秦(古代中国)の歴史と武将たち【歴史地図・年表付き】
秦(しん)とは古代中国に存在していた王国であり、後に中国史上初めて統一王朝を作りました。秦の始皇帝の王朝です。中国大陸の西、今の甘粛省あたりから起こり、王国時代と王朝時代を合わせるとBC.778~BC206まで続き、始皇帝の死後まもなく滅びました。
※上の画像は始皇帝陵に埋められていた兵馬俑。
秦とは
秦は中国の西の辺境地帯にあり、中原の国々からは「西の野蛮国」と蔑まれていました。
春秋時代の穆公の時に、西の覇者を目指して異民族から広大な土地を奪い、春秋の五覇とうたわれました。戦国時代の孝公の時には魏の侵略を受けますが、魏出身の商鞅を得て「変法」と呼ばれる改革を行い、これが成功して強力な中央集権国家となります。国力を高めた秦に、戦国の主要六か国は「合従策」で秦に対抗、一方秦は「連衡策」や「遠交近攻策」などで合従をつぶしていきます。やがて西の秦、東の斉の二強時代を迎えますが、昭襄王時代に白起将軍の活躍で、秦はますます他国を圧倒していきました。秦王政の時代になると六国平定を行って全国を統一、始皇帝を名のりますが、その死後まもなく秦は滅びました。
春秋戦国時代の秦の地図
秦の歴史
BC.900の頃、西周の孝王に召し抱えられた非子(ひし)という男が、馬の繁殖に成功したことで「嬴」(えい)という姓を賜ります。これが秦建国の起源です。
西周が滅んだ時、秦の初代・襄公(じょうこう)は東周に移った平王を守護したことで、周の旧地である「岐」(き)に封建(ほうけん…諸侯が王より領地を与えられ、その後その地を統治すること)され、東周の諸侯(しょこう…日本でいうなら「大名」)となりました。
春秋時代の秦
春秋時代とは西周が滅んだBC.770から司馬遷の『史記』の中の六国年表(秦に滅ぼされた戦国の六国について書かれた年表)が始まる年BC.476(他に諸説あり)までをいいます。
西周が滅んで東遷(とうせん…都が東に移ること)した際に、秦の初代・襄公が西周からの落ち武者だった平王を守護したことで、諸侯、つまり東周の大名に取り立てられるのですが、
ここに後の秦王朝につながる王室がスタートします。
とはいうものの西の秦は、中華の中心である中原(ちゅうげん…黄河中下流域)からは遠く離れた異民族の地。中原の諸侯からは西の蛮族として蔑まれていました。やがてこの蛮族が中国最初の統一王朝を打ち建てるのですから、歴史とはわからないものです。
西戎の覇者・穆公
秦はBC.659(春秋時代)に即位した第9代穆公(ぼくこう)の時代に飛躍を遂げるのですが、この穆公には面白いエピソードがいくつもあります。
隣国・晋に飢饉が発生し、晋の恵王が食糧援助を秦に求め穆公がそれに応じるのですが、翌年秦に飢饉が起きて穆公が恵王に援助を求めると、これをチャンスと晋が秦に攻め込んできました。これがBC.645に起きた韓原(かんげん)の戦いです。
穆公はこれを打ち破り、敗軍の将・恵王を追ううちに逆に自分が敵兵に包囲されてしまいました。その時どこからともなくやってきた300人の兵士が穆公をかばって戦ってくれ、穆公は命拾いします。
実はこの300人は西方に住む異民族で、ある日穆公の愛馬をそれとは知らず食ってしまいました。これを知った穆公は怒りをこらえ「馬肉を食べる時はいっしょに酒を飲まないと体に悪いぞ」と言って酒をプレゼントさせます。
うっかりエライ殿様の愛馬を食べてしまい、どんな仕打ちをされるかと震えていた人々はこれにグッとくるのです。この時グッときた人々が後に穆公を助けたというわけで、今から3000年近い昔の話ですが、人情に変わりはないのですね。
さて穆公は、妻の伯姫が実家・晋から連れてきた奴隷の百里奚(ひゃくりけい)という男を家臣にします。
伯姫は百里奚の優秀さが気に入ってわざわざ実家から連れてきたのですが、ある時、夫に一度百里奚に会ってみるよう勧めました。
