墨家と墨子の歴史~弱小国へ援軍を送り続けた兼愛精神~

墨家

墨家は中国の春秋戦国時代における諸子百家の一つです。兼愛という万人への愛や非攻という平和主義をモットーとし、大国からの侵略を受けそうになっている弱小国に助っ人にいっては、技術力を使って応援しました。

墨家とは

墨家(ぼくか)とは戦国時代墨子(ぼくし)によって始められた学派のことです。

墨子は孔子が亡くなったBC.479頃に宋またはに生まれたといわれていますが、はっきりしたことはわかりません。

「兼愛」「節用」「尚賢」「非攻」など、儒家とは異なる思想体系を作り上げ、戦国時代に儒家と並ぶ二大思想となって社会に影響を与えましたが、の時代になると衰退していきました。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。墨子は宋出身なのではないかと『史記』に書かれています。
年表
年表。墨家は春秋戦国時代に活躍した集団です。

なぜ「墨」と呼ぶのか

墨子はなぜ墨子というのか…墨は姓であるという説の他、諸説あります。

その一つは墨は入れ墨のことで、要するに彼は罪を犯して入れ墨があったのではないかというのです。古代中国では罪人の体に入れ墨を入れることがありました。

また彼の集団は下層階級の人が多かったので、一種の蔑称としてこう呼ばれたのではないかという説もあります。

さらには彼らは職人の集団で、大工はいつも墨を持っているのでそこでこう呼ばれたのではないかという説も。

こうしたさまざまな説からは墨家が儒家などと違って、かなりユニークな集団だったことがわかります。

墨家の思想「兼愛・節用・尚賢・非攻」と儒家との違い

墨家がユニークだったのは彼らがキーワードとした用語とその意味するところにも表れています。

兼愛

兼愛とはまったく差別のない人類愛のことです。儒家にも「仁」という人類愛を意味する言葉がありますが、人間ですからたとえば家族と親族や友人の間には愛の濃淡が当然あり、更にそこに入らない人とは一層距離が生まれます。儒家はそうした人間の心情を自然なものとして認めているのですが、兼愛はその差異を認めず愛は無差別でなければならないとしました。墨家はすべての人を公平に愛することで理想の社会が生まれると考えたのです。非常にラジカルで宗教的といってもいい思想です。

節用

節用とは倹約のことです。墨家においては贅沢は否定されました。儒家は礼を重んじたので葬儀や服喪では贅沢が許されましたが、墨家はこうしたことを認めず簡素を重んじました。

尚賢

尚賢とは賢人を尊ぶことです。墨家は世襲を認めず、王や公など高い地位も賢さや能力で選ぶべきだとしました。こうしたことを主張したため、墨家は諸侯に遊説しても受け入れられませんでした。

非攻

非攻とは攻撃を非難することで、攻撃しないことではありません。戦争否定論ではありますが、侵略者には抵抗して戦うというというもので、一切の武力を否定するものではありません。そういう意味では、すべてを話し合いでという平和主義とは異なります。

侵略される国があると墨家の集団は助っ人としてその国に行き、防壁づくりや心理戦のアドバイスなどをして助けました。

「墨守」(ぼくしゅ…頑固に守ること)という言葉がありますが、墨家の人々が教祖の命令には絶対服従だったからという説と、墨家が防御のプロだったからという説があります。

墨家は、侵略されそうになっている国を助けるための防壁づくりやそのほか防衛のための兵器を作っており、そのことから彼らは職人集団ではなかったかとも言われています。数学や物理の知識も持っていました。

墨家のメンバーは坊主頭に短い上着、粗末なわらじ姿で助っ人に徹し、戦いに勝って防御に成功しても感謝を求めず、黙って去っていきました。

日本の小説をもとにした映画『墨攻』(2006年上映。中国・日本などの合作映画)ではこうした墨者のかっこいい姿を香港のスター、アンディ・ラウが演じています。

禹を崇拝

墨家は夏王朝の創始者・禹(う)を崇拝していました。禹は献身的に治水工事を行い、13年間自分の家の門をくぐらなかったと言われます。墨家は自分たちの教義は「大禹の遺教」であると考えていました。

