呂后(呂雉)【多くの功臣の命を奪い一族で専横した稀代の悪女】
呂后(りょこう)は漢王朝を興した高祖・劉邦の后で、希代の悪女として有名です。呂后は漢王朝が成立すると、かつての功臣たちの命を次々に奪い、夫・劉邦が亡くなると寵姫を無残な死に追いやり、その子供の命も奪いました。
目次
- 1. 呂后とは
- 2. 皇后になるまでの呂后
- 3. 皇后になってからの呂后
- 4. 高祖・劉邦の死後の呂后
- 5. 呂后の専横と呂氏の興亡
- 6. 呂后の時代への評価
呂后とは
劉邦の妻・呂后(りょこう…BC.241~BC.180)は、沛の無頼人だった劉邦を父・呂公が気に入り、劉邦と結婚させました。歴史書には、若き日の呂后に後年のような残酷なふるまいの記述はなく、夫を気づかい、家庭を守る良き妻のイメージそのものです。彼女が一変するのは劉邦が王朝を立ち上げた後で、それまで劉邦を支え続けた功臣たちの命を奪い、劉邦が亡くなるとその寵姫を亡き者としますが、そのやり方は余りに残酷で、実の息子である恵帝は寵姫の姿を見て、ショックのあまり政務を放棄してしまいました。漢王朝政権も呂后とその一族の専横のままとなりますが、彼女の死後、呂一族は滅ぼされました。むごい時代でしたが、朝廷を離れると、呂后の時代はいくさもなく平和で安定した時代と評価されています。
劉邦の妻であるのに、呂という姓を持つのは中国の伝統的な習慣で、中国では古来、女性は結婚しても実家の姓を名乗ります。
また、呂后は本来の名を呂雉(りょち)と言い、呂后、呂太后などと呼ばれています。
皇后になるまでの呂后
呂后は劉邦が泗水(しすい…江蘇省沛県の東)の亭長(小役人)だった時、呂公(呂后の父)が何等かの事件の仇を避けて、沛の県令(知事)の客分となっていた時、劉邦と知り合いました。
呂公は宴席で劉邦の顔を見るなり、「すばらしい人相の御仁だ」と気に入って、自分の娘・呂雉を嫁にやりました。二人の間には息子(後の恵帝…漢の第2代皇帝)と娘(後の魯元公主)がいます。
劉邦の家は農家ですが、劉邦は家業の手伝いなどはしませんでした。
呂雉が二人の子供とともに、婚家先の畑の草取りをしていますと、一人の老人が通りかかり、水を1杯所望しました。
呂雉が水だけでなく食事を恵んでやると、老人は呂雉の顔をしみじみと眺め「奥さん、あんたは貴相をしておられる」と言いました。
呂雉が息子と娘を呼んで老人に看てもらうと、「奥さん、あんたはこの息子によって高い地位に就くだろうよ」と言い、「娘さんの顔にも貴相が出ている」と言いました。
老人がその場を立ち去ると、呂雉は急いで夫・劉邦を探しにいき、事のいきさつを伝えました。
すると劉邦は老人のあとを追いかけ、自分の顔も看てくれるよう頼みました。
老人は劉邦の顔を看て「あんたの顔相はまた格別じゃ」と言いました。
劉邦は自分が皇帝になった後この老人の行方を捜しましたが、見つかりませんでした。劉邦はこの後自分におとずれた幾多の困難を、この予言を繰り返し思い浮かべながら乗り越えていったのかもしれません。
その後劉邦は項羽を助けながら秦の滅亡に大きな力を発揮します。
秦が滅亡すると項羽と劉邦の争い・楚漢戦争が始まりました。楚は項羽の根拠地、漢は劉邦の根拠地です。
BC.205年劉邦は楚の都の彭城(ほうじょう…江蘇省徐州)を占領しますが、そこにやってきた項羽軍に敗れて敗走します。
その際、呂雉は劉邦の父親である太公とともに項羽軍の人質になってしまいました。
それから2年ののち、楚軍と漢軍の間に和議が成立し、二人は無事劉邦の元に戻ることができました。
皇后になってからの呂后
BC.202年に劉邦軍は項羽軍を追いつめ、項羽は烏江のほとりで自刎しました。こうして劉邦は漢帝国の皇帝となり、呂雉はその皇后・呂后となりました。
それから数年、劉邦は呂后との子・劉盈(りゅう えい)を廃し、寵愛していた戚夫人との子・如意(じょい)を太子(いわゆる皇太子のこと)に立てようとしました。
戚夫人から自分の息子を太子とするよう、何かつけ泣き落としにあっていたからです。また軟弱な太子・劉盈に不満を持っていたこともありました。
周囲がどれほど諫めても劉邦はこれに耳を貸しませんでした。
この時呂后は劉邦の信任厚い張良に相談しました。張良は、劉邦も一目置いていた4人の賢者を招き、彼らが劉盈の優れたところを述べたので劉邦もこれに従いました。
高祖・劉邦の死後の呂后
BC.195高祖・劉邦が崩御し、太子の劉盈が第2代皇帝として即位し、恵帝(けいてい)を名のりました。
