李陵の生涯~誤解により滅ぼされた将軍~【歴史地図付き】

李陵

李陵(りりょう)とは前漢武帝に仕えた武将です。英雄を出してきた名門の出で、李陵もまた対匈奴戦に出陣しましたが、多勢に無勢で敗北、匈奴の捕虜となりました。李陵は匈奴に寝返ったという誤解に基づく情報が武帝に知らされ、李陵一族は滅ぼされました。

※上の写真は漢と匈奴の争いの最前線だった敦煌

李陵とは

李陵(り・りょう…?~BC.74)は前漢第7代皇帝・武帝に仕えた将軍です。始皇帝に仕えた李信を祖先とし、「漢の飛将軍」と匈奴に恐れられた李広が祖父という武門の名家出身です。

李陵もまた優れた武将で、李広利将軍による匈奴征伐の際、李陵は5千の兵を与えられて別動隊として戦地に向かいました。匈奴軍は8万の軍勢で包囲攻撃をしかけ、多勢に無勢の中奮戦しましたが大勢の戦死者を出して敗走。味方の陣営にもう一歩のところで退路を断たれ降伏しました。の朝廷には「李陵は匈奴側に寝返った」という誤報が届き、これに激怒した武帝は李陵の一族を全て滅ぼしました。誤解によって名誉も家族も失った李陵は武帝を恨み、匈奴の土となることを選んで二度と漢に戻ることはありませんでした。

前漢の地図
前漢の地図。匈奴は地図左上の辺りを支配していました。
年表
年表。李陵は前漢時代の武将です。

李陵の祖父・李広

李広
李広。

李陵の祖父・李広(り・こう…?~BC.119)の家は代々射術を受け継いでいました。第5代皇帝・文帝の時、匈奴(きょうど…中国北方の騎馬遊牧民族)が現在の甘粛省に侵入した際、李広は従軍し活躍して武騎常侍(騎馬武官)になりました。猛獣を素手で仕留めるほど勇猛で、文帝から「もしお前が高祖(劉邦)の時代に生まれていたならば諸侯に取り立てられていただろう」と言われました。

李広は第6代皇帝・景帝の下で呉楚の乱を戦い、ここでも活躍しました。その後は辺境の太守となり、匈奴を討って名を挙げました。

匈奴は李広を恐れ、兵士たちは李広を慕っていました。後に李広は将軍となりましたが、匈奴との戦いで捕虜になってしまいます。

李広は死んだふりをして、スキを見つけるや馬に飛び乗って漢の陣営に戻りました。けれどもこのいくさで大勢の部下を失い、自らも捕虜になった罪を問われて将軍職を失いました。

その後も匈奴は漢に侵入し太守や将軍の命を奪ったので、皇帝は李広を太守に戻しました。匈奴は李広を怖れ、李広のいる場所には近づこうとしませんでした。

李広は無口で廉直な人柄で、賞与は部下に分け、食事も彼らと共にしました。

あるときの匈奴との戦いで、前漢の役人から、道を間違えたことをとがめられ尋問に答えるよう迫られました。

彼は「匈奴と70余戦を戦い、今道に迷っていくさにしくじった。これはわしの天命だろう。六十余にもなって俗吏の取り調べなど受けようとは思わない」と言って自ら首をはねました。

この知らせを聞いた兵士たちは皆声をあげて泣き、土地の人も涙を流したといいます。

李広には子供が3人いて、そのうち当戸という息子は勇敢でしたが早死にしました。当戸の遺児が李陵です。李広が亡くなった時、李陵は霍去病(かく きょへい)将軍に従っていました。

