劉向の生涯~前漢時代に数万の書物を分類した目録学の祖~

劉向

劉向りゅうきょう前漢時代の学者で、朝廷の膨大な蔵書に目を通して分類し、後世から目録学の祖と呼ばれました。

劉向とは

劉向像
劉向像。

劉向(りゅう きょう…BC.79~BC.8)は前漢(BC.206~8)の学者で、目録学の祖ともいわれています。前漢の高祖・劉邦の子孫に当たります。

高祖・劉邦から4代目の傍系子孫で、先祖は劉邦によって楚王に封じられました。劉向はその父の時代に楚から長安に移り住みます。これは当時の武帝が淮南(わいなん)王・劉安など同姓の諸侯の命と封地を奪っていたのを目にして危機感を持ったからだといわれています。

劉向は朝廷に出仕した時に淮南王の膨大な蔵書を見る機会があり、そこで錬金術や占星術の本を目にして、それらを研究するようになりました。自分でも練丹術(れんたんじゅつ…不老不死の薬を作る術)を作ろうとして投獄されましたが、その才能を惜しむ人からとりなされ、再び朝廷の役人に戻ることができました。

年表
年表。劉向は前漢時代に活躍しました。

目録学の祖

成帝(せいてい…BC.51~BC.7…第12代皇帝)の時代に、散逸本を集めるようにとの勅命(ちょくめい…皇帝の命令)を受け、劉向は本を収集した後に真本(しんぽん)は政府に、写本はその持ち主に返しました。その際数万にのぼる書物に目を通し研究したといわれ、その結果が「劉向別録」という書物分類の本です。こうして劉向は「目録学の祖」といわれるようになりました。

劉向は占星術にも詳しく、夜の空を見て前漢王朝の危機を察知したといわれています。

また儒学者として『戦国策』『列女伝』『新序』『説苑』などを書いています。これらの本は皇帝の教育のためだったといわれています。

経学者・天文学者・目録学者の劉歆(りゅう きん…?~23)はその三男です。

以下に劉向の代表的な書物である『戦国策』と『列女伝』を紹介します。

『戦国策』

『戦国策』は戦国時代の遊説家たちの献策やエピソードを諸国ごとに集めて編集した書物で、この編集者が劉向です。

紀元前の古代中国は、BC.770~BC.403を「春秋時代」、BC.403(BC.453説もあり)~BC.222を「戦国時代」と呼びますが、この「戦国時代」というネーミングはこの『戦国策』に由来した時代名です。

古代中国では、劉向以前に『国策』『国事』などの書がありましたが、劉向がそれら何冊もの竹簡書籍をまとめて1冊の書とし、33篇に分けて記したものが『戦国策』です。

1972年から1974年にかけて発掘された湖南省長沙の馬王堆遺跡からは「帛書」(はくしょ…絹の布に書かれた書)が出土し、そこには『戦国策』の縦横家に関する部分と似た文章があり、『戦国縦横家書』と名付けられました。

この馬王堆遺跡に埋葬されている人物は長沙の丞相・利蒼でBC.185年(168年説も)に埋葬されており、劉向の生没年は(BC.79~BC.8)なので、劉向が生きた時代よりも百年ほど前の人です。つまりこの時出土された『戦国策』を見れば、劉向による編集以前の『戦国策』がどういったものだったのかを知ることができます。

『戦国策』に登場する国

『戦国策』に登場する国は、西周(1巻)、東周(1巻)、(5巻)、(6巻)、(4巻)、(4巻)、(4巻)、(3巻)、(3巻)、宋衛(1巻)、中山(1巻)で、全33巻、497篇になります。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。

『戦国策』に掲載されている有名な物語

次に『戦国策』に載っている有名な物語を紹介しましょう。国を相手取った大策略の物語です。

呂不韋と異人

濮陽(ぼくよう…現・河南省濮陽市)の商人・呂不韋(りょ ふい)は商売をしようと邯鄲(かんたん…現・河北省南部の都市)の町に出かけました。そこで秦国の人質として趙の国に連れてこられた秦の公子・異人を見かけ、家に帰って父親にこう聞きました。

