王翦の生涯~秦の統一に最も貢献した大将軍~【歴史地図】
王翦は古代中国・戦国時代末期の秦の名将です。秦の始皇帝の下、秦王朝の成立に貢献しました。
趙や燕などを打ち滅ぼし、秦を除いた戦国七雄のうち残るは楚一国となります。この時始皇帝は若い李信を重んじ、王翦は田舎に隠棲してしまいます。李信が楚攻略に失敗すると始皇帝は頭を下げて王翦の出馬を願い、王翦はみごとこれに応えて楚を滅ぼしました。
※上の画像は王翦の故郷。
王翦とは
王翦は秦の将軍で、始皇帝の六国平定と秦王朝の建立に軍事面で大きな力を尽くしました。
趙も燕も王翦将軍の活躍で滅ぼされました。楚平定の際、始皇帝が王翦に必要な兵力を聞くと60万といわれ、20万で平定してみせると豪語した若い李信将軍を派遣します。ところが李信は敗北、始皇帝は田舎にこもった王翦の元を訪れ、王翦の再登場を懇願します。王翦が再び60万の軍勢を求めると始皇帝はうなずき、王翦はこうして楚征伐に出陣しました。60万は秦の全兵力ですから始皇帝は王翦に国の命運を預けたのです。
王翦は楚に到着するとすぐには戦わず、兵にたっぷりと休養を与え、楚を油断させて一挙にこれを滅ぼしました。王翦はこうして始皇帝の賭けにみごと応えてみせました。
王翦の経歴と活躍
王翦は今の陝西省・頻陽(ひんよう)の出身で、若い頃から兵法を好んでいました。
BC.236王翦は秦の将軍として趙を攻めこれを破って9城を陥落させました。BC.228には、再び将軍として趙を攻め、1年余の後これを破りました。趙王は降伏し、秦は趙の全領土を秦の郡としました。ここに戦国七雄の一つ・趙は滅亡しました。
翌年(BC.227)燕が荊軻(けいか…戦国末期の刺客)を使って秦王(のちの始皇帝)暗殺を企てます。あやうく命が助かった始皇帝は王翦に命じて燕を攻めさせます。燕は敗走し、燕王・喜(き)は遼東に逃げました。王翦は燕の薊(けい…今の北京付近)を陥落させ引き揚げました。
始皇帝はさらに王翦の子・王賁(おうほん)に命じて楚を攻撃させ、王賁は楚軍を打ち破りました。王賁は帰国するや次に魏に出兵し、魏の王を降伏させて魏を滅ぼしました。BC.225のことです。
こうして始皇帝は三晋(魏・趙・韓のこと…それぞれ元は晋の家老たちが建てた国なのでこう呼ぶ)すべてを滅ぼし、燕王を追い払い、楚の軍をたびたび打ち破ってBC.221の全国統一まであと一歩とします。
秦には李信(りしん…生没年不詳)という将軍がいました。
李信は年若く血気盛んで、かつて数千の兵を率いて燕の太子・丹の軍を追い落とし太子・丹を捕虜にしました。太子・丹とはかつて荊軻に始皇帝暗殺を頼んだ人物です。これに失敗した丹はこうして結局秦の捕虜となってしまいました。
始皇帝は李信に「楚を攻め滅ぼしたいが、李将軍ならどのくらいの兵士を必要とするか?」と尋ねました。李信は「20万あれば十分です」と自信たっぷり答えました。
始皇帝は王翦にも同じことを尋ねました。王翦は「60万は必要です」と答えました。
そこで始皇帝は「王翦は意気地なしだ。すっかり年を取った。これに比べて李信は勇敢だ。彼の判断の方が正しかろう」と考え、李信と蒙恬(もうてん…?~BC.210 秦の将軍)を将軍として、20万の兵とともに楚討伐に向かわせました。
王翦は自分の策が入れられないと知るや、病気を口実に故郷・頻陽に戻り隠居してしまいました。
一方李信と蒙恬は楚軍を各地で打ち破り、その後李信は兵を引き戻して蒙恬と会合を開きます。
楚軍はこの機に乗じ三日三晩宿営することもなく秦軍を追いかけて李信軍を破り、これを敗走させました。
大口をたたいた李信のこの結果に腹を立てた始皇帝は、将軍はやはり王翦だとその隠居先・頻陽に赴いて彼に詫びます。
「王将軍よ、今回のいくさではあなたを信頼せずに申し訳ないことをした。若い李信に任せたらこのザマだ。どうかここは将軍のお出ましを願いたい」
すると王翦は「いやいや、私はすっかり老いぼれました。どうかもっと優れた将軍をお選びください」
それでもと繰り返し懇願する始皇帝に王翦は「もしどうしても私にとおっしゃるならば、兵士60万をつけてください」
始皇帝は今回はすんなりうなずき、こうして王翦は60万の大軍を率いて楚に出撃することになりました。
