辮髪(べんぱつ) 【中国文化】
目次
- 1. 辮髪とは
- 2. 辮髪はいつから?
- 3. 辮髪の変化はなぜ?
- 4. 満州族の辮髪はなぜ?
- 5. 辮髪の終焉
辮髪とは
辮髪とは清朝(1644~1912)における男性の髪型のことです。
頭の上に少し髪の毛を残してあとは全部剃り上げ、残した髪の毛を三つ編みにします。
この髪型は時代によって変化し、たとえば清朝初期では、残す髪の毛はほんのわずかでこれを三つ編みにしました。のちに頭頂部の髪を残す部分がやや広がります。清末になると頭の後ろ半分は髪の毛を残し、前半分だけ剃ります。
こうした髪型に口のまわりのどじょうひげは中国人のイメージとなって、今の日本でもマンガなどの「中国人キャラクター」になっています。少し古いですが『キン肉マン』に出てくる「ラーメンマン」の髪型が辮髪として有名ですね。
辮髪はいつから?
中国人は昔からこうした髪型だったのでしょうか?
中国では儒教の影響が深く「身体髪膚(はっぷ)これ父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」(体のすべては両親からいただいたものなのだから、これを大切にし、傷つけたりしないというのが親孝行の基本である)という孝経の教えを大切にしてきました。髪の毛も人体の一部ですから、これを切ることも避け、長く伸ばして髷にして結っていました。
ところが清朝は満州族という中国大陸の東北にいた民族によって統治された国です。辮髪はこの満州族の習慣でした。彼らの辮髪というのは、頭をほとんど剃ってしまい、ほんのわずか残した髪の毛を三つ編みにする、という髪型です。満州族は中国全土を我が物にすると「剃髪令」を出します。髪を剃らない者は斬首にする、と。当時この命令について人々は「頭を残したい者は髪は残せない、髪を残したい者は頭は残せない」と言い合いました。
辮髪の変化はなぜ?
前述したように、清朝の辮髪は時代とともに髪型が少しずつ変わっています。
最初は髪をほとんど剃ってしまい、頭頂部よりやや後ろにちょこんと髪を残し、そのわずかな髪で三つ編みにするというものでした。漢人たちはこの髪型を嫌悪し「金銭鼠尾」(コインの下に鼠のしっぽ)と馬鹿にしました。
それでも為政者に楯突けば文字通り首が飛びます。そこでしぶしぶ従ううちに百年、二百年が経ち、まるで昔からそうであったように、このスタイルになじんでいきます。清王朝の方も異民族としての自分たちの文化より漢民族の伝統文化になじんでいき、こうして漢民族の美意識に少しずつ近づき、それとともに髪の毛を剃る部分が減っていきました。清朝末期になると剃るのは頭の前の部分だけ、後ろは髪の毛を残し、貧弱な鼠のしっぽから太い三つ編みになっていきます。この髪型を「陰陽頭」と呼びました。
満州族の辮髪はなぜ?
それでは満州族はなぜこうした髪型にしたのでしょう?一説に兜をかぶるのに髪の毛が邪魔だったとあります。また清朝軍は戦いの際、辮髪の三つ編みの部分で首を巻き、敵の刀を防いだと言います。
日本の侍の髷も、兜をかぶった時に髪の毛があると蒸れるから剃ったのが始まりだそうです。こうした髪型は武人が権力の中枢にいた国や民族の特徴なのかもしれません。
辮髪の終焉
清朝末になると、革命を起こそうと立ち上がった若者たちは辮髪を切ることを革命精神の象徴の一つとしました。あれほど辮髪を嫌った漢民族はそれをもろ手を挙げて歓迎したかというとそんなことはなく、その逆に多くの人は切りたがらなかったと言いますから習慣とは恐ろしいものです。
けれども時間とともに辮髪を切る動きは加速し、中華民国が成立した時臨時大統領に選ばれた孫文は「今日から二十日以内に辮髪を切ること、従わない者は違法行為をしたとみなす」と宣言します。こうして辮髪は中国の大地から消えていったのでした。