穆公が百里奚に「どうしたら我が秦は中原に覇を唱えることができるだろうか」と聞くと、百里奚は「中原の争いには巻き込まれない方がいいでしょう。西戎(せいじゅう…西の異民族を広く指す言葉。蔑称)の土地を得て領土を広げれば、いずれ秦が天下を治めることになります」と答えました。
穆公は奴隷・百里奚の言葉に従い、西戎の覇者をめざして異民族と戦い、広大な領土を手に入れました。
やがて秦の穆公は春秋の五覇(しゅんじゅうの ごは…春秋時代に天下を取り仕切った五人の覇者)の一人に数えられるようになりました(別の人物を入れる説も)。
穆公が亡くなると、優れた臣下を含む177名もの人々が殉死し、一度勃興した秦は名君だけでなくおおぜいの人材も失い、やがて勢いを失っていきました。
これを嘆く民衆の歌が今も残っていて、これからの秦を背負って立つ優れた勇者が殉死してしまったと歌っています。
戦国時代の秦
BC.475頃からを戦国時代と呼びます。その前の春秋時代は、一応東周という王室があり建前上諸侯がそれを守るという形を取っていました。
紀元前5世紀ごろからはそうした建前が崩れ王室は有名無実化、各地の諸侯が争いを繰り返し、さらには諸侯の権力機構内部でも下克上が起きてきました。これが戦国時代です。
戦国初期の秦は隣国・魏から圧迫を受けていました。魏は晋から独立した三国の一つで、文侯の時代に覇権を握りました。
当時秦はこの魏に領土を奪われ、都も移さざるを得ませんでした。この状況下で孝公が即位し、商鞅(しょうおう…BC.390~BC.338 秦の政治家・法家)という人物を抜擢しました。
商鞅と「変法」
商鞅は魏の人で、魏の宰相によって認められます。魏の宰相は主君・恵王に商鞅を登用するよう、さもなくば他国に逃げていかれる前に命を奪うよう進言しました。
恵王はこの進言を聞き流し、商鞅を登用することも命を奪うこともありませんでした。
自分を認めてくれた魏の宰相が亡くなると、商鞅は秦の孝公が人材を求めていることを知って、秦に向かい孝公に仕えるようになりました。
孝公は秦を穆公の時代のように強大な国に戻したいという野心を抱いていました。
この君主の元で商鞅は以下のような改革を実行に移しました。
①二人以上の男子がいる家を分家させ、こうした単婚家族(夫婦1対による家族)を「什伍の制」(じゅうご の せい)によって編成する。「什伍の制」とは5家を1単位として徴税、徴兵するとともに、相互に監視させる制度。
この制度によって、それまでの血縁を元にした氏族制社会は、秦においては解体されていきました。
②身分にかかわらず軍功に応じて爵位を与え、君主の一族であってもこれを適用する。高い身分であってもその身分に応じた軍功がなければ特権は剥奪され、身分を持たない者であっても軍功次第で出世できる。
戦国末期の秦を舞台にした人気漫画『キングダム』では、捨て子で奴隷同様に育った主人公の少年が「強くなって将軍になる!」と口癖のように言っていますが、この時代秦ではそれが可能になっていたのです。
このようにして秦は、権力が君主一人に集まる強力な中央集権社会を作り上げていきました。
この改革を「変法」というのですが、変法という言葉は清朝末期にも使われています。明治維新にならった「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」です。「変法」とは「伝統的な政治制度を全面的に改革すること」を意味します。
この変法により数年経つと富国強兵の実があがり、秦は強国となっていきました。商鞅はその後も改革の手をゆるめず更に変法を推し進め、まず「県」という行政単位を設置してそこに一代限りの官僚を派遣し、秦王の代理として彼らに直接統治させました。また治水灌漑を行い、度量衡や文字、貨幣を統一しました。
これら諸改革によって国力を充実させた秦は宿敵・魏を討伐しました。
