媽祖

媽祖

媽祖とは

媽祖とは中国、特に南方・台湾・東南アジア在住の中国人・華人(他国に移民し、その国の国籍を持つ中国系の人々のこと)の間で信仰されている女神様のことです。実在の人物で航海の女神として神格化され、後に道教の神となって航海のみならずあらゆる事柄での守護神となりました。

媽祖は最初どんな人物だったのか?

媽祖は最初から神様だったのではなく、人間として生まれました。その時代は、南唐(937~975)、五代(907~960)、唐の天宝元年(742)、後晋の天福8年(943)、宋の建隆元年(960)、太平興国元年(976)など諸説あり、おおよそ10世紀くらいの人だったようです。亡くなったのは28歳の時、虹の光が輝き管弦の音が響く中、湄峰山から飛び立ってそのまま戻らなかったと言います。

出身地は湄峰山のある福建省莆田(ほでん)湄洲島、この地の名士・林氏の娘として生まれたとされています。これらはいずれも実証のあることではなく、すべて伝説と言ってもいいでしょう。

ただしこの地で漁民の娘として生まれた少女が非常に特異な能力を持ち、海難から人々を救って巫女として信仰の対象的存在になっていったらしいということは言えるようです。

媽祖伝説

媽祖の伝説

媽祖は生まれた時から普通の人間とはおよそ異なっていました。彼女が生まれた時、大地は紫色に光輝き、不思議な香りが辺りに漂ったと言います。

媽祖は子供の頃から不思議な能力を持ち、人の吉凶や幸不幸を当て、病気を治し災難から人を助け、赤い衣を着て座ったまま海を渡り、雲に乗って島嶼を巡ることができたそうです。

5歳の時『観音経』を読み、11歳で不思議な能力を発揮するようになり、時にはぐったりとして気を失うこともありました。

海で遭難した父を助け、兄の遭難を予言した話、旱魃に苦しむ故郷で降雨を予言したり、大雨の時青い龍と黄色い龍をおふだと祈祷で閉じ込めた話など、彼女の不思議な能力で人々を助けた話がたくさん残っています。ただしこれら奇跡が起きた場所はすべて彼女が暮らした場所・莆田界隈に限られています。

ところで彼女の名前・媽祖とはどういう意味なのでしょうか?媽祖は固有名詞ではなく、母なる神を表すとも、南方方言で「母さん」という意味だとも言われ、いずれも固有名詞ではありません。彼女固有の名前としては「黙娘」(もくじょう)という名前が伝えられていますが、これは生後一か月泣き声を立てなかったという伝説に基づき後世つけられた名前と考えられています。

だんだん身分が高くなった媽祖

海難事故から多くの人を救ったと信じられた媽祖は、死んだ後も海に漂う木くずを発光させ海の旅を守ってくれたと祠に祀られるようになります。

12世紀に宋の冊封士(冊封とは…名目的な君臣関係。冊封を授ける側は宗主国、受ける側は朝貢国と言う)が船で高麗に行った時、その船を媽祖が風雨から守ったとされ、宋朝から順済という名の額を与えられます。これが宋の中央政府によって媽祖が正式に顕彰された最初です。以後も媽祖への祈りによって海賊が平定されたり、飢饉から救われたりするたびに、媽祖の霊験はあらたかだとされ、朝廷から崇福、照応、霊恵、などの名が与えられ、さらに後には「霊恵昭応崇福善利夫人」、「霊恵妃」、「霊恵護国助順協正嘉応佐済妃」などの名と身分が与えられました。

元、すなわちモンゴル民族政権になると「護国明著霊恵協正善慶顕済天妃」、「輔国護聖庇民広済福恵明著天妃」などの名と地位を与えられます。

宋代に漢族を異民族から救ったとされ称えられた媽祖は、その異民族・モンゴル族からも尊崇されるようになったのです。これは大陸で食糧などを運搬する際には船乗りたちが必要で、彼らの信仰の対象・媽祖を国の祭祀体制に取り込む必要があったからだと言われています。

明代に入っても媽祖に「聖妃」など高い位が与えられたのは、他国との交流に使う船に必ずこの媽祖像を伴ったからです。さらに清朝になると「天后」(妃よりも后の方が上)の位が与えられ、その長い名称に使われた漢字の数は全部で64字もあったそうです。

