周公旦【周の摂政であり、孔子が夢にまで見た儒教の聖人】

周公旦

周公旦しゅうこうたん周王朝を建てた武王の弟です。武王が早世し、後継ぎの成王が幼かったために周公が代わりに政治を執りました。

周公旦は孔子が非常に尊敬した人物として有名です。

※上の画像は周公廟にある周公旦像。

周公の名の由来

周公旦
周公旦。

周公旦とは人名で、周公は号、旦は名前で、姓は姫(き)です。

周公旦は周王朝(紀元前11世紀~紀元前3世紀)を建てた武王の弟で、周公と呼ばれるのはその封地が周原(陝西省岐山の麓)にあったからという説と、同じく陝西省岐山にある周公廟跡地が封地であったからという説の2説があります。

周王朝というのは、中国最古の王朝とされる(か)王朝から数えて3番目の王朝です。夏王朝→殷(商)王朝→周王朝となって、春秋戦国時代に入っていきます。

年表
年表。

三監の乱と周公

司馬遷(しばせん)の『史記』によると、周王朝の初代君主である武王は、殷王朝(BC.17世紀頃~BC.1046…「商」とも呼ばれる)を倒した後まもなく死去し、その子供で跡継ぎの成王がまだ幼かったため、武王の弟である周公旦が幼王の補佐として国政を執ります。

武王には他にも弟が二人いて、管叔(かんしゅく)と蔡叔(さいしゅく)といいますが、この二人は周公旦が幼王に代わって執政することを不満に思い、紂(ちゅう…殷のラストエンペラーで周の武王に滅ぼされた)の子・武庚禄父(ぶこう ろくほ)と手を組んで反乱を起こしましたが、周公旦はこれを鎮圧します。これを「三監の乱」(さんかんのらん)と呼びます。その後周公は周の都を洛陽に定め、周による中原(ちゅうげん…黄河中下流地域)の支配を安定させました。周公旦による摂政(政治の代行)の期間は7年で、その後政権を成王に返しました。

上記の説に対して近年、反乱を起こした主体は管叔・蔡叔兄弟や武庚禄父ではなく、実は殷の遺民(王朝滅亡後もその遺風を慕う民)だったという説が唱えられています。この説では、菅叔や蔡叔がこの反乱に関与していたかどうかも疑問視されています。

ただ周公と菅叔・蔡叔ら弟たちは仲が悪かったと言われており、そのことがこの反乱説に結びついたのではという見方があります。

孔子が周公旦を評価した理由

儒教の経典の一つである『書経』に納められた最古の文献は周公旦の言葉を伝えるものですが、孔子や後の儒家は、周公を高く評価し聖人として崇めました。孔子は周公を夢にまで見るほど崇拝したと言われています。

それはなぜかというと、周公は兄武王が亡くなったとき、その跡継ぎである幼い成王から権力を奪わずに補佐に甘んじたからです。兄弟間の跡目争いなど現代においてもよくあることですが、紀元前という古い時代、弱肉強食に走らずに人としてあるべき行為をなした周公旦を孔子は尊敬したのです。為政者でありながら、孔子が最も評価する「仁」の人だったからでしょう。

「今文派」と「古文派」

漢代の儒学界で、「今文(きんぶん)派」と「古文派」に分かれた論争がありました。

「今文」とは前漢時代に使われた漢字(隷書)で書かれた経典のこと、「古文」とは前漢以前の戦国時代に使われた漢字(篆文など)で書かれた経典のことです。

「今文派」は今文で書かれた経典に依拠して解釈し、「古文派」は古文で書かれた経典に依拠して解釈し、それぞれ自分たちの解釈を正統なものとして主張し、朝廷における学者官僚の地位を争いました。

このとき、「今文派」が崇拝したのは孔子で、「古文派」が崇拝したのは周公旦でした。