「農業の儲けはどれほどになる?」

父親は「10倍」と答えました。

呂不韋は更にこう問いかけました。「宝石の売買だと儲けはどれほどになる?」

今度の父親の答えは「100倍」でした。

呂不韋はまたこう尋ねました。「もし一国の君主を商売のタネに擁立したらどうなる?」

父親は「それは話が大きすぎてとても計算できない」と答えました。

それを聞いた呂不韋は「こんなに辛い仕事をしているのに、着るものにも食うものにも事を欠く。君主を擁立すれば後の世代まで潤うというなら、この商売、買いだ!」

こうして君主擁立を商売のタネにしようと考えた呂不韋は異人に会いに行き、「公子、あなたには王位継承の権利があり、母君は宮中においでです。今あなたは敵国で人質となっており、ひとたび秦と趙が開戦したらお命は真っ先に奪われることでしょう。この私が何とかしてあなたをお国に戻し、王位を継承できるようにいたします。ひとまず私が先に秦国に行き、後で必ずあなたが帰国できるように計らいましょう。どうか私を信じてください」と説得しました。

その後呂不韋は秦に行き、秦の王妃・華陽夫人の弟である陽泉君に面会してこう言いました。

「閣下はご存じですか?閣下のなさっていることは死罪に当たるのですよ。閣下の邸宅に滞在していらっしゃる賓客は地位も財力もある方ばかり。一方国の跡継ぎである異人様にはそういう方は誰一人いらっしゃいません。しかも閣下の邸宅には数えきれないほどの珍宝や駿馬。これは極めてマズイことです。今や大王陛下は高齢となり、崩御されることがあれば太子が後を継ぎます。閣下の足元は危ういこと積んだ卵のごとし。危険はすぐそこまで来ているのです。

ここで私・呂不韋がひとつ策を立てましょう。成功すれば閣下の富貴はぐらつかないこと泰山のようになりますよ」。

これを聞いた陽泉君はいそいで呂不韋に席を譲ってうやうやしく礼をし、教えを請いたいと願いました。

呂不韋は「大王陛下はすでに高齢、華陽夫人には跡継ぎのお子がない。今趙国で人質となっている公子・異人様は才徳兼備、もし王后様が異人様を後継ぎとするならば、異人様が王位を継承したあかつきには、きっと夫人に感謝をし、お子のない華陽夫人はこれによって老後は安泰となりましょう」

陽泉君はなるほどと思って華陽夫人を説得に行き、華陽夫人から公子・異人を秦に帰すよう趙国に求めさせました。

ところが趙国は異人を手放そうとしません。

そこで呂不韋は趙王のところに行って今度はこう趙王を説得しました。

「公子・異人は秦王が寵愛したお子様です。今は秦の華陽王后が彼を養子にしようと考えていらっしゃるところです。もし秦が趙を攻撃しようと決めたなら、一人の人質などのためにそれをやめようとは思いますまい。趙国はむだに人質を抱えているのです。

しかしもし人質を国に帰して王位に就かせようと厚い礼儀をもってこれを送るなら、公子・異人は大王の恩義を生涯忘れることはないでしょう。これこそ礼を持って相交わる作法というものです」。

この説得に趙王は異人を手放すことにしました。

呂不韋は公子・異人に楚の服装をさせて華陽夫人に会わせました。華陽夫人が楚の出身だったからです。華陽夫人は異人の服装をたいそう喜び、この子は頭がいいと思いました。そこで親しげに異人に近づいて「私は楚の人間よ」と言って公子・異人を養子とし、その名も「楚」と改めさせました。これが異人の名、子楚の由来です。

秦王が異人に試みに詩を暗唱させようとすると、異人はこれを断り「私は子供の頃から趙の国で育ち、教えてくれる先生もいませんでした。ですから詩の暗唱はうまくないのです」。

これを聞いて秦王はそれ以上強要することなく、彼を宮中に留めました。

ある時異人は秦王にこう進言しました。「趙国の豪傑たちで陛下のお名前を知らない者はおりません。いま陛下は秦の君となり、趙の人々は陛下を気にかけております。もし陛下が使者ひとり彼らの元に送って慰めの言葉もかけなければ、彼らに恨みの心が生まれるかもしれません。

