司空の歴史と役割~古代中国の土木と水利を司る官職~
「司空」は古代中国における役所のひとつで、土木建設や水利を担当しました。夏王朝の創始者といわれる禹は聖帝・舜によって「司空」を担当するよう命じられ、舜が長年悩んでいた治水に成功して舜から天子(皇帝)の地位を禅譲されたという伝説があります。
司空とは
司空とは古代中国の官職名です。
『周礼』(西周王朝の行政組織について書かれた本)に「司空は6つの官職のひとつで土木建設や水利建設を扱う」と書かれています。現代の日本なら「国土交通省」でしょうか。
殷代の遺跡から出た甲骨文に、「司工」「嗣工」と書かれた文字があって、これらの官職は土木工事を管轄したとされていますから、「司空」は「司工」や「嗣工」とも書かれたのかもしれません。現代中国語で「空」はコン、「工」はゴンですので、古代でも似た音だったことでしょう。「司空」とは水利や土木の工事の司(つかさ)、すなわち「役所」でした。
司空・禹
中国最古の王朝とされる夏の創始者・禹(う)は聖帝・舜からこの「司空」になるよう命じられます。
もともと禹の父・鯀(こん)が聖帝・堯に、洪水の害があまりにひどいので治水に当たるよう命じられたのですが失敗に終わり、鯀は流刑に処されてしまいます。
その後、堯から帝位を禅譲された舜が鯀の息子・禹に「司空」となって洪水を治めるよう命じます。父の二の舞になるまいと、禹は懸命に治水に取り組み、自分の家の前を通っても中に入らなかったほどでした。
禹は山を切り開き、川を浚渫(しゅんせつ)し、9つの州で治水を行って大きな成果を収めました。さらには各州の土地を調査し、その結果によって土地のランク付けをして税の基準を定めました。
各王朝の「司空」
こうして伝説の王朝から始まった「司空」は、王朝が代わっても継承されていきましたが、時代によっては置かれたり置かれなかったり、またその名も変わりました。
西周時代(BC.1045~BC.771)の「司空」は「三公」(古代中国の王朝で最高位に属する官職)のひとつで「六卿」(りくけい・りっけい…『周礼』に書かれた、西周王朝最高位に属する6人の官僚)に相当し、「司馬・司寇・司土・司徒」とともに「五官」と称されました。この時代の「司空」も水利や建築を管轄しました。
春秋時代(BC.771~BC.403)には、周王室と魯・鄭・陳などの国が「司空」を置きました。この時代の「司空」は、土地の管理を受け持ち、土地の測量や土地の良し悪しの弁別をして民衆に耕作をさせ、徴税時の額を一定にさせました。
「司空」は全国の土地を管理していたため、陳の国が鄭の国に投降した際には、「司空をして地を致す」と『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん…孔子が編集したとされる歴史書『春秋』の解説書)に書かれています。
春秋時代の「司空」のもうひとつの職務が土木工事…築城…の管理でした。
秦代には「司空」は置かれませんでした。
前漢時代も初めは「司空」は置かれませんでしたが、成帝時代(BC.32~BC.7)に「御史大夫」(ぎょしたいふ…大臣を補佐する官僚)を廃して「大司空」を置きました。哀帝(BC.7~BC.1)時代に再び「御史大夫」を復活させ、その後「大司空」に戻しました。
後漢(25~220)になると「大」の字を取り「司空」として水利や土木を管轄しました。また「司空」「太尉」「司徒」を合わせて「三公」としました。
三国時代の魏・蜀・呉は三国ともに「司空」を置き、「大司馬」、「大将軍」、「太尉」、「司徒」と合わせて「五府」と称しました。
北周では『周礼』にならって「六官制」をたて、「大司空」を冬官(とうかん…西周王朝における六官のひとつ)とし、土木建設や水利建設などを管轄しました。
北魏、北斉、隋、唐、五代、宋の初期、遼、金の各王朝では、「司空」「太尉」「司徒」を合わせて三公としましたが実体のない官職で、元代以降これらは廃止されました。
明朝や清朝では「司空」は「工部尚書」(こうぶしょうしょ)の別名として使われました。「工部」とは古代中国の役所で、「尚書」は長官を意味します。「工部」は、建設や開墾、水利などを管轄しました。