台湾の媽祖信仰

台湾では媽祖への信仰がきわめて篤く、日本統治下から現在に至るまで、戦時下の数年を除くと媽祖信仰が衰えることはありませんでした。

この媽祖信仰の中に「進香」という、日本の「お遍路」に似た宗教行事があります。

陰暦の3月23日は媽祖の誕生日とされ、各地の媽祖廟でお祭りが行われますが、その時期にこの「進香」という巡礼も行われます。

進香とは、祖廟とする神前から香炉の灰と火を分けてもらって子廟を作り、その後祖廟に定期的にお参りして新たに香炉の灰と火をいただき子廟の霊力を高めていく巡礼のことです。

春先、大勢の信徒たちがグループを作って巡礼をするのですが、かつては徒歩でしたが、今では貸し切りバス、車、オートバイなどで巡礼する人が大多数だそうです。オートバイというのがいかにも台湾風です。

進香の行事の中で最も大切なのが「交香」で、祖廟の香炉と子廟の香炉から立ち上る煙が交わることを言います。「交香」によって祖廟と子廟の神様の霊が交わり、このあと祖廟の香炉の灰と火をいただくのですが、自分の廟にそれを持ち帰るまでこの火を消してはならないとされています。

この「進香」においては格の高い廟から香をいただくのが理想で、そこで媽祖の出生地・莆田の湄州島にある廟には船で「進香」に行く台湾の信者たちがたくさんいるそうです。

台湾の馬祖島
台湾の馬祖島。
台湾の馬祖島にある媽祖像
台湾の馬祖島にある媽祖像。

中国の媽祖信仰

一方中国の媽祖信仰はどうなったかというと、60年代から70年代にかけての文革によって壊滅的打撃を受けた後、改革開放政策が始まって福建や広東など媽祖信仰が篤かった地域では次第に復活したものの、他の地域で媽祖廟が再興されることはありませんでした。というのは破壊された媽祖廟はその後政府によって「古跡の保護」の名の元に博物館や記念館などに転用されてしまったからです。そこは信仰の場ではなくなり、かつて存在した信仰のありようを見学する場になっていったのです。

福建莆田湄州島における媽祖廟の総本山は以前より壮観・豪華に再建されましたが、これは再建費用・維持費用ともに、台湾から大勢で進香にやってくる「香客」の存在に支えられていると言います。

中国福建省にある湄洲島
中国福建省にある湄洲島。
湄洲島の媽祖像
湄洲島の媽祖像。

日本と媽祖

長崎の興福寺にある媽姐堂

長崎の興福寺にある媽祖堂
長崎の興福寺にある媽祖堂。

長崎の唐人屋敷跡を訪ねると、唐人屋敷はとうの昔に焼失してしまっているのですが、この媽祖像を祀った廟が後に再建されています。

長崎では清国とオランダだけが交易を許されており、江戸の鎖国時代にも「唐船」と言われる清国からの船がたくさんやってきていました。その船には必ずこの媽祖像が祀られていて、長崎に停泊している間は船から下ろしてお堂に安置し、出航の際はまた船にお戻しするのです。このお堂を「天后堂」といい、船から像をおろして堂まで運び、また船に戻す様子は現在長崎のランタンフェスティバルで再現され、「媽祖行列」と呼ばれています。

船人にとって媽祖がいかに大切な存在であったか。船の旅は危険を伴い、激しい風雨に遭遇すればたちまちにして海の藻屑と化しますから、お守りは不可欠だったことでしょう。ましてや遠い昔から霊験あらたかだったとすればとにもかくにも大切にしたことでしょう。名もない小さな村の祠の神様が、南中国の代表的な守り神になっていくには、媽祖が航海の守り神だったということと切り離せません。

さらには媽祖の出身地が福建で、ここから大勢の福建人が海外に雄飛したことを考えると、彼らとともに媽祖は世界に旅立ち、おおいにその名を広めたのだと思われます。

横浜中華街の媽祖廟

横浜中華街の媽祖廟
横浜中華街の媽祖廟。

横浜中華街には関帝廟とともに媽祖廟があります。横浜開港150年を記念して、2006年3月17日に開廟しました。関帝廟からは少し離れたところにあります。

こにお参りする時にはまずお線香を買いますが、日本のお線香に比べてとても太いのが印象的です。日本人からするとやや安っぽい感じがしてしまうのですが、中国人に言わせると日本のお線香は細すぎてご利益がない感じがするんだそうです。燃え尽きるのに時間がかかるほどご利益があるそうで、まずはその太目のお線香を買います。

お廟の前に大きな香炉が五つあり、その香炉一つ一つにお線香を立てていきます。それからお廟の中に入ります。真ん中にあでやかな媽祖像、その左右に「順風耳」と「千里眼」という鬼神が立っています。