商鞅は宰相の地位について10年、強力な改革で君主の権力を確立させることができましたが、特権を奪われた王の一族は恨みを募らせ、孝公が亡くなると商鞅は追い詰められて決起せざるを得なくなり、そこで戦死します。遺体は車裂きの刑に処せられ、一族みな命を奪われました。
それでも商鞅の改革は、商鞅の死後も廃止されることなく続き、これによって秦は国力を一層増強させていきました。このことがやがて始皇帝による中国統一の大事業に結びついていきます。
合従連衡策
国力を増強させた秦に対して周囲の国々はこれを怖れ、合従策と連衡策が考えられるようになりました。
合従策とは諸国が南北に(縦に)連合して秦に対抗する策で、連衡策とは東西に(横)に連合して秦と結ぶ策のことです。秦以外の諸国は秦の東側に南北に並び、秦は西側に巨大な領土を有していました。
秦への対抗策や外交術について諸国に説いて回った人を「縦横家」(しょうおうか・じゅうおうか)といいます。
この縦横家の一人・蘇秦(そしん)は東周の洛陽に生まれ、斉に行って縦横家の祖・鬼谷子(きこくし)に学んで故郷に戻るのですが、あまりに貧しく妻にも馬鹿にされるありさま。一念発起して「合従策」すなわち秦対抗策を諸国に説いて回ります。彼の説得は実を結び、BC.318には趙・魏・韓・燕・楚の連合軍が生まれて秦を攻めますが、これは失敗に終わりました。
この状況に、秦の宰相・張儀を中心に秦と結ぶ連衡策を唱える人々が現れ、合従派を切り崩しにかかります。
この張儀は孝公の後を継いだ恵文王に取り立てられた人ですが、彼もまた蘇秦とともに鬼谷子に学んだ縦横家です。
張儀は秦以外の東の6国を互いに対立させ、秦と組む利を説き、これに目のくらんだ国によって合従策が崩れると、今度は遠交近攻策(遠い国とは友好関係を結び、近い国を攻めるという策)によって個別撃破を企てます。
この策に引っかかったのが南の大国・楚で、楚は北の大国・斉との同盟を破棄して秦に近づいたものの、領土割譲の約束を反故にされ、腹を立てて秦に軍を向けるのですが敗北してしまい、楚はこれをきっかけに衰退していきます。
一方の秦は楚から漢中の地を奪い、さらに勢力を拡大して巴蜀という広大な穀倉地帯も併合します。この二つの土地を得たことで秦は戦国七雄(戦国時代の七大国…秦・楚・斉・魏・趙・韓・燕)の中で抜きん出た存在になっていきました。
秦・斉二強時代
恵文王が亡くなると、その子の武王が即位します。武王は張儀とそりが合わず張儀は魏に亡命します。その武王が亡くなると昭襄王(しょうじょうおう)が即位します。
昭襄王は斉の孟嘗君(もうしょうくん…戦国時代の政治家。戦国四君の一人)を宰相として迎え入れようとするのですが、家臣が「孟嘗君は斉の一族なので、秦の宰相になっても斉を優先するでしょう」というのを聞いて、秦にやってきた孟嘗君を殺そうとします。
孟嘗君には大勢の食客がいて、中には元泥棒や鶏の鳴きまねがうまい者もいました。
孟嘗君は元泥棒に、昭襄王に献上した狐白裘(こはくきゅう…高級な毛皮のコート)を盗ませ、それを王の愛姫の一人にプレゼントして帰国願いの口利きを頼みます。
また秦から脱出しようと函谷関という関所を突破する際には、鶏の鳴きまねがうまい食客にコケコッコーと鳴かせて門番を騙し、夜明け前に関所の門を開かせて無事斉に戻りました。
斉に戻った孟嘗君は斉の宰相となり、斉・韓・魏の連合軍を組織して函谷関の戦いで秦を破りました。秦は土地を一部割譲して連合軍と和睦します。斉はこの後も趙とともに中山国を亡ぼすなどして秦と共に二強の勢いを持ち続けました。
秦の昭襄王は函谷関の戦いの後、白起(はくき…戦国末期の秦の武将)を将軍に据え、白起が率いた秦軍は伊闕(いけつ)の戦いで韓・魏を打ち破り、秦の勢力を戻します。
当時秦は西帝を名乗り、斉には宰相を送って「東帝」の称号を贈り、こうしてこの時期、西の秦と東の斉の二強時代を迎えました。
秦の一強時代へ
昭襄王は母・宣太后の弟・魏冄(ぎぜん)を宰相としていましたが、やがて魏冄が権力を増していきます。