李陵、匈奴に敗れる

李陵は祖父と同様、射術に優れ部下を愛する軍人でした。騎都尉に任命されて楚人5000人の将軍となり、彼らに射術を教えて僻地に駐屯しました。

李広利将軍が3万騎を率いて匈奴と戦った際、李陵は射士や歩兵5000人の別動隊を率いて北方に向かいました。漢軍を二つに分けて戦おうという作戦です。

李陵軍に対して匈奴軍は8万の軍勢で包囲攻撃を仕掛けました。

李陵軍5000人は交戦の果て、武器も失い戦死者も半ばを超えました。一方匈奴軍も1万人を超える死傷者を出しました。

李陵軍は敗走しながら戦い、8日間死闘を繰り広げ、味方の陣地まであと百余里(約50キロ)というところで退路を断たれ、李陵は匈奴に降伏しました。

部下は散り散りに逃げて、漢に生還した者は400人ほどでした。

武帝の怒りと李陵の抑留

匈奴の単于(ぜんう…匈奴の王)は李一族の名声を知っており、李陵が非常に勇敢だったので、自分の娘を李陵の嫁とし敬意を表しました。

武帝はこの情報を伝え聞いて激怒し、陵の母親や妻子をはじめ一族をすべて滅ぼしました。漢の国内では李一族の名声は地に堕ちました。

一途に武帝に忠誠を尽くしてきた李陵は、老母と妻子の死を知って深く武帝を恨みました。彼は単に匈奴に抑留されただけで、漢を裏切るつもりはなかったのです。

ここには大きな誤解があったようです。それまで匈奴に投降した漢の武人たちは朝廷に恨みがあって投降し、その後は匈奴のために尽くしました。その中に同じ李という姓を持つ者がいました。漢の朝廷では李陵こそその裏切り者だと誤解をしたのです。

司馬遷の弁護

漢王朝の歴史官・司馬遷は李陵の友人というほどの関わりはありませんでしたが、仕事の中で李陵の人となりを知っていました。そこで武帝の怒りを知りながら司馬遷は李陵の弁護をし、そのことが武帝の怒りに火を注ぐことになりました。

司馬遷はたちまちにして捕縛されて牢に押し込められ、腐刑という最も屈辱的な刑罰を受けました。

司馬遷は幼い頃から父のあとを継いで、中国の通史を書くことを使命として育てられています。

壮年になるまで全国各地を歩いて、歴史官の仕事に備えており、権謀術数渦巻く朝廷の人間関係の中で立ち回るすべを知らなかったのかもしれません。

また武帝が行う行事にもたびたび参加し、まごころをこめれば直言がゆるされると思っていたかもしれません。

武帝は英邁な皇帝でしたが、専制君主としての統治はすでに40年を超え、老境に入っていました。若い頃の優れた判断力は失われていたかもしれません。

いずれにせよそれぞれの思惑はズレ、李陵にも司馬遷にも悲劇が訪れました。

その後の李陵

李陵は大きな失意の中で「異域の人」として生きる決心をし、19年ののち漢と匈奴の間に和議が成立して匈奴抑留者が帰国できることになっても帰国しようとはしませんでした。

李陵は、李陵の人柄を見込んで匈奴の単于(君主)が与えた娘を妻として、その後を匈奴に生き匈奴の土となりました。

同じ境遇に蘇武がいて、彼は匈奴に投降することなく19年の日々を匈奴の牧人として過ごし、漢と匈奴の和議成立の際故国に帰りました。彼と李陵には深い友情があり、蘇武帰国の際に李陵に残したとされる詩は惻惻(そくそく)として胸を打ちます。

蘇武 李陵に与うる詩(一部)


子(し)が帰ることあたわざるを念う

俛仰いて内に心を傷ましめ

涙下りて揮(ふ)るうべからず

願わくば双つの黄鵠となりて

子(し)を送りてともに遠く飛ばん

黄鵠(こうこく)とは、千里を飛ぶという黄色みを帯びた白鳥のことで、想像上の鳥。

家族の命をすべて奪われた恨みは消えず、なつかしい故郷には二度と帰らぬという李陵の決意を知りながら、千里を飛ぶ白鳥になって君とともに帰りたいという詩です。

ちなみに中島敦(なかじま あつし…1909~1942 作家)の代表作に『李陵』があり、李陵の心情を細やかに描いています。