火薬の発明と歴史【古代中国の錬丹術から】

火薬の発明と歴史

火薬は「黒色火薬」とも言い、硝酸カリウム・硫黄・木炭それぞれの粉末を混ぜ合わせて作り出したもので、熱や刺激によって簡単に激しく燃えます。火薬は9世紀ごろ中国で発明されたと言われます。ここでは火薬発明に至る歴史を中心に紹介します。

火薬は道士による錬丹術に起源

古代中国人は「火薬」なるものを求めた末に9世紀ついにそれを発明した、というわけではありません。中国の人々、特に権力や栄華を極めた帝王たちが、現世の栄華を未来永劫我がものにしようと「不老長寿」を求めたことにそのきっかけがあります。

有名な話に「秦の始皇帝と徐福」の伝説があります。秦の始皇帝が不老不死を求めて、数千人の童男童女を徐福に託し東シナ海に船を出したという話です。始皇帝のみならず漢の武帝も不老長寿の薬草を探させようと仙山を目指して人を送りますが、いずれも失敗に終わりそのような場所が見つかることはありませんでした。そこで探しに行くのはあきらめ、神仙の術を身につけた方術士たち(方士・道士とも)に不老長寿の薬を作らせることにしたのですが、こうしたことを数百年続けた結果、中国の古代薬学や古代化学は意図せずして大きく発展し、その結果として「火薬の発明」が待っていたのでした。

錬丹術に情熱を注いだ古代中国人

「錬丹術」とは不老長寿の霊薬づくりのことですが、戦国時代・秦・漢と古代中国人はこの錬丹術に情熱を燃やします。

霊薬づくりを担った方術士を道士というように、不老長寿を求める思想は道教と結びついています。道教は儒教・仏教と並んで中国3大宗教の一つですが、きわめて現世利益的な宗教で、苦行による魂の救済とか贖罪しょくざい意識などとは無縁です。仏教やキリスト教とは明らかに異なっていて、中国の宗教文化の特色をよく表していると言われます。けれどもこの仙薬を求めることに費やした時間とエネルギーたるや大変なもので、不老長寿の薬などというものをなぜ作れると思い込んだのか…中国人はそれほど死にたくなかったのか、現世を楽しみたかったのか…、やや時代は後になりますが、中世日本人が逆に死を不可避のこととし死後の世界の幸せをという仏教の死生観を信じたのと比べた時、ともに命の永遠を願っているわけですが、その方向性は真逆です。自分の願望や欲望は荒唐無稽であってもかなうと思い込んで猪突猛進する古代中国人と諦観の中世日本人、この個性の違いは今も残っている気がします。

錬丹術と火薬

不老長寿の薬の完成をめざす「錬丹術」はどのように火薬と結びついていったのか。中国では殷の時代から青銅器という銅とすずを溶かして作った合金を作っていました。春秋時代になると鉄鉱石を高温で精錬して鉄器を作るようになります。こうして中国人はきわめて古い時代からさまざまな鉱物についての知識を豊かに持っていました。やがてこの冶金やきん(鉱物から金属を精製したり合金を作る)技術を使って不老長寿の薬を作ることを思い立つ人々が現れるのです。

たとえば漢の武帝の時代、李少君という方術士は武帝が仙人になりたがっているのを知って、錬丹術で黄金を作り出し、この黄金の食器で食事をとればやがて仙人になれます、と進言します。金は腐らないのでこの成分を取れば人間も老いたり死んだりすることはない、と当時考えられていたのです。滑稽な話に聞こえますが、現代でも「〇〇を食べればガンになりにくい」などと聞けばその証明も求めずに皆競って食べますから、昔の人を笑うことはできません。「金は腐らない=これを食べれば人間も腐らない」、ホーッなるほど理にかなっていると思ったのではないでしょうか。

こうして漢代には、人工的にホンモノの金を作り出すことはできなかったものの錬丹術によって様々な合金が作られました。後漢末魏初の人、魏伯陽は『参同契』という錬丹術の本を著していますが、この本の中で鉱物などの「化合」がうまくいかなかった時「飛亀舞蛇」(亀が飛び蛇が舞う)という現象が起こると書いています。これは錬丹術の最中に爆発が起きたことを表していると言われます。