白起は魏冄によって推挙された将軍ですから、白起が活躍すると魏冄の権力も更に大きくなり、一時その封地は王族を超えるほどでした。
そこで昭襄王は魏からやってきた笵雎(はんしょ)を重んじ、笵雎は遠交近攻策(遠方の国とは仲良くして近隣の国に攻め込む策。こうすると遠方に領土を持った場合の負担が減る)によって魏から領土を奪い、韓にも圧力をかけます。
笵雎のこうした手腕を見てとると昭襄王は魏冄を追放し、君主としての権力を取り戻しました。
白起は軍功を上げ続け、BC.260長平の戦いでは趙軍に圧勝し、40万以上の捕虜を生き埋めにして趙の都・邯鄲(かんたん)まで攻め込もうとしました。
白起のこれ以上の活躍を恐れた笵雎はこれを止め、趙とは和議に持ち込みます。
白起は笵雎に不信感を持ち引退しますが、王命に従わなかったという理由で最後は昭襄王により自害させられました。
白起将軍
戦国七雄の中で抜きんでた力を持ち一強となった秦ですが、それに大きな功績があったのが将軍・白起です。
最後は自害に追い込まれてしまうのですが、その際「私は趙と戦った際、捕虜の食糧が賄えなかったために、少数の少年兵を除いて捕虜40万以上を生き埋めにした。私は天に対して罪を犯したのだ」と言って悔やんだといわれています。
秦の民衆は白起を憐れんであちこちにお廟を建てるのですが、後に朱子学が普及すると捕虜への残虐な行為を批判されこれらは壊されてしまいました。
呂不韋
呂不韋(りょふい)は趙の商人です。この一介の商人のふとした思いつきが秦の始皇帝を生み出した…と言っても過言ではありません。
始皇帝の父親は子楚(しそ)と言いました。子楚の父親は昭襄王の息子で秦の皇太子です。いずれは王位を継ぐ人でした。
ただし子楚の母親・夏氏がすでに夫の寵愛を失っていたため、子楚が将来秦の王位を継ぐ可能性はなく、彼は趙に人質として送られていました。
ところがこの子楚に呂不韋は「奇貨居くべし」(きか おくべし…珍しい品物は買っておけば後で値が出る)と言って接近するのです。
彼は質素な暮らしをしていた子楚に大金を与えて名士たちと交流させ、自分は高価な宝飾品を子楚の父の愛姫・華陽夫人(かようふじん)に贈って、子楚は夫人を実の母親のように慕っていると吹き込みます。
華陽夫人には子がなく、容色が衰えれば子のない自分は寵愛を失うかもしれないという不安心理を利用して、呂不韋は子楚を養子に迎えるよう勧めました。
この計画がうまくいき、祝いの宴に呂不韋は美しい踊り子を伴います。子楚は踊り子に一目ぼれして自分の妻にと望みます。呂不韋と踊り子は愛人関係だったのですが、呂不韋はそれを隠して子楚に献上し、やがて彼女は子楚の正夫人となって子を産むのですが、これが後の始皇帝・政です。実は政は子楚の子供ではなく、呂不韋と踊り子の子供であった…と司馬遷は『史記』で書いているのですが…この話は疑問視されています。
やがて子楚の父が即位して孝文王となると、子楚は呂不韋のもくろみ通りに皇太子となります。
孝文王は即位後わずか1年で亡くなり、子楚が即位して荘襄王となります。荘襄王は政を皇太子とし、呂不韋を丞相(大臣)・文信侯とします。まさに「奇貨居くべし」が狙い通りになったのでした。
荘襄王は3年で死去。政が即位して秦王となるのですが当時彼はまだ13歳でした。そこで呂不韋が代わって政治を行うようになりますが最後は政によって自害に追い込まれ、政は秦国の実権を握ります。
中国統一と始皇帝
六国平定
若き秦王・政(後の始皇帝)は政治の実権を呂不韋から取り戻し、20代半ばで親政を始めます。
秦王・政が信頼したのは法家で大臣の李斯(りし)。法家は政治の源は君主にあるとし、絶対君主制と法律万能を唱えます。
秦王・政はかつて法家・韓非の著作『韓非子』を読んで感銘を受け、この人物と親しくなれるなら死んでも悔いはないとまで思ったことがあります。そこへ韓の使者として韓非が秦を訪れました。李斯は、もし韓非が採用されてしまうと自分の地位が危ういと「韓非は韓の利益を優先しております」と政に讒言して韓非を投獄し死に追いやります。
