魏(古代中国・戦国時代)の歴史と名将たち【歴史地図付き】

魏

(戦国時代)は古代中国・春秋時代末期に晋の家臣であった魏氏が氏、氏とともに君権を簒奪してできた国、いわば下克上で成り上がった国です。魏は当初豊かな人材を生かして国力を増し、戦国国家群の中で覇権を握りましたが、戦国末期にを相手に活躍した信陵君の失脚と共に衰退していき、秦に滅ぼされました。

※このページで扱う魏は戦国時代の魏の国で、三国時代の魏よりも600年以上前の時代です。

魏とは

魏氏は春秋時代の大国・晋の家臣で有力一族でした。他の有力家臣である韓氏、趙氏と共に晋の君権を奪い、国家・(BC.453~BC.225)を打ち建て、現山西省・河南省一帯を支配しました。魏の初代・文侯は呉起・西門豹など優れた人材によって、魏を戦国七雄最初の覇権国家にのし上げました。一方商鞅孫臏などの人材は生かせず、他国に流失させ、その結果例えば商鞅はで活躍し、その後の秦の超大国化に大きく貢献しました。孫臏はに行って軍師として活躍し、魏を二度討ちその国力を衰退させました。戦国末期には魏の公子・信陵君が戦国四君の一人として活躍し、秦による侵略を二度撃退しますが、敵の流言を兄王が信じたことで失脚。やがて魏は衰退、秦の王賁将軍の攻撃によって滅びました。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。魏は地図中央に位置しています。
年表
年表。魏・趙・韓の成立より戦国時代となります。

晋の分裂と魏の誕生

春秋時代に覇を競った晋は、春秋時代の末期、君権が衰退して臣下である有力氏族が権力争いを始め、この抗争で六卿(范氏・中行氏・趙氏・智氏・韓氏・魏氏)といわれる氏族が権力者として残りました。

この六卿のうち智氏が魏氏・韓氏・趙氏と協力して中行氏と范氏を滅ぼし、この両氏の土地を4氏で山分けしました。

その後魏氏・韓氏・趙氏が斉の君権を無視、これに対して晋の君主・出公(しゅつこう)は彼らを武力攻撃しますが敗北してしまいます。

このとき智氏は自分が君主の地位につこうとして魏氏・韓氏・趙氏に土地を割譲するよう要求し、魏氏・韓氏はこれに従いましたが、趙氏は拒否しました。

智氏は魏や韓とともに趙を攻撃し、趙が滅亡しそうになったところで、趙は魏・韓に智を裏切るよう呼びかけました。

すると魏・韓ともにこれに同意し、魏・韓・趙は智を攻撃してこれを滅ぼし、智の土地は魏・韓・趙にそれぞれ分配されました。

諸侯国に未だ多少の権威を保っていた東周の威烈王は、BC.403下克上で国を奪った趙・魏・韓を正式な諸侯国と認めました。

こうして下克上によって権力を簒奪した国が正式な国家として認められたことは、戦国時代の象徴的な出来事となり、そこでこのBC.403をもって戦国時代が始まったとする考え方もあります。

趙・魏・韓はもとは晋だったため三晋とも呼ばれています。

覇権を握る

戦国七雄のうち最初に覇権を握ったのはこの三晋の一つ・魏です。

魏の文侯は呉起(ごき)・西門豹(せいもんひょう)・李克(りこく)・楽羊(がくよう)など優れた人材を登用して国力を増し、魏は戦国時代最初の超大国となりました。

西門豹は灌漑事業を担当し、当時の迷信を打ち破って溝渠(こうきょ…水を通すための溝)を作り、農業の生産性を高めました。人々からは批判の声もありましたが「百年後に評価されればそれでよい」と言って、この事業をやり遂げたということです。

李克は魏の宰相を務め、豊作の時は人々から穀物を国が買い取り、飢饉になるとそれを放出し、安心して農業に取り組める環境を作りました。

文侯の次の武侯の時代も魏の勢いは衰えず、その次の恵王の時代になると、東周の君主しか使ってはならなかった王の称号を使うようになりました。

恵陵・馬陵の戦いと孫臏

優れた人材を抱えた魏でしたが、一方こうした人材を手放してしまった失敗もありました。

たとえば秦で一大改革を行い秦を飛躍させた商鞅は、もともとは魏の家臣でしたが重用されないまま、やがて秦に去りました。

また孫子の兵法で有名な孫武の子孫といわれる孫臏(そんぴん)も魏に招かれたことがありました。

孫臏の才能に地位を脅かされるのではないかと考えた魏の将軍・龐涓(ほうけん)は、ワナをしかけ、孫臏は無実の罪で足を切られ顔には入れ墨を入れられてしまいました。孫臏の臏とは本名ではなく「足切りの刑」という意味です。

後に斉から魏にやってきた使者が孫臏のただならぬ才能に驚き、斉に連れ帰りました。その後孫臏は斉の兵法顧問となりました。

その頃魏に攻め込まれた趙が斉に救援を求めると、斉王はそれに応じ孫臏を将軍にしようとしました。

孫臏は「自分は刑を受けた人間だから」と言ってそれを断り、軍師として幌のついた車に乗り、いくさの参謀役になりました。

孫臏は斉軍を趙には向けずに魏に進めました。魏軍は趙に遠征していたのでその留守を襲ったのです。魏軍はあわてて戻ってきましたが、この桂陵(けいりょう)の戦いで魏は大敗しました。

その10年後魏と趙が連合して韓を攻めました。韓は斉に救援を頼みました。今度も孫臏は韓には向かわず魏に進軍し、魏軍が急いで戻ると馬陵で再び大敗を喫しました。

その時の魏の将軍は孫臏を陥れて足切りの刑にした龐涓で、龐涓は自分の負けを知って自刎しました。

これらの戦いの後、魏の国運は次第に傾いていきました。

信陵君

BC.340には元魏の家臣・商鞅が秦軍を率いて魏を攻撃、魏はこのいくさで大敗を喫し黄河以西の領土を失いました。

その後魏はさらに秦の圧迫にさらされましたが、魏の公子・信陵君(しんりょうくん)が秦に侵攻されている趙に無断で兵を向け、秦軍を追い払いました。

BC.247には信陵君は5か国の軍を率いて再び秦軍に勝利しました。

秦は魏に信陵君がいる限り武力では勝てないと考え、魏の王室に「信陵君は王位を狙っている」という流言を流し、これを信じた信陵君の兄の魏王が信陵君を引退させました。

やがて信陵君は亡くなりますが、信陵君のいなくなった魏はさらに衰退、BC.225秦の将軍・王賁(おうほん)の攻撃を受けて滅びました。

魏の王室と前漢

魏はこうして滅びましたが、その後秦を滅ぼした前漢の劉邦は旧魏王室の薄姫(はくき)を側室とし、その子・劉恒(りゅうこう)が文帝として皇帝に即位し、魏王室の血筋はこうして前漢の王室に受け継がれました。

戦国の魏、三国の魏

中国に魏という国名はいくつかあります。戦国時代のこの「魏」、そして三国志時代に曹操が基礎を作った「魏」、また南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏が華北に建てた「魏」(北魏とも)です。

2020年のセンター試験で、この「魏」に注目が集まりました。試験の作成者は「三国の魏」を想定していましたが、「戦国の魏」の可能性もあり、そのどちらであるか問題文に表記せず(つまり作成者が戦国の魏について失念していた)、この問題は点数に入れない…というか、全員に点数を与えることになりました。

歴史の先生でもうっかり忘れてしまうほど、戦国の魏は影が薄いということでしょうか。

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