道教の歴史と思想・神々

道教

道教とは古代中国・春秋戦国時代の老荘思想(※参考…「老子」「荘子」)を源流とし、やがて黄老思想や神仙思想を包摂し、後漢末に太平道や五斗米道という教団が興り、これが道教の始まりといわれています。現代では「正一教」と「全真教」が道教の二大宗派となっています。正一教は今も台湾で広く信仰されています。

※上の画像は道教の聖地・十大洞天のうちの一つを描いたもの。

道教とは

道教老子荘子の思想を源流としますが、その教義は老荘思想と深く結びついたものではありません。道教は「道」(タオ)を神として信仰し、道は神羅万象に存在するので、人の願いの数だけ神がいるといわれています。最高神は「玉皇大帝」ですが、その他「関帝」「媽祖」「門神」「竈神」「八仙人」などが存在します。道術と呼ばれる修行法には、導引・気法・金丹・尸解などがあり、金丹は不老長寿の仙人になる薬、尸解は死んだ後生き返って仙人として生きる術です。中国の古代王朝は一般に道教を重んじましたが、清朝の乾隆帝以降朝廷における道教は衰退し、特に現代中国では文革時代に激しく迫害されました。台湾では今も信仰を集めています。

道教の源流とその後

道教の源流は老子や荘子など道家の思想です。

道家の思想・すなわち老子や荘子の思想は、戦国から前漢初期に流行した黄老思想(こうろう しそう…老子の思想は黄帝に始まるという考え方)を経て、やがて神仙思想などをその中に含み、後漢末の太平道や五斗米道(ごとべいどう…天師道とも)という教団の発生に結びついていき、これが道教という教団の起源となったといわれます。

5世紀に寇謙之(こうけんし…363~448)が五斗米道を改革し、これが北魏(ほくぎ…386~534 中国の南北朝時代に鮮卑族が建てた国)の国教となりました。

この五斗米道(天師道)は元代(1279~1367)に「正一教」(しょういつきょう)と名を改め現在まで続いています。

新中国成立以前は江西省の龍虎山に大本山(最高位の道教寺院)がありました。正一教の宗教活動は今も台湾で盛んに行われています。

また北宋末には王重陽が道教の一派である全真教(ぜんしんきょう)を興しましたが、ここの大本山は、北京の有名な観光地でもある白雲観(はくうんかん)です。

この正一教と全真教が道教の主な宗派であり、現在二大勢力となっています。

年表
年表。燕は春秋戦国時代に存在しました。

正一教と全真教の違い

正一教は祈祷や方術、護符などで長寿や病気の治癒、平安無事などを祈願し、道士(どうし…道教における僧侶)は結婚することが可能です。一方全真教は道観という道教寺院に住んで座禅を主とする修行を行い、道士は結婚することはできません。北京観光の機会に都心近くの白雲観を参観すれば道士の姿を見ることができます。

道教という宗教世界

道教は「道」(タオ)を神として信仰する宗教です。道はいたるところにあるので神の数も多く、大自然や動物、時間、土地や都市、家の中、かまどやトイレ、門など到るところに神の存在があります。

歴史上の英雄や神話伝説の主人公、有名な道士なども神として祀られます。道教では「人の願いの数だけ神がいる」ともいわれています。

人は現世と来世の幸せのために祈り、魔や邪を排除し、永遠の宇宙や自然との一体化を願います。生活のあらゆる行為の中で神が見ていることを自覚し、瞑想や苦行などを通して道との一体化を図ったり、葬儀や招魂などでの儀礼を守ることで神に近づく安心感を求めます。

ちなみに台湾のお廟で行う「ポエ」は神意を伺う行為で、信者たちは陰陽2面を持つ「ポエ」を投げて神意を求めます。この時信者は非常に敬虔な態度でこれを行い、日本の神社でおみくじを引くときの雰囲気とはまったく異なります。台湾のお廟をお参りする際、日本人観光客は台湾のガイドさんから「台湾の信者たちはみな真剣にポエを引いているんですから、遊び半分なら皆さん、ポエをやらないでくださいね」と釘をさされたりします。