彼は自分の作った仙丹を口にして死んでしまうのですが、不老長寿の薬で「死ぬ」という言葉はまずいというので、彼の死には「屍解しかい」という言葉が使われました。この言葉の方がなんだか不気味ですが、「屍解」とは「魂が体から離れ仙人になった」というおめでたい意味を持つそうです。

唐代に入っても錬丹術人気は衰えず、唐の朝廷でも方術士を招いて仙薬を作らせ5人の皇帝がめでたく「屍解」しています。聡明で知られる玄宗皇帝などは「危ない!」と察知したのでしょう。これを口にすることはありませんでした。

火薬の誕生

さていよいよ火薬の誕生です。

黒色火薬は木炭・硫黄いおう硝石しょうせきで作られます。

このうち殷や周の時代、冶金の際にはすでに木炭を使っていました。木炭はまきよりよく燃えるのです。硫黄は皮膚病の治療薬に使われていました。硝石の成分は硝酸カリウムですが、これも古くから薬品として瘀血おけつ(血の流れが滞ること)の治療に使われていました。方術士たちはこれを酸化剤や溶剤として使っていたのですが、彼らは硝石を燃やすと紫色の炎を立てるという特徴を知って、硝石を見分けていました。

方術士たちは遅くも唐代までには実験を通して、木炭・硫黄・硝石の混合物が激しく燃え上がる現象を知っていました。

『太平広記』という北宋までの奇談を集めた本に、隋朝の杜春子の話があります。芥川龍之介がこれをもとに『杜子春』を書いています。この杜春子の話の中で、彼がある方術士を訪ねたところ、真夜中に錬丹術用の炉から紫の炎が突き抜け、瞬く間に家が燃えたとあります。紫色の煙は硝石に特徴的な炎色反応ですから、この方術士は硝石を使って仙薬調合の実験をしていたのでしょう。

850年頃に書かれた『真元妙道要路』という本は道教経典の一つですが、その中で「硫黄と鶏冠石(二硫化ヒ素)と硝石・ハチミツを混ぜて、やけどをしただけでなく自分の家まで焼いたものがいる。このようなことは道家の名誉を傷つけるからやめるように」と書かれています。この記述は「火薬の発明は850年頃」説の根拠となっています。

ちなみに火薬にヒ素は必要ないのですが、火薬の原料を混ぜる時初期にはヒ素も使われていました。のちの中国で火薬を使って爆弾が作られるようになると、そこにヒ素由来の毒性も加わることとなりました。

1040年頃、北宋のそう公亮こうりょうは『武経総要』(兵書)の中で史上初めて火薬の作り方を公表しました。この中で彼は3種類の兵器における火薬の製法を書いています。爆裂弾、焼夷弾、毒ガス弾です。これらは激しく燃え上がり大きな音を出したのだそうですが、爆発力はまだ弱かったと言います。のちに硝石の割合を75%まで増やすことで爆発力を高めました。この割合は現代の火薬と同じ割合です。

火薬はどのように伝わっていったか

中国が焼夷弾やら毒ガス弾やら、現代でも通用する兵器を作っていた頃、西洋では火薬すら知られていませんでした。火薬が西洋に伝わるのは12世紀の末と言いますから、火薬の発明からは数百年が経っていました。

火薬の発明において最も決定的なものは硝石です。西洋では硝石の存在は中世まで知られておらず、また自然鉱床としては存在もしていませんでした。中国では華北の商城や淮河の沿岸などこれが採掘できる場所があったのです。この付近の住民は塩分の多い土を集め、ろ過して硝石を採り出していました。硝石はあらゆる鉱物を溶かすので「消石」と名付けられたのだそうです。

硝石はまずアラビアに伝わり「中国の雪」あるいは「中国の塩」と呼ばれました。その後13世紀に硝石を使った火薬の製法がアラビアとヨーロッパに伝わりました。ただヨーロッパでは硝石がほとんど採れなかったので、18世紀にイギリスがインドで採掘場を作るまでは火薬はあまり使われませんでした。

日本が火薬を使った武器に遭遇するのは元寇の時です。初めて見る「てつはう(てっぽう)」は今言うところの「鉄砲」とはだいぶ形が異なり、大きな金平糖のようですが、発射すると空中で爆発しその音や閃光はすさまじく、日本側は武士も馬も肝をつぶしたと言われています。

日本に黒色火薬の製法が伝わったのは、元の襲来からしばらく経った14世紀ごろです。