墨家という教団

墨家は一種の宗教団体ともいえ、墨子の死後ここの教主は「鉅子」(きょし)と呼ばれ、鉅子のためには命をも捧げるほどでした。教団内の規律や階級は厳しく、命令には絶対服従でした。

上記の映画でも墨家のストイックさが印象的ですが、魯迅の小説『非攻』からもそれが伺えます。

この魯迅の小説では、墨家の歴史的エピソードを元に墨家が以下のように描かれています。

春秋戦国時代に南方の雄・が小国・宋を攻めようとした時、墨家は宋を助けることにします。そこで墨子は弟子のひとりに300人をつけて宋に行かせたのですが、墨子自身は楚に行って「宋を攻めてはならない」と楚王を説得しました。

楚では参謀長が宋の城を攻撃するために雲梯という高梯子を作っていました。墨子はこの参謀長と図面を使って模擬戦をして勝ちました。すると相手は「私はあなたに勝てるがそれについては言わない」と言います。

墨子も「あなたがどうやって私に勝とうとするか私も知っている。が、それについては言わない」と言い返します。

楚王がこの話に興味を持って「いったいどういう意味だ」と聞くと、墨子は「私の命を奪うということですよ。そうすれば宋はおのずと負けるでしょう。でもすでに私の弟子が300人を引き連れて宋に行き、私の作った防御用のしかけで楚の軍隊を待ち構えています。これを落とすことは不可能です」と言いました。

これを聞いて楚は宋への攻撃をやめました。

さてこの小説は最後が面白いのです。墨子は無事目的を果たし、宋に戻ってきます。雨が降ってきたので宋の城門で雨宿りしようとするのですが、門番の兵に追っ払われてしまいます。「ずぶぬれになった墨子はそれがもとで風邪をひき、十日以上鼻がつまってしまった…」これがこの小説の結末です。

これはどういう意味かというと、宋の人々は墨子とその弟子が命がけで宋を守ったことを知らなかった、そして墨子たちは宋人からその礼はもちろん、自分たちの働きを褒めてもらおうとも思わなかったということです。

平和のために献身する、けれどもそのことで顕彰されることは拒否する…というすさまじい信念。墨家集団の中ではこうした生き方が徹底して教育されていたのでしょう。そしてその教義には絶対服従だったのです。

おのれにぜいたくをゆるさず、頭は囚人と同じ丸坊主、つんつるてんの上着にはだし、あるいは草鞋を履き、人助けに命をかける…かっこいいですね…宗教的信念がなければ続かないでしょう。こういう人たちが紀元前の中国大陸に存在していたのです。

墨家が衰退した理由

当然のごとくこの教団は続きませんでした。

上記のような過酷な献身はもちろん、世襲を認めず、現在の王の権威や権力も、本人に賢さや能力がなければ否定されてしまうのですから、諸侯からは相手にされません。つまり出世の望みもないのです。

親や先祖の祭祀を大切にする中国で、それも軽んじるのですから人々からの共感も得にくかったことでしょう。

墨家は秦・漢の時代になるとその姿を消してしまいました。わずかに後年の下層階級による反乱や任侠の世界にその痕跡を見ることができるといわれています。

近代中国が評価する墨家の科学性と論理性

目を見張る活躍の時期は150年ほどで歴史から消えてしまった墨家ですが、中国では近代以降、墨家が数学や物理などの面で科学的精神を持ち、思考を進める上できわめてロジカルであるところを評価するようになりました。

墨家は思考する際一歩一歩厳密に推論を重ねるという特色があり、どこかで論理が飛躍しがちな儒教など中国の主流思想の特徴が見られません。

こうした面からも墨家というのは実にユニークな思想集団だったと言えるでしょう。

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