陳勝・呉広の乱【解説と歴史地図】
陳勝・呉広の乱とは秦末に起きた打倒秦王朝の反乱のことです。陳勝、呉広ともに自分の耕作地を持たない雇われ農夫でした。彼らの反乱は1年ほどで失敗に終わりますが、これが呼び水となってあちこちで打倒秦の動きが起こり、秦滅亡につながりました。
目次
- 1. 陳勝・呉広の乱とは
- 2. 陳勝・呉広の乱のきっかけ
- 3. 陳勝・呉広の活躍とその最期
- 4. 前漢による顕彰
陳勝・呉広の乱とは
陳勝・呉広の乱とは、始皇帝が病死した翌年に始まった元雇われ農夫の陳勝と呉広による対秦反乱のことです。陳勝と呉広は、秦政府に徴用された最下層の兵士として漁陽(現在の北京、天津、河北省東北部)に向かう途中でしたが大雨に降られて、期日に到着しなければ秦の厳しい法律により死罪という状況に、どうせ死罪になるならいっそ反乱しようと決意しました。千人足らずの寄せ集め軍団はあれよあれよという間に数万の規模にふくれ上がり、陳勝は王を名のるまでになりました。それから半年で陳勝も呉広も命を落とし、この乱はあっけなく幕を閉じますが、他の反乱軍の呼び水となって、やがてその一つから項羽や劉邦などが頭角を現し、彼らによって秦は滅亡しました。
陳勝・呉広の乱のきっかけ
陳勝は陽城(現河南省)の人で字(あざな)は渉です。このため陳渉とも呼ばれます。自分の田を持たず、人に雇われる農夫でした。
秦の始皇帝の次の皇帝である二世皇帝の元年(BC.209)、漁陽(現在の北京、天津、河北省東北部)の守備のため兵士として徴用されました。この時徴用されたのは囚人や貧窮者ばかりで、当時の社会の最下層といってもいいでしょう。呉広も同じ身分で、二人ともそれぞれ小部隊の隊長を命じられました。
この部隊、総勢900人が北方の漁陽に向かい、途中大沢郷(だいたくきょう)という沼地で宿営しました。連日の大雨でこの先の道は不通になっていました。
当時の秦の法律では期日までに目的地に到着しないと処刑されます。陳勝は呉広に相談しました。
「期日に遅れれば処刑、逃げても処刑、反乱を起こしても処刑だ。どのみち助からない命であるなら、オレたちで国を作っちまうのはどうだ。
天下は秦の悪政に苦しんでいる。本来次の皇帝になるはずの公子・扶蘇(ふそ)は立派な人だったが、弟である今の二世皇帝に命を奪われたらしいじゃないか。楚の項燕(こう えん)将軍も立派な人だったのに、秦に侵略されて死んだとも逃げたともいわれている。
オレたち、この二人の名前を名乗って天下に呼びかけたら、応じてくれる者が多いんじゃないか」
この話を聞いた呉広は、陳勝の言うことはもっともだと同意し、二人で占い師のところに行きました。
占い師は「あんた方の仕事はうまくいくだろう。ただし鬼神の力を借りるがよい」と言いました。
そこで二人は、布きれに朱色で「陳勝は王になるだろう」と書き、それを漁師が釣り上げた魚の腹の中に入れておきました。他の兵士たちがこの魚を食べたところ、中からこの布が出てきたのでみな驚きました。
夜中には呉広が宿営地のそばの祠に隠れ、そこからキツネの鳴き声を交えつつ「大楚が興る!陳勝は王になる!」と叫ぶと、兵士たちは驚き惧れ、昼間になると陳勝に目をやりながらヒソヒソとうわさ話をしました。
尉(い)と呼ばれる秦の役人が900人の兵を管轄していましたが、呉広はわざとこの役人を挑発し、自分を侮辱するよう仕向けました。呉広は部下の兵士たちから好かれていたので、自分が侮辱されることで兵士たちが腹を立てるのを期待したのです。
果たして尉が怒って呉広を鞭で打ちましたが、その際剣が抜け落ちたので呉広はそれを拾って尉を刺しその命を奪いました。陳勝も呉広を助けに入り、他の尉二人を刺しました。
その後陳勝と呉広は兵士を集め、こう呼びかけました。
「この大雨で我らは期限に遅れることになる。当然処刑だ。処刑されなくても、辺境守備では10人中6~7人は死ぬ。どうせ死ぬならでっかいことをしようではないか。王侯将相いずくんぞ種あらんや!(王族だの宰相だの家柄で決まるもんじゃなかろう)」
この呼びかけに兵士たちは心を揺さぶられ「謹んで命(めい)を受けん!」(つつしんでご命令に従います)と叫んで陳勝に従うことを誓いました。
その後彼らは衣服の右肩を脱ぎ、国名を「大楚」とし、祭壇を作って斬った尉の頭を供えて神を祀りました。
こうしてかつての雇われ農民・陳勝は将軍に、呉広は都尉(武官)となって秦帝国への反乱が始まりました。
陳勝・呉広の活躍とその最期
陳勝・呉広の反乱軍は次々と都市を陥落させ、900人の部隊は数万の大軍に膨れ上がりました。陳を落とすと陳勝は王を名乗り、国名を「張楚」(ちょうそ…楚を拡張するの意)と変えました。
その後こうした反乱は秦全国に広がっていきました。
張楚軍は数十万の兵をもって秦の函谷関を落としますが、その後は、形勢を立て直し囚人や奴隷を駆り出した秦の章邯(しょう かん)によって敗走を余儀なくされます。
まもなく呉広は配下の将軍に、陳勝は自分の御者に命を奪われ、彼らの反乱はあっけなく終わりました。
BC.208、武装蜂起から約1年、陳勝が王を名乗ってから半年後のことです。にわか仕立ての陳勝グループにはお互いに強い絆がなく和気に欠け、団結心に乏しかったといわれています。
陳勝・呉広の乱はこうして幕を閉じましたが、彼らの動きに誘発され、沛(はい…現江蘇省にある)では劉邦(りゅう ほう…後の前漢・高祖)が決起、会稽では項梁(こう りょう…項燕の子)・項羽(こう う…項梁の甥で項燕の孫)が挙兵、打倒秦の火は消えることなく全土に広がっていきました。
陳勝・呉広の死後、反乱の中心となったのは項梁で、彼のもとに劉邦一団やその他の反乱グループも集結して秦を追いつめ、陳勝・呉広の乱の終結から2年後、秦は滅びました。
前漢による顕彰
漢の高祖(劉邦)の時、陳勝のためにその墓近くには墓守として30戸を配し、いけにえを供えて今も祭祀を続けている、と『史記』には書かれています。
劉邦は、陳勝・呉広の決起があったからこそ漢王朝が生まれたと、恩義を感じていたに違いありません。