民間信仰としての道教の最高神は「玉皇大帝」(ぎょくこう たいてい)で、天庭に住んで宇宙や自然、人間界の秩序を統括しています。玉皇大帝は神々を通して人間界を保護し、人々も安寧を願って神々に祈りを捧げます。

玉皇大帝は人間の善悪や正邪を把握しており、悪いことを行った者を罰します。

玉皇大帝の下で働く神々には城隍(じょうこう)がいて、人間界の府には府城隍が、県には県城隍がいてそれぞれ行政や警察機能を司っています。

城隍の警察機能とは悪鬼を取り締まることですが、中国における「鬼」(き)とは、人が死んだのちの霊格の一つで、いわゆる「霊魂」のようなものです。

鬼は子孫に祀ってもらうと「祖先」という霊格に昇格します。祖先は子孫から祭品を供えてもらことで冥界(めいかい…あのよ)で暮らし、代わりに子孫の生活を見守ります。

道教の世界で神々の世界と人間世界はパラレルワールド、平行して存在しており、神の世界を「陰間」、人間界を「陽間」と呼びます。

鬼と人もパラレルで、鬼の昼は人の夜、鬼の夜は人の昼です。

民間宗教としての道教の中の仏教や儒教

一般に「道教」と呼ばれる中国の民間宗教の中には、仏教的要素や儒教的要素も入り込んでいます。

たとえば「観音信仰」。観音菩薩はもともと仏教ですが、道教的な民間信仰の中でも篤く信仰されています。観音様に人々が求めるものは慈悲であり、懲罰的な玉皇大帝とは補完関係にあります。

また人が死ぬと「鬼」(き)になり、子孫の慰霊によって「鬼」が「祖先」になるという信仰には、儒教の影響が見られるといわれています。

道教の神々

道教には玉皇大帝のほか、さまざまな神様がいます。その中の代表的な神様を下に紹介しましょう。

関帝(かんてい)…『三国志』の英雄・蜀の関羽が神格化されたものです。

道教の神々の中でダントツの一番人気で、横浜の中華街にも関帝を祭った立派な関帝廟があります。

関帝は商売繁盛の神様なので、中国に行くとよく町中の商店に飾り物の関帝の姿を見ます。

媽祖(まそ)…航海安全の女神です。

媽祖も元は福建省に実在した女性だといわれています。

横浜中華街のもう一つのお廟はこの媽祖廟で、人気のほどがわかります。

門神…家を悪鬼、妖気から守る神様です。門神を描いた紙を門の左右に貼って家を守ってもらいます。

竈神(そうしん)…竈(かまど)の神様で、旧暦12月23日になると天に帰って玉皇大帝にその家の善悪諸状を伝えます。

この報告が悪いと家族の寿命にも影響するので、かつての中国ではこの時期になるとご馳走を並べてこの神様のご機嫌を取りました。

八仙人…個性豊かな8人の仙人たちのことで、この中では呂洞賓(りょどうひん)が最も有名でよく絵に描かれています。

ちなみに台湾では、明治時代の駐台湾巡査であった森川清治郎や太平洋戦争時の日本海軍兵士であった杉浦茂峰が生前の行いから神格化され、それぞれ義愛公、飛虎将軍として道教のお廟に祀られています。

杉浦茂峰はゼロ戦のパイロットで、台湾上空で米軍に撃墜されますがすぐには脱出せず、住宅地を離れた場所でパラシュートで脱出したところを機銃掃射を受けて戦死しました。二十歳でした。この住宅のあった村人が戦後氏の姿を夢に見たところから、祠が作られました。茨城県水戸の出身で、台湾のお廟のご神体が水戸に里帰りしたこともあります。

道教の神の祀り方

道教の神は位が低ければ単独で祀られ、位が高ければ左右に脇侍(きょうじ・わきじ)が置かれます。脇侍は「童男・玉女」などと呼ばれます。

道教の男神は濃くて長い髭を持つのが特徴で、仏像との大きな違いです。

また道教は数字の3を重んじることから、脇侍を持たずに高位の神を3体並べることもあります。序列としては中央が最も高位で、次が向かって右、その次が向かって左となります。この第3番目の神は低位の神となりますが、それだけ生身の人間に近い神ということにもなります。

