麒麟 【中国文化】

麒麟

麒麟とキリン

麒麟は「キリン」と読みますが、あの長い首のキリンではありません。首の長いキリンは中国語で“长颈鹿 chángjǐnglù”と言います。これは直訳すると「首長鹿」です。では麒麟とはどんな動物かというと、キリンビールご存知ですね。あのキリンビールのラベルに描かれた動物が「麒麟」で、神話の中の動物です。中国では虫も殺せないほど心優しく、子供を授けてくれる霊獣として知られています。

首の長いキリンはなぜキリンと呼ばれるようになったのか

キリンと鄭和

首の長いキリンは英語ではジラフです。なぜこのジラフを日本ではキリンと言うようになったかというと、時代は明朝までさかのぼります。この時代の武将鄭和は永楽帝の命令のもと大船団を指揮してアフリカにまで航海したことで有名です。彼はその途上で得たジラフつまりキリンを永楽帝に献上するのですが、その時「麒麟」と名付けて献上するのです。

麒麟は善政のシンボル

鄭和がなぜキリン(ジラフ)を麒麟と名付けたのか諸説あるのですが、一説にはジラフを鄭和にプレゼントした地元の人がジラフをgiriと呼んでおり、この音に近い“麒麟 qílín”にしたと言われます。もう一つは、麒麟は温和な霊獣で施政者が善政をしいた時のみ現れるという言い伝えがあり、鄭和が永楽帝に献上する際帝の善政を寿(ことほ)いでこう名付けたという説。もっとざっくり言ってしまえばおべっかを使ったのかも、ということですね。

麒麟はキリン(ジラフ)に似ていた?

ところでそもそも麒麟はジラフに似ていたのでしょうか? 麒麟は想像上の動物で、龍や鳳凰と同じく実際の動物の部分部分を合体して作られていますが、時代によってその形に違いがあり、これぞ麒麟というのがとらえにくいのです。そこでジラフが麒麟でもまっいいかとなったのでしょう。麒麟と名付ければ帝もお喜びになられるだろうし、と。

キリン(ジラフ)
キリン(ジラフ)

明治以降キリン(ジラフ)が日本にやってきた

さて明治になって日本の動物園にジラフがやってきます。1907年だそうです。この時当時の上野動物園の園長さんによって「麒麟」と名付けられるのですが、当然鄭和とジラフの話から付けたものでしょう。当時の日本の知識人における漢籍の教養がしのばれます。ところで中国大陸では現在ジラフを長頸鹿と呼んでいますが、これがいつからなのかはわかりません。台湾では麒麟鹿と呼ぶそうです。どちらも鹿の一種と認識しているのですね。麒麟も鹿ヘンが使われています。ラテン語の学名は「ヒョウ柄のラクダ」だそうです。

麒麟は徳の高い霊獣

麒麟は徳の高い霊獣として知られています。温和で長生きで二千年の長寿を保ち、現れる所すべての人々を幸せにするというありがたい存在です。また龍や鳳凰と並ぶ聖獣とされています。

龍と鳳凰と麒麟の装飾
龍と鳳凰と麒麟の装飾

麒麟の姿

麒麟は獅子(つまりライオン)の頭、鹿の角、トラの目、鹿の体、龍のウロコ、牛のしっぽを持ち、火を吐き、その声音は雷のようなんだそうです。なんだか恐ろし気でキリンビールの麒麟のラベルそのものという感じですが、あのラベルの麒麟は中国人から見るとちょっとこわもてだそうで、イメージ的にはもっと優しい感じなんだとか。これは「麒麟送子」(麒麟が子供を授けてくれる)という優しいイメージから来ているのかもしれません。

麒麟の像
麒麟の像
キリンビールのラベルの麒麟
キリンビールのラベルの麒麟

麒麟は子授けの神様

そう麒麟は子授けの神様なんです。「麒麟送子」という言葉は正確には子供ではなく、優秀な男児を授けてくれるということです。かつて女児は子に入らなかったんでしょうね。孟子の言葉に「不孝有三、無後為大」(親不孝に三つあり、そのうち最大のものは跡継ぎがいないことである)というのがあって、この思想は薄れつつあるとはいえ現代中国にもまだ根強く生きています。ですから男の子がいない家は必死です。男の子が授かるようにとすがったのがこの麒麟なのです。

麒麟は才徳兼備の象徴でもある

麒麟児

麒麟はまた才能と徳の両方を兼ね備えた際立って優れた人物の象徴でもあります。麒麟児という言葉もありますね。日本語ではいわゆる神童のことです。中国語でもこの言い方はありますが、神童に使うというよりは人のお子さんを持ち上げる時に使う言葉です。「お宅の麒麟児はお元気でいらっしゃいますか」というふうに。

豚児

この逆は豚児(とんじ)で、自分の子供を謙遜して言う言葉です。これは日中ともに同じ意味で使います。今の中国ではブタを「猪」と書きますが、この意味で「猪児」とは言いません。つまりかなり古い言葉なんでしょう。曹操がなかなかやっつけることのできない孫権を指して「子を持つならあのような男の子がほしい」と言い、やすやすと降参した劉表の息子を指して「豚児である」と言ったという話から来ているということです。