秦王・政の親政のもと、秦は中国統一に向けて全力を傾け、BC.230に六国中最弱の韓を滅ぼしその地を合併しました。韓は武器製造が盛んな国だったので秦は合併によって武器製造所を手にいれたことになります。
次に東北にあった手ごわい趙に攻め込みます。趙は将軍・李牧(りぼく)の活躍によっていったんは秦を追い払いますが、BC.228に李牧が政変で倒されると都の邯鄲(かんたん)が陥落して滅亡しました。
韓と趙の間には魏がありました。魏は韓・趙ともに晋から分かれた国ですが、周の文化を受け継いだ先進国で、秦は魏から影響を受けながら大きくなってきたのです。
秦を変革した商鞅も宰相の張儀、笵雎も元は魏の人です。魏は文化度は高かったのですが、軍備に対しては手を抜いていたため、秦の侵攻を受けるやたちまち滅ぼされてしまいました。
こうして近隣諸国を攻め滅ぼすと遠隔の地攻略に乗り出します。
まずは楚で、BC.224李信と蒙恬(もうてん)が楚に攻め込みますが大敗。そこで王翦(おうせん)と蒙武が60万の兵を率いて攻撃、BC.223に楚を滅亡させます。
次に燕を圧迫すると燕の太子・丹が荊軻(けいか)を刺客として送り込み、秦王・政を襲いますが失敗。政は燕に総攻撃をかけBC.226に燕の都が陥落して滅びます。
最後に残ったのが山東の斉ですが、斉の宰相・后勝(こうしょう)は秦と内通しており、秦軍はほとんど無抵抗で斉の王を捕らえることができ、BC.221に斉は滅亡しました。
こうして次々と勝利をおさめた秦ですが、どの国もさほど激しく抵抗しないまま滅ぼされてしまい、征服された国々は国土の徹底した破壊を免れました。このことがその後の秦王朝のあっけない滅亡につながったと見る学者もいます。
ここに中国史上初めて中国大陸が統一されます。
13歳で即位した秦王・政はこの時39歳で在位26年目でした。「王」という称号は本来天下唯一の称号でしたが、当時は諸国で使われていたため政は「皇帝」という名称を新たに作り、秦の始皇帝が誕生しました。
始皇帝の人となりと業績
始皇帝は「鼻が高く目が切れ長で、胸が突き出ていて豺のような声を出し、残忍で虎やオオカミのような心を持っている。…決済の文書を秤で量り、一日に一石の量を決済しないと休もうとしない」と『史記』に書かれています。
鼻が高くて目が切れ長…踊り子であった母は大変な美女でしたから、始皇帝も整った顔立ちだったのではないでしょうか。エネルギッシュな仕事人間であったこともよくわかります。
13歳から王位についていても、おべんちゃらに動かされる暗愚の王ではなかったことも韓非子のエピソードから伺えます。始皇帝自身が傾倒した法家の思想を用いて比類ない国家を作り、それを永続させようと強い意志で理想の国造りに励んだに違いありません。
始皇帝は比類ないスケールの政治を行い、さまざまなことを成し遂げましたが、一方で虐政の皇帝としても語られています。
まず「郡県制度」を作って中国史上初めて中央集権的な官僚制度を打ち建てました。
「郡県制度」とは全国を36の郡に分け、郡の下には県を置き、郡には守、県には令を送ってその地を統治させる制度です。
県令が人民を統治し、郡守がこれを監督しますが、彼らは皇帝によって任命された代官であり、治める土地や人民を自分のものにすることはできません。中央政府が決めた全国一律の法律でもって人民を支配します。
権力を皇帝一人に集中させたこの制度は清朝まで約2000年続きました。
秦は各地方の伝統や特性をまったく考慮することなく、法律・習慣・文字・度量衡・貨幣を全国一律に統一しました。文字については小篆(しょうてん)という字体を用いるようになるのですが、この文字の統一によって、各地域の言語音声ではまったく意思の疎通がはかれない広大な中国の地で互いに交流が可能になりました。