道術のいろいろ

道術(どうじゅつ)とは、不老長寿である神仙に至ることを目的とした道教の修行法のことです。

この中には、導引・存思(そんし)・気法(服気・行気・胎息)・金丹・内丹・方薬・符図(ふと)・庚申(こうしん)・尸解(しかい)などがあります。

金丹の術とは、葛洪(かつこう…283~343 東晋時代の道教研究家)が『抱朴子』(ほうぼくし…仙人になるための修行方法などを記した本)の中で書いている錬丹術(れんたんじゅつ…飲むと仙人になれるという薬を作る術)のことです。

気法とは、体に「気」を巡らせて不老長寿などを図る技法のこと。

内丹とは、体内を巡る「気」を修錬することで、体の中に不老不死の金丹を作る技法のこと。

尸解とは、死んだ後生き返り、そこから離れた場所で仙人として生きることです。

各王朝と道教

中国の王朝と道教の関係を見てみますと、まず初めて中国を統一した秦の始皇帝は不老不死の神仙思想に熱中し、権力と財力を傾けてこれを追求しました。

古代、日本にやってきたという「徐福伝説」の徐福も、不老不死の薬を求める始皇帝が派遣したものです。

前漢の武帝も始皇帝に劣らぬ情熱で不老不死を求めました。

隋王朝では道教より仏教が重んじられました。

唐王朝は中国の歴史上、最も道教を重んじた王朝です。

この理由の一つが、唐王朝の姓が李であり、老子の姓と同じであったことです。

唐代は三教の序列を仏教→儒教→道教としました。道教が最も上にきます。

玄宗皇帝は五岳(ごがく)…中国の五大霊山のことで、泰山(東岳・山東省)・華山(西岳・陝西省)・衡山(南岳・湖南省)・恒山(北岳・山西省)・嵩山(すうざん 中岳・河南省)を指す…の祭祀を道教式に改めました。

宋王朝も唐と同じで道教を重んじました。

モンゴル人が建てた元王朝の国教はラマ教でしたが、道教とも密接な関係を持ちました。

明王朝の太祖洪武帝は元托鉢僧で仏教徒でしたが、道教も厚遇していました。

清王朝は異民族でしたので中国に根付いている道教文化には関心は持ちませんでしたが、初めは道教に好意的でした。乾隆帝以降、道教への管理は厳しくなり、やがて道教の勢いは衰えていきました。

新中国成立後の道教

1948年中国共産党の勝利が決定的になると、道教二大宗派の一つ・正一教の教祖一家は家族や護衛、代々伝わる法印や法書などとともに台湾に逃れました。

その後国民党政府から公式な道教として認められ、やがて台湾道教では最高位の道教組織となりました。

ただ現在ではこの宗派の後継者をめぐって混乱が続いていると伝えられています。

一方共産党の支配を受けた中国大陸における道教は、文化大革命時代(1966~1976)に道観(道教の寺院)や神像、文物のほとんどすべてが破壊されました。道士たちもまた激しい迫害を受け、道士と呼ぶべき存在は一人もいなくなったといいます。

80年代に始まる改革開放政策後、道教の活動も徐々に復活し、1984年以降は各地の道観や道教協会が復興、復活していきました。

現在北京の白雲観には「中国道教学院」が置かれ、道士の教育にあたっています。

日本と道教

日本に道教をきちんと受容した歴史はありませんが、中国のさまざまな文化の一つとして道教も伝わってきました。

道教の要素である易学や陰陽五行説、占術などは6世紀ごろ伝わったといわれています。

8世紀初めの大宝律令では、陰陽寮(おんみょうりょう)や典薬寮(てんやくりょう)が設置され、前者では占い・天文・暦の編纂などが行われ、後者では宮内省に属する医療や調薬を担当しました。

729年に長屋王の変が起こると、道教的な呪術である道術は厳しく禁じられるようになりました。この事件は、長屋王という時の権力者が呪術を使って聖武天皇の皇太子の命を奪ったと密告されたことで起きました。

民間では道教への関心は深く、神道や修験道(しゅげんどう…日本古来の山岳信仰と仏教が結びついた民間宗教。山伏は修験道の実践者)も道教の影響を受けているといわれます。

神社で売られているお守りの護符や日本の伝説の中の仙人たちも道教の影響によるものです。

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