端午節の習慣 ちまきとドラゴンボートレースの由来とは?

端午節

端午節とは旧暦5月5日の節句のことです。現在の暦だと5月下旬~6月中旬になります。

2024年の端午節は6月10日で、中国では6月10日~12日の3日間が休日(3連休)となっています。

ここでは端午節の由来となった屈原などについて、それから端午節の食事やドラゴンボートレースなどについても解説しています。

端午節と屈原

屈原

端午節とは旧暦5月5日の節句のことで、ちまきを食べたりドラゴンボートレースをするなどの行事がありますが、この日のいわれについては諸説あります。もっともよく知られているものは、戦国時代(BC403~BC221)の楚の政治家でこの時代を代表する詩人でもある屈原くつげんをしのぶ日というものです。屈原は愛国者でしたがその進言が国の上層部に聞き入れられることなく、彼は楚の将来に絶望して汨羅江(べきらこう)という湖南省の北部、長江支流の川に身を投げ自殺してしまいます。民衆は彼を救おうと船を出し、遺体を魚から守ろうと米を投げ入れ、これらが後のドラゴンボートレースやちまきを食べる習俗になったと言われます。

もう一つの説は古代中国の長江中・下流の地域および南方では龍のトーテムを崇拝する民族がいて、彼らがそのトーテム(シンボル)を祭ったことに由来するというもの。ドラゴンボートはまさに龍の船です。

また5月5日というのは、ちょうど暖かくなり疫病の流行りやすい時期であったため、古来悪月悪日であり不吉な月日だった、そこでこの日に「疫病」を追い払う行事を行うようになったというもの。端午の節句では昔からヨモギや菖蒲などを門にさして邪気を払う習俗があるのですが、これなどはこのいわれに起源があるようにも思えます。

他にもまだいくつもの説がありますが、中国やそのほかの国の華人社会において「端午節とは屈原を悼む日」というのが一般的です。

上記したようないろいろなことに起源を持つ習俗、風俗が千年、二千年という時を経て今の行事につながっているのかもしれません。

ドラゴンボートの絵
18世紀に中国で活躍した西洋人画家による端午節の絵

端午節の食事「ちまき」

ちまき

粽(ちまき)は中国語では“粽子 zòngzi”、もち米の中に餡を入れて笹の葉などでくるみ、蒸して食べます。中国では古くから節句、特に端午の節句のお祝いに食べられてきました。中に入れる餡は棗(なつめ)、小豆(あずき)などですが、肉入りの塩味ちまきもあります。形も三角形や斜めになった四角形など、地域によっていろいろあるようです。日本にも伝わり、日本ではかつては茅(ちがや)で巻いたため「ちまき」と言われるようになったということです。

ドラゴンボート

ドラゴンボートレース

ドラゴンボートとは長細い船で、船首に龍の頭の飾りがついているものです。端午節には各地でドラゴンボートレースが行われています。

端午の節句に行われるドラゴンボートレースは中国では“龙舟赛 lóngzhōusài”(龍船試合)と言います。 “龙舟 lóngzhóu”(龍船)は細長く、首と尾に龍(ドラゴン)の装飾があり、漕ぐ人以外に必ず太鼓をたたく人が乗ります。この太鼓手がたたく太鼓の音が船をこぐタイミングやスピードを決めるのです。このレースは端午の節句の伝統行事以外に、正式なスポーツとしても行われています。ちなみに長崎でも夏祭りの一つとして「ペーロン競漕」が行われますが、これは中国のドラゴンボートレースが伝わったものと言われます。長崎ではなぜ「ペーロン」と言うのか、このいわれにもいろいろあるようですがその一つは “白龙”(白龍)から来たというものです。中国の南方には、屈原の死を悼んで漕ぎ手は白い衣装を身に着けるという場所があるそうで(中国で葬儀の衣装は白)そうした船を“白龙”と言ったのかもしれません。

ドラゴンボートと太鼓
ドラゴンボートと太鼓

屈原の漢詩

湘夫人

屈原はまた春秋戦国(BC770~BC221)を代表する詩人でもあります。彼の詩『離騒』や『九歌』は『楚辞』(戦国時代楚の国で謡われた詩の様式またはそれらを集めた詩集の名前)の代表作。

ところで楚辞の詩形の特徴の一つに「兮」(兮xī)という助詞の多用があって、原文で朗読すると耳に快く残ります。

湘夫人
湘夫人
屈原
屈原

帝子降兮北渚

帝子 北渚に降れり

目眇眇兮愁予

目は眇眇として予れを愁えしむ

嫋嫋兮秋風

嫋嫋たる秋風

洞庭波兮木葉下

洞庭 波だちて木葉下る

湘江
湘江。この川が洞庭湖へと流れ込んでいる

(現代語訳)

帝王の堯の子湘君・湘夫人は洞庭湖の北岸に降臨されたという

遠くながめれば景色はぼんやりとかすみ、心は悲しみに沈む

嫋々と吹く秋風に洞庭の湖水は波立ち

木の葉がひらひら舞い降りてくる

※湘君・湘夫人とは:洞庭湖の水神である二人の女神のこと。洞庭湖の君山(くんざん)という島にその祠廟があります。

また屈原が入水した汨羅江(べきらこう)はこの洞庭湖に注ぎます。

日本の端午節

戦前までは日本でも5月5日は「端午の節句」でした。3月3日の「ひな祭り」に対し、こちらは男の子の節句です。鯉のぼりや兜を飾り、甘い餡の入ったちまきや柏餅を食べ菖蒲のお風呂に入ります。「端午の節句」は戦後1948年に「子供の日」になって男の子女の子ともに祝うことになりました。

「背比べ」という童謡をご存知ですか?戦前の端午の節句の様子を歌ったものです。

背比べ(海野厚作詞)

柱の傷は おととしの

五月五日の 背くらべ

ちまきたべたべ 兄さんが

計ってくれた 背のたけ

昨日くらべりゃ 何(なん)のこと

やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

ここにもちまきを食べている様子が出てきますね。

ちまきと菖蒲は中国から?

屈原を悼む日がなぜ日本では男の子の節句になったのでしょう?上記したように中国では五月や五日を「悪い月、悪い日」とし、病気予防のため邪を避けることのできる菖蒲やヨモギを門などにつるしたという習俗が記録に残っており、この習俗が日本に伝わり五月五日は今も菖蒲湯につかります。この「菖蒲」と「尚武」(武を貴ぶ)がともに「しょうぶ」と読むところから男の子の節句になったと言われています。