始皇帝は灞水(はすい…西安の東を流れる川)のほとりまでこれを見送りました。60万は秦の軍勢すべてです。これを失えば秦もまた存亡の危機に陥ります。始皇帝は王翦にすべてを賭けたのです。
別れの際王翦は始皇帝に「私めが楚軍を打ち破ったあかつきには、どうか美しい屋敷や土地をいただけますよう」と何度も頼みました。
始皇帝が「そんな心配をする必要はなかろう」と言うと再び「いえいえ、将軍職には貴族のように土地を封じられるということがありません。大王にこうして重んじられている間に、わが子孫のためにぜひとも財産を保証していただきたいのです」
これを聞いて始皇帝は腹をかかえて笑い出しました。
王翦は函谷関(かんこくかん…河南省にあった有名な関所)に着いてからも使者を始皇帝の元に送り、再び褒美の土地のことを5度も懇願させました。
それを知った人が「王翦将軍はあまりにしつこい」とあきれると王翦はこう言い返しました。「私がこんなにも褒美としての土地にこだわるのは始皇帝の人となりをよく知っているからだ。始皇帝は猜疑心が強い。今や秦国の全兵力を私に託したのだ。いくさの後の報酬にかくも執着しているところを見せなければ、始皇帝は私を疑うに違いない。そうなってはたまったものではない」
始皇帝はこのしつこい頼みにうんざりし大将軍なのに人物が小さいとバカにしつつも、どこかホッとして王翦の帰りを待ったに違いありません。
王翦が大軍とともに楚にやってくることを知った楚は、国中の兵を用いてこれを防ごうとしました。
ところが楚に着いた王翦は陣地を設営し周りに丈夫な塁壁を築くとそこから出撃していこうとしません。楚軍が挑発に来ても応じようともしませんでした。そして毎日兵士をゆっくりと休ませ、食事をたっぷりと与え、自分もまた兵士と同じ食事を取りました。
こうした日々がしばらく続いた後王翦は自軍の陣地の様子を周囲に聞きました。すると「兵士たちは石投げなどをして遊んでいます」との報告。これを聞いた王翦は「よし!兵士はそれでこそいくさに使える」と言いました。
いくら挑発しても秦軍がのってこないので、楚軍は兵を東に向けました。
それを知るや王翦は全軍でこれを追いかけ、休養も栄養もたっぷり得た秦軍兵士は楚軍をおおいに打ち破り、楚の名将軍・項燕(こうえん ?~BC.223…項羽の祖父に当たる)を討ち取り、こうして楚軍は敗走しました。
秦はさらに楚の都を攻略して楚王を捕虜とし、他の楚の土地もすべて陥落させて楚を滅ぼします。BC.223のことでした。
王翦の子・王賁もまた李信とともに燕と斉を破り、これを滅ぼしました。こうしてBC.221秦は戦国七雄のうち六国を平定し、ここに秦王朝が始まりました。
秦の中国統一に、王翦とその子王賁の功績によるところは大きく、その名は後世に伝わりました。
王翦の子孫
秦の始皇帝亡き後、二世皇帝の時代になると王翦もその子の王賁もすでになく、その次の世代になっていました。
陳勝(ちんしょう ?~BC208…秦末に起きた反乱の指導者)の反乱の時、秦は王翦の孫・王離に趙を撃たせました。
ある人が「王離は秦の名将だからこのいくさは勝つに決まっている」と言うと、それを聞いた人が「「いやいや三代目の将軍は必ず負ける。なぜならその前の世代が人生を殺伐と生きたので、その不浄を子孫が受けるのだ。王離将軍はまさにその三代目だ」
その後項羽が趙を助けて秦軍を撃ち、王離を捕虜とし秦の王離軍は降伏しました。
司馬遷はその著『史記』「白起王翦列伝」で王翦の人生をこう評しています。
「王翦は秦の将軍となり、始皇帝は彼を師とした。しかし王翦は始皇帝を助けて徳を立て国の根本を固めることができなかった。ただ始皇帝に調子を合わせこれに迎合してその人生を終えた。孫の王離になると項羽の捕虜となってしまったのも理由がないとは言えない」
これは楚攻略の前に王翦が始皇帝にたびたび褒美をねだった時のことを指したものでしょう。
戦国時代多くの名将たちが朝廷の猜疑心によって非業の死を遂げました。王翦の言動はそれを避けるためであり、始皇帝の心理を読み込んだみごとな策でしたが、司馬遷は王翦に個人の死や一門の栄達などよりも徳を求めたのだと思います。
その徳が王翦にあったならば、秦はあんなに短命では終わらなかっただろう…と司馬遷は思ったのかもしれません。