呂后は、長男・劉盈の立太子を邪魔した戚夫人とその子・如意を非常に憎んでいました。
彼女はもともと非常に気性が激しく、劉邦が天下取りの間はこれをよく助けましたが、その後劉邦が重臣たちを粛清していったことの多くは呂后の意によりました。
夫・劉邦が皇帝として君臨する日々、その寵愛を独り占めにしたのは戚夫人です。それだけでなく、我が子が当然なるべき太子の地位さえ、戚夫人によって危うくされるところだったのですから、その嫉妬や憎悪の激しさは想像がつきます。
劉邦が亡くなると、呂后は戚夫人を捕らえ女官用の監獄に閉じ込めました。まだ幼い如意も呼び出されました。
如意の命の危険を感じた周囲や恵帝はこれを何とか救おうとしますが、恵帝がたまたま目を離したスキに如意は毒を飲まされ、恵帝が戻った時にはすでに亡くなっていました。
恵帝は母親と違って優しく気弱なタイプでした。
呂后はその後戚夫人の手足を切り、目をえぐり、耳を焼き、口がきけなくなる薬を飲ませて、厠室(そくしつ…天井がきわめて低い部屋)に押し込め、これを「人彘」(ひとぶた)と呼んで笑い転げたといいます。
数日後呂后は恵帝を呼んでこれを見せました。恵帝がこれが戚夫人の変わり果てた姿であることを知ると、泣き悲しんで母親に「これは人間のすることではありません。こういう母親の子供だと思うと、私は今後とても国を治めていくことはできません」と言い、その後は酒浸りとなって自堕落な生活を送り、政治を執らずやがて病に倒れました。
恵帝の即位2年後、恵帝は母親違いの兄の斉王と呂后の前で酒を飲みました。
その時恵帝は兄を立てて上座に座ってもらいました。
呂后はこれに腹を立て、斉王の前に置いた二つの盃に毒を盛りました。
斉王がその一つの杯をとって祝杯を挙げようとすると、恵帝はもう一つの毒入り杯をとり、一緒に祝杯を挙げようとしました。すると呂后はあわてて恵帝の杯の酒をこぼしました。
斉王はこれを怪しみ、その杯の酒を飲まずにその場を立ち去りました。あとでその酒に毒が盛られていたことを知り、このままここに閉じ込められるのではないかと恐れました。
斉の家臣が「呂后には子供は恵帝と魯元公主のお二人です。魯元公主には城があまり与えられていません。ですからここで1郡を差し上げてはどうでしょうか」と進言しました。
城とは日本でいうお城のことではなく、町または都市のことです。そこを支配する者はそこに住む人民から税金などを取り立てることができます。
この話に呂后は大喜び。斉王は歓待されて無事帰国することができました。
恵帝の7年目、恵帝が亡くなりました。16歳で即位した恵帝は、亡くなった時23歳でした。
呂后の専横と呂氏の興亡
恵帝の皇后には子供がいなかったので、呂后は、女官が生んだ子供を恵帝の子供と偽り、その女官の命を奪いました。
恵帝が亡くなると呂后は女官が生んだ子供を帝位につけ、この子がやがて真相を知り、将来反乱を起こしてやると言いふらすようになると幽閉し、誰も会えないようにしました。
呂后は、近衛師団(皇帝を守る軍隊)の指揮権を自分の親族である呂氏一族に与え、さらには各地の王侯に封じていきました。これ以後は呂后が皇帝に代わって天下に号令を発するようになりました。
趙王の后は呂一族の女性でしたが、趙王は他の側室を愛して、この后を愛そうとはしませんでした。そこで呂后に夫の趙王を讒言すると、呂后は趙王を呼び寄せ、その屋敷を包囲させて食べ物を与えず餓死させました。
BC.180に呂后が亡くなると、陳平(ちん ぺい)、周勃(しゅう ぼつ)など高祖・劉邦の功臣や劉氏一門の劉章らが呂氏打倒に決起しました。
周勃は「呂氏(呂后一門)のために尽くしたい者は右肩を脱ぎ、劉氏(劉邦一門)のために尽くしたい者は左肩を脱げ」と命じると、兵士は皆左肩を脱いで、劉氏への忠誠を示しました。
こうして呂氏一門は老いも若きも男女を問わずみな捕らえられ、一族すべてが滅ぼされました。
呂后の時代への評価
呂后は劉邦の皇后に過ぎませんでしたが、司馬遷はその歴史書『史記』の中で、呂后については「呂后本紀」として帝王の事跡を扱う「本紀」に入れています。逆にその子・恵帝についてはこの呂后本紀の中で扱う以外、『史記』のどこにも取り上げられていません。
「呂后本紀」の最後に、恵帝や呂后の時代、庶民は戦乱のない安楽な時を持つことができたと書かれています。
呂后は猛女でしたが、彼女の権力は朝廷の後宮から出ることはなく、天下は安泰、刑罰も少なく、人々は落ち着いて農業に励むことができ、その暮らしは豊かになったのでした。