呉(古代中国・春秋時代)の国の歴史と物語【歴史地図付き】
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呉は春秋時代に長江の南にあった国で、「呉越同舟」の故事や呉越の戦いで有名な国です。呉の夫差、越の勾践の戦い、臥薪嘗胆という成語にもなっている互いの怨念、越から呉に献上された中国四大美女の一人・西施など、これら登場人物が織りなすドラマチックな物語は古くから語り継がれてきました。
※上の画像は呉の首都姑蘇(現在の江蘇省蘇州市)にある呉の6代王・闔閭(こうりょ)の陵墓。
目次
- 1. 呉とは
- 2. 句呉から周の諸侯国へ
- 3. 伍子胥
- 4. 越に敗れる
- 5. 越を会稽山で破る
- 6. 夫差、伍子胥を自害に追い込む
- 7. 呉の滅亡
- 8. 呉越の戦いをめぐる物語
呉とは
呉とは春秋時代の国名で、春秋中期、長江の南から突然歴史に登場しました。
呉の始祖は太伯(たいはく)といい、その弟・虞仲とともに周の太王の子で、周王・季歴の兄だといわれています。この季歴には昌(しょう…後の文王)という優れた息子がいたので、太王はいずれこの昌に周を継がせたいと思っていました。それを知った太伯とその弟は南方の蛮族の地に去って、いれずみに髪はざんばらという蛮族の姿に変え、周の王室から遠ざかりました。蛮族の姿の者は、中原(ちゅうげん…黄河中下流域のことで、当時の中華文明の中心地)では王たりえず、中原の王という地位には未練がありませんと見せたのだと思われます。



句呉から周の諸侯国へ
太伯は南方で句呉(こうご)という国を建てました。のちに周の武王が殷を滅ぼして天子になった後、太伯らの子孫を探しました。すると南方で王になっていたのであらためてこれを呉に封じ、呉は周の諸侯国となりました。その後、代を重ね寿夢(じゅぼう)が位につくと呉の勢力は拡大し、寿夢は自らを王と称するようになりました。
伍子胥
寿夢の孫にあたる僚王の時、親兄弟を楚の平王に滅ぼされた伍子胥(ごししょ)が楚から亡命してきました。その後僚王は公子光に命を奪われ、公子光が呉王闔閭(こうりょ)となりました。伍子胥は闔閭に認められ、国事に参画するようになりました。また楚からは伯嚭(はくひ)も亡命し、彼も大夫に取り立てられました。
その後闔閭は伍子胥や伯嚭とともに、当時の超大国・楚を討ちこれを大敗させます。楚の平王に恨みを持つ伍子胥は墓をあばいて平王の屍に300回鞭打ち、恨みを晴らしました。

越に敗れる
呉王・闔閭が国を留守にしている時、越が呉に攻め込みました。秦もまた呉を討ち呉軍が敗北しました。闔閭の弟がこの様子を見て自分が呉王と宣言しますが、闔閭は急いで兵を率いて呉に戻りこれを破ります。
そののち呉が越に攻め入ろうとすると、越王・勾践(こうせん)はこれを向かい討つのですが、この時の戦い方がきわめて異様でした。
越は、罪人を前線に出し呉軍の前で呉への恩義を大声で叫ばせて自害させたのです。呉軍があっけにとられてこの様子を眺めていると、越軍はその隙に呉軍を打ち破り闔閭は怪我を負って軍も退却しました。闔閭はこの怪我が元で死ぬのですが、臨終の際太子・夫差(ふさ)を即位させ越への復讐を誓わせました。
越を会稽山で破る
新しい呉王・夫差は越への復讐を片時も忘れず、2年後これを破ります。越王・勾践は兵士5000人を引き連れて会稽山にこもり、使者を立てて和平を求めました。越国を呉に委ね、越王は呉王の臣下になるという条件でした。
夫差はこれをゆるすつもりでしたが、伍子胥が「勾践はよく忍ぶ性格なので、今滅ぼさないと将来に禍根を残すでしょう」と諫めました。一方伯嚭は和睦を勧めます。夫差は伯嚭の言葉に従い、伍子胥の諫言を入れず越王の和平提案を受け入れました。
夫差、伍子胥を自害に追い込む
それから数年、呉王・夫差は、斉の景公が亡くなり内紛が起きたところで斉に攻め込もうとしました。伍子胥がこれを諫めて「越王・勾践は粗食や粗衣に耐え、病人を見舞っていると聞きます。いずれこうした者を戦いで使おうとしているのです。越王を滅ぼさないと必ずや呉の禍となります。今は斉を討つなどということをするべきではありません」と言うのですが、夫差は聞き入れません。そればかりか伍子胥に剣を賜りそれで自害させてしまいました。
伍子胥は死に臨み「私の目玉をえぐって呉の都の東門に置け。その目で越が呉を滅ぼすのを見てくれよう」と言い残しました。
呉の滅亡
呉王・夫差は魯と衛の王を招き、魯で会盟(かいめい…覇者が諸侯を集めて盟約をすること)をしました。夫差は覇者(はしゃ…もともとは周王室を異民族の外敵から守ることで得られる称号。のちに実力で諸侯間のリーダーシップをかち得た存在をいう)をめざしたのです。
それからまもなく越王・勾践は呉を討ち太子・友を捕虜とします。
さらに数年後、越はますます強大になって呉軍を破り、呉都を包囲しました。勾践は夫差を他の土地に移し100戸の邑(ゆう…集落)を与えようとしましたが、夫差は「伍子胥の諫言を聞いておけば…」という言葉を残して自刎しました。
こうして呉は夫差の時代をもって滅亡したのです。
呉越の戦いをめぐる物語
以上の話は『史記』の「呉太伯世家」に載っているものですが、呉越の戦いではあまりにもドラマチックな話が展開するので、『十八史略』(子供向け歴史読本)などの書物で、後世さまざまな物語が書かれています。そこからいくつかのエピソードを紹介しましょう。
臥薪嘗胆
呉が楚に攻め込み、楚都を占領した時、留守を狙って越が呉に攻め込んできました。
怒った呉が逆に越に攻め込むのですが、越王・勾践に敗北を喫し呉王は負傷が元で死んでしまいます。その臨終の場で呉王は子の夫差に必ず復讐せよと言い残し、夫差は薪の上に寝て体の痛みを感じるたびに復讐を誓ったといいます。成語「臥薪嘗胆」(がしん しょうたん…薪の上に寝、苦い肝をなめて復讐の思いを新たにすること)の前半の故事です。
その後呉の夫差は越を攻め、これを打ち破って越都を攻略し、越王・勾践は会稽山で呉に包囲され和睦を求めます。呉の伍子胥はこれをやめせようとしましたが、呉の宰相・伯嚭(はくひ)が越側から賄賂を貰っており、呉王・夫差をそそのかして呉は越王・勾践と和睦してしまいます。夫差は越に勝った後、越から献上された美女・西施に溺れ、贅沢三昧な暮らしを始めました。
一方夫差に敗北した勾践は肝をなめてはその苦さに会稽山の屈辱を思い出し、復讐のチャンスを待っていました。「臥薪嘗胆」の後半の故事です。やがて越は国力を充実させ、毎年のように呉に攻め込みBC.473には夫差を自決に追い込みます。呉を滅ぼした越は呉に代わって中原に進出していくのですが、勾践が亡くなると力を失い、歴史の表舞台から消えていきました。
西施と范蠡の物語

