王莽の生涯【古の王朝を理想としクーデターを起こした外戚】

王莽

王莽は外戚として前漢王朝の権力を簒奪し(王朝)を建てますが、時代錯誤的な政策で社会を混乱させ、新は建国15年で滅びました。

王莽とは

王莽(おう もう…BC.45~AD.23)は前漢を滅ぼし、「新」(8~23)を建てた人物のことです。王莽は、前漢11代元皇帝の妃、王氏の外戚として登場し、12代成帝末期に高い地位につき、13代、14代皇帝はどちらも幼帝で、王莽は摂政として権勢を振いました。やがて自らを仮皇帝、摂皇帝などと称し、天命が王莽に下ったとでっちあげて政権を奪い、前漢は滅び、が建国されました。王莽は古代周王朝の政治を神聖化し、儒教に基づいた政治を行おうとしましたが、時代錯誤なやり方は国を混乱に陥れ、経済は破綻、地方の豪族たちは反発、異民族の反乱も招きました。やがて農民が反乱を起こし、豪族たちも決起して、その中から後の後漢光武帝・劉秀も現れました。最期は反乱軍に包囲されて命を落としました。

年表
年表。新は前漢と後漢の間、15年程度の王朝です。

前漢末の状況

前漢は劉邦が建国し、BC.206からAD.8まで214年続きました。

その間劉邦を初代として、順に2恵帝、3・4幼帝(実質劉邦の后・呂后の時代)、5文帝、6景帝、7武帝、8昭帝、9廃帝、10宣帝、11元帝、12成帝、13哀帝、14平帝、15(帝は立たず、皇太子のみ)と続いて滅亡しました。

第10代宣帝は前漢中興の祖となる良い政治を行いましたが、次の第11代元帝以降、前漢は衰亡の道をたどりました。

元帝の皇后は元后と呼ばれますが、王という家の出身で、やがてこの王家が皇帝の外戚として権勢をふるうようになりました。

王莽はこの元后の甥で、第12代成帝末期に大司馬という高い地位に就きました。

成帝の後は第13代哀帝・第14代平帝と続きますが、いずれも短命の皇帝で、哀帝は26歳、平帝は14歳で亡くなりました。

皇帝の権力が弱体化する中、王家は権勢をふるい、とりわけ王莽にその権力は集中しました。

王莽登場

哀帝が亡くなると当時9歳の平帝を立て、実質的には元后が政治を執り、元后に呼ばれた王莽が摂政になりました。

王莽は世論工作に長けており、裏であくどいことをやりながら、日食や他国からの奇獣の献上などを、自分を聖なる存在に見せる演出として使いました。

前漢最後の皇帝・平帝も王莽によって命を奪われました。

やがて王莽は自らを仮皇帝と称し、人々には摂皇帝と呼ばせました。

平帝の皇太子としては2歳の幼児を立たせましたが皇帝にすることはなく、それからまもなく天命が王莽に下ったというしるしを各地ででっちあげて王莽が皇帝の地位に就きました。AD.8年のことです。

ここに前漢は滅び新しい国号は「」となりました。

王莽政権の政策

「新」王朝はわずか15年の命でした。

この15年の治世を支えたイデオロギーは「復古主義」です。

西周(せいしゅう…BC.1046頃~BC.771 古代中国の王朝)の政治を理想とし、『周礼』(しゅらい)や『礼記』(らいき)など儒教の経典に合わせて、官職名を変えたり、地方の組織を改編しました。

その結果行政組織は混乱して機能しなくなり、するとまた制度をいじるので混乱は一層ひどくなりました。

王莽は貨幣制度や専売制度などにも口を出し経済は破綻しました。

土地制度も変えて、耕地をすべて国有化してから平等に配分しましたが、土地を持っていた豪族が反発し流民が増えました。

前漢政府が相手国に気を使い慎重に進めていた異民族に対しても傲慢な態度で臨んだため、彼らの反乱を招きました。

王莽は儒教に基づく理想社会を作ろうとしたのですが、すべては失敗に終わり混乱が広がりました。

「新」滅亡

王莽による変革に最初は期待した人々は、失政が明らかになり期待が裏切られたことを知るや、いろいろな階層の人々がそれぞれ異なる考えの元に決起しました。

農民が各地で反乱軍を起こし、山東で起きた反乱軍は「赤眉軍」(せきびぐん)と呼ばれ、眉を赤く染めて戦いました。赤は前漢を建てた劉氏のシンボルカラーです。

湖北省の緑林山に逃げた流民も反乱軍化し、軍勢5万にまでふくらみました。

中国語には今も「緑林好漢」という言葉があり、山間部を根城に反政府運動を起こすグループや盗賊などを意味しますが、この時の反乱が元になってできた言葉です。

こうした農民反乱や流民反乱以外に豪族たちによる武装蜂起もありました。

さらには地方軍閥勢力もありました。

この豪族による軍閥勢力の中に劉秀や劉玄といった前漢につながる劉氏の一族がいました。

この劉秀こそ後に後漢を興す光武帝(こうぶてい…6~57 後漢の初代皇帝)です。

王莽はこうした軍事勢力に攻められ長安で包囲されて命を落としました。

王莽とは何者だったのか

王莽とは古代の政治に憧れた純粋な理想主義者だったのでしょうか。

班固(はん こ…32~92 『漢書』を編纂した)は『漢書』(かんじょ 前漢の歴史書)の中でその風貌を以下のように書いています。

「口が大きく頤が短く、目が飛び出ていて瞳が赤く、ガラガラ声で話す。身の丈7尺5寸。体が大きいのに厚底靴を履き、長めの冠を好み、張りのある毛を服に入れ、胸をそらして高いところを見、遠くをながめる目つきで左右の者を見る」…

王莽は儒教の教えを体得した聖天子を装った野心家で、中身はペテン師だったと評する学者もいます。

正妻の息子4人中3人を王莽自ら自殺に追い込み、妻が悲しみから失明しても平然としていました。

後世の評価はさんざんなものですが、近代に入ってその改革を評価する学者もいます。

特に王莽による朝廷の礼制改革は後漢の光武帝が踏襲しており、その後の王朝にも受け継がれました。

王莽政権はまったく無意味な政権というわけではなかったのです。