中国統一をさらに推し進めるために、始皇帝はしばしば地方巡幸を行い、皇帝の絶大な権威を示そうとしました。各地の名所に、自分の功績を称える文字を刻んだ石を置き、これらの一部は今も目にすることができます。
この巡幸の際、渤海の東に蓬莱山という仙人の住む山がありそこには不死の薬があると聞いて、始皇帝は徐福(じょふく)に命じ3000人の童男童女(若い男女のこと)を引き連れその薬を探しに行かせた、という話が『史記』にあります。徐福が行った先は日本だとされ、日本にもまた徐福伝説が残っている場所が数多くあります。
匈奴を追い払い、5000キロにおよぶ城壁を完成させ、これは後に「万里の長城」と呼ばれるようになりました。中国の「1里(り)」は500メートルで、5000キロはまさに「1万里」です。この建設には多くの民が徴用され、『孟姜女』(もうきょうじょ)の物語にはその悲劇が描かれています。
数十万の罪人などを使って巨大な宮殿を都の咸陽(かんよう)に築きましたが、始皇帝の生前には完成せず、「阿房宮」(あぼうきゅう)と仮称されたまま項羽に焼き払われてしまいました。
始皇帝陵墓の建設は始皇帝13歳の時から始まり、豪奢で巨大な墓室が作られ、これを守る兵馬俑7000体以上が1974年に発見されています。
秦はさらに思想も統一しようとし、秦朝の政治理念には法家の思想のみを用いて儒教など諸子百家の学問は禁じ、実用書以外の書をすべて焼き払い、政治批判をした儒者460人を生きたまま穴埋めにしました。これを「焚書坑儒」といいますが、この焚書によりそれまでの貴重な文物が失われてしまいました。
不老不死を求めたにもかかわらず、BC.210始皇帝は50歳で亡くなります。怪しげな薬を飲んだことで寿命を縮めたとも言われています。
秦の滅亡
始皇帝が巡幸のさなかに亡くなると、宦官で始皇帝の側近だった趙高が権力を奪おうとまずは宰相の李斯を仲間に引き込みました。
始皇帝の死を秘密にして後継ぎであった始皇帝の長男をニセの勅書で自殺に追い込み、末子の胡亥(こがい)を傀儡として擁立しました。
その数年後趙高は李斯を処刑し、胡亥を自殺に追い込んで秦の独裁者となります。趙高は胡亥の次に胡亥の兄の子とされる子嬰(しえい)を傀儡として皇帝に立てますが、趙高はその子嬰によって命を奪われました。
秦王朝が混乱する中、伯父・項梁とともに挙兵した項羽が秦の都・咸陽に進軍、項羽が秦の主力を打ち破ると、劉邦は別の抜け道を通っていち早く咸陽を占領、まもなく項羽が咸陽を焼き払い、子嬰が投降して秦は滅びました。BC.206、始皇帝による中国統一から15年目、始皇帝没後4年目のことでした。
秦の法律と経済
秦は「商鞅の変法」の時代から、法令を重視する社会になりました。秦における法は初め、「公平無私」をモットーとしていましたが、始皇帝時代からは皇帝の命令こそが絶対的な法で、人々はそれに従って生活し、社会生活の隅々まで法のない所はないというほど、法の網の目が張り巡らされていました。法律は竹簡に記載され、どこの地方であってもそれが厳格に施行されました。
これらの法律には今読んでも納得のいくものがあり、たとえば「ゴミを道に捨てたら処罰する」「妻が狂暴だといって夫が妻の耳を引きちぎったが、この夫は処罰しなければならない」「犯罪者を尋問する時は途中でさえぎってはならない」などと書かれています。
春秋時代、各諸侯国が青銅の礼器を鋳造していた時代、儀礼には興味を持たなかった秦では鉄器製造を発達させていました。春秋中期、秦は楚と並んで鉄器製造の中心地でした。秦において鉄器は農器具や武器として製造され、すべて国家が管理していました。
戦国時代になると、秦は鉄器が最も発達した国となり、牛に鉄製鋤(すき)をつけ、農地を深く耕して土地の大開墾を行っていました。
遺跡からは、秦における鉄器の生産工程がすでにシステム化されていたことがわかっています。