越から夫差に献上された西施は中国四大美女の一人ですが、春秋時代に実在した女性だといわれています。
越王・勾践の部下に范蠡(はん・れい)という優秀な武将がいました。
呉越の戦いの中で、越は呉を打ち破るために呉王・夫差に美女を献上して戦意を失わせようとする策を立て、范蠡は美女をさがして国中を歩きます。
こうして西施の暮らしていた村にやってきて、范蠡は西施に出会います。当時西施は13、4歳くらい、彼女はこの「選美」(美人コンテスト)に選ばれて宮中に送られ、三年間、越王からの贈り物として恥ずかしくないよう歌舞や礼儀、立ち振る舞いなど、当時美女に必須とされた教養を学びました。そして17歳になると呉王・夫差のもとに送られます。
果たして夫差はこの美女にうつつを抜かし、政治や国防をおろそかにし、それから10年の後越の攻撃に耐えることができずに敗北、自害します。
ところで『史記』には呉越の話の中に西施の名前は出てきません。
中国の歴史家は、西施のように女性が外交の道具として使われるのは当時普通のことで、取り立てて名前を出すような存在ではなかったからだろうと言います。
ただ『墨子』『孟子』などさまざまな本で西施の名は取り上げられており、たとえば『墨子』には「西施之沈、其美也」(西施が沈められたのはその美しさのせいである)と書かれていて、墨子が生きた紀元前4~5世紀すでに西施という美女の存在は人々に知られ、その最期が川に沈められたのだと考えられていたらしいことがわかります。
西施の最期はどんなものだったのか。
一説では呉王が自害する前に、西施を皮衣に包んで長江に投げ捨てたといわれます。
また別の説では越王・勾践が越に戻ってきた西施を同じく長江に沈めたと言います。
さらにまた別の説では越王・勾践夫人が西施の美貌に嫉妬し、自分の夫もまた呉王と同じようになるのではないかと邪推し同様に川に沈めたといわれています。
いずれにしても何者かによって西施は「鸱夷子皮」という皮で作られた袋に入れられ、川に捨てられたというのです。
政治の道具となって利用されたあげく、こんな悲劇的な最期ではあまりにも哀れということでしょう、昆劇『浣紗記』では勾践の部下・范蠡が西施を呉王・夫差に送ってから10年の後、西施が戻ってくると彼女を妻にしたという話になっています。
『史記』では范蠡についてはその後が書かれており、それによると呉滅亡後、范蠡は猜疑心の強い越王・勾践に命を奪われることを恐れて越から逃げ出し、名前を「鸱夷子」と変えて太湖に船を浮かべ斉に渡ったとあります。「鸱夷子」というのは西施を包んで捨てたとされる皮袋のことです。
なぜ范蠡は「鸱夷子」という名前に変えたのか。ある学者は范蠡は西施が忘れられなかったからではないかと解釈しています。

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