「時の宜しきに適いて、過不及なきこと」と書かれています。

すなわち「その時、その場で最も適切で妥当なこと」です。

朱熹は、人間の心には人心と道心があるといいます。

「人心」とは「人間各自の肉体…耳、目、口、鼻、手足より発する欲望」に基づくものであり、「道心」とは「「天が命じる人の本性の正しさ、道義の心」に基づくものです。

「人心は悪ではないが、悪に陥る危険と不安があり」、「道心は微妙で明らかにするのは難しい」と朱熹は述べます。

確かに人の心には自分の欲望に基づいたものと、天からとしか言いようのない、何かしらまっすぐな正しいものが混在しています。普通、人はこれを良心と呼んでいます。

朱熹はさらに「この人心と道心はしっかりと分けるべきで、混ぜてはならない」といい「道心を主として、人心をその命令に従わせるべきだ」といいます。

人が何らかの判断や行動をするとき、それが自分の欲望からくる「人心」なのか、天からきている「道心」なのかをきちんと見分けよというのです。

こうすれば「悪に陥る危険や不安は消え、道心の微妙なものがはっきり見えてくるのだ」と。

そして「行いや言葉において、過不及がなくなる」と続けて、「中」すなわち「時の宜しきに適いて、過不及なきこと」に論をつなげていきます。

序の次に『中庸』についての解説が書かれています。

「二程子いわく、偏らざるをこれ中(ちゅう)といい、易(か)わらざるをこれ庸という。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。この篇はすなわち孔門伝授の心法なり」。

これは上記した北宋の儒学者兄弟による中庸についての解釈です。

「どちらにも偏らないのが『中』で、永遠に易わっていかないものが『庸』である。『中』は天下の正しい道理のことで、『庸』は一定で易わらない天下の条理である。『中庸』というこの一篇は、孔子の門流で、聖人孔子が門人に伝授した心に関する教えである」と解釈しています。

これを読むと「中」についてはともかく、「庸」が今ひとつよくわかりません。

朱熹は「庸」を「平常であること」と解釈しています。

「平常であるから常にこれを行わなければいけないのだ」と。

「非常のことなら常にこれを行うのは不可能だけれども、平常のことなのだから常に行うべきなのだ」と朱熹は述べています。

「中庸」が「中」にとどまらず、「庸」を不可欠とする理由です。

『中庸』第一章には「天の命ずるをこれ性といい、性に従うをこれ道といい、道を修むるをこれ教えという」と書かれています。

ここに出てくる「天命」の「天」ですが、中国語における「天」には以下4つの意味があるとされています。

1.空のこと。青空などのあの空のことです。

2.森羅万象、天地創造の神のこと。上記にいう「天の命ずる…」という時の「天」はこの意味です。

3.哲学的な意味での「天」のこと。たとえば「易」は「天」をこうした哲学的なものとして解釈しています。

4.宇宙における神羅万象のこと。

同じくここに出てくる「性」とは、人やものが先天的に持ついわゆる「生まれつき」のことです。

この『中庸』第一章では、人間の「生まれつき」は「天命」なのだと書かれており、孟子の性善説に近い内容になっています。

この第一章で言っていることは「人の生まれつきは天賦のものであり、これに従えば『道』である。けれども生まれながらの聖人でない限り、人がやることは『道』と一致するとは限らない。時に過不及が起こる。そこで聖人が人々に『道』について整理し、これを教えるのだ」ということです。

人の生まれつきは天が与えたものであり、『中庸』の中ではこれを「誠」とも呼んでいます。

至高の天が与えたものであるなら教えや教育は必要ないではないかという疑問に対し、朱熹は人の資質を3つに分けて説明しています。そして孔子の言葉…人には生知(或いは上智)、中人、下愚…を下敷きにこの3つを以下のように説明しています。

1.生まれながらに知る人…生知(上智)

2.学んでこれを知る人…中人

3.苦しんでこれを知る人…下愚

したがって「中人」と「下愚」には修養教育が必要であり、またそれは可能であり、効果もあるとしています。

なるほど、人は正しい道を知るのに、下愚のカテゴリーに属する者は人生の苦しみを通してやっとそれを知る…というのですね。

とても納得する言葉です。

そして、わざわざ苦しみにぶつかってから正しい生き方に目覚めるのではなく、そうならないように「教えてあげなさい」、「教えを受けなさい」ということでこの『中庸』は書かれたということなのでしょう。

『中庸』と『論語』

『中庸』は孔子の教えですが、孔子の教えであるならば『論語』があります。

『論語』と『中庸』はどこが違うのでしょうか。

『論語』は断片的な孔子語録であるのに対し、『中庸』は孔子の教えを哲学的体系として述べたものだといわれています。

確かに『論語』が比較的わかりやすいのに比べると、『中庸』は哲学的で難解です。

使われている術語の定義を整理して時間をかけて読まないと頭に入ってきません。

なぜ『中庸』は書かれたのか

前漢の武帝の時に儒教は「国教」的な地位を持ちますが、後漢の後半から儒教は仏教と道教という手ごわいチャレンジャーを持ちます。

仏教と道教が儒教の強敵になったのは、それらが宇宙論や形而上学を持っていたのに対し、儒教はいわば常識的な教えであり、基本的に宇宙論も形而上学も持っていなかったからです。

つまり深みという点で仏教、道教に負けていたのです。

後漢の後半以降の儒教では、こうした弱点を補うための宇宙論、形而上学を必要とし、その声に応えたのが宋代に生まれた朱熹を中心とする宋学(朱子学)でした。そこで宋学(朱子学)は新儒学とも呼ばれます。

『中庸』は実はこの目的のために書かれたのだともいわれています。そう言われれば難解なのも納得です。

上記した『中庸』第一章に「天の命ずるをこれ性といい、性に従うをこれ道といい、道を修むるをこれ教えという」とありますが、この部分こそ「儒教の『道』は『天』に基づくものだ」と儒教に深遠な意味を加えた部分です。だからこそ第一章に置いたのかもしれません。

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