どうか辺境の城門を開けるのは遅く、閉めるのは早くして、災いを未然に防いでください」

秦王は彼の話はもっともであると思い、その奇謀に驚きました。華陽夫人はこの様子を見て、チャンスとばかり異人を太子にするよう持ちかけました。

秦王は丞相を呼びこう言いました。「わしの息子たちの中で子楚が一番デキルぞ」。

こうして異人は秦の後継者となりました。

異人は秦王になると呂不韋を丞相とし、これを文信公に封じて藍田(らんでん…陝西省西安東南の地域)12県を領地として与えました。王妃は華陽太后となり、諸侯はこの知らせを聞くと続々と太后に領地をプレゼントしました。

呂不韋が「買ったもの」はその策によって莫大な規模に変貌を遂げ、呂不韋の地位も財も桁外れなものになりました。

子楚・異人はその後、戦国・秦の第30代君主・荘襄王(そうじょうおう)となり、その子供・政は後の始皇帝となりました。

『列女伝』

『列女伝』(れつじょでん)は女性の伝記を集めた本で、理想の女性像を著した本だといわれています。現存の『列女伝』は南宋の蔡驥(さい き)が編集したものです。

もともとは7篇からできており、後にその7篇を上下に分け、更に頌(しょう…徳や美をほめたたえる言葉)1巻を付け加えて全15巻とし、それに班昭(はん しょう…45?~117?)が注を加えました。班昭は女性の歴史家・著述家で、『漢書』を編纂した班固は兄に当たります。

『列女伝』に掲載された女性

(第1巻)母儀伝

娥皇、女英…娥皇、女英は(ぎょう)の長女と次女で、娥皇は后、女英は妃として共に舜に仕えました。

棄母…の祖である后稷(こうしょく)の母のこと。野で巨人の足跡を踏んだことで妊娠し、その子を産んで道に捨てましたが、何度捨てても拾われるので育てることにしました。この赤子が後に周王朝の祖となりました。

孟軻母…孟子の母。「孟母三遷」の話で知られています。

(第2巻)賢明伝

秦の穆公の穆姫(ぼくき)など。

穆姫関連のエピソードとしては以下の話が知られています。

秦の穆公の夫人である穆姫(生没年不詳)は晋の献公の娘で、公子・重耳(ちょうじ)や夷吾(いご)の異母姉弟にあたります。BC.656年に穆姫は秦の穆公に嫁ぎますが、この時晋からは百里奚(ひゃくりけい)が侍従としてお供しました。

BC.650年に公子・夷吾が秦の助けで亡命先から晋に帰国し、晋の恵公として即位しました。その際秦と約束した領土割譲を晋の恵公は実行しませんでした。

BC.647年に晋で飢饉が起こると、恵公は秦に食糧の援助を求め、秦の穆公は晋に食糧を援助しました。

BC.646年、今度は秦で飢饉が起き、秦の穆公は晋に食糧援助を求めますが、晋の恵公は援助しませんでした。逆にBC.645年、晋の恵公は秦に出兵し戦いますが、この戦いでは秦が勝ち、晋の恵公は捕縛されました。

秦の穆公は恵公を引き連れて凱旋しますが、穆公の妻・穆姫はこの知らせに高楼に登ると薪を重ね、喪服を着て穆公を迎えました。焼身自殺を図ろうとしたのです。穆公は妻の覚悟を見て、恵公を晋に戻すことにしました。晋の太子・圉(ご)は秦の人質となり、穆姫を頼りにしました。穆姫が亡くなると、穆姫の弟の重耳(ちょうじ)が秦の助けで晋に帰国し、晋の文公として立ちました。

(第3巻)仁智伝

許穆夫人(BC.690?~BC.610?)。

春秋時代の衛の国の王朝歌人で、中国最初の女性詩人です。許の国の穆公に嫁し、許穆夫人という名で知られています。

(第4巻)貞順伝

ここでは宋恭伯姫の話が知られています。

伯姫は魯の宣公の娘で、成公の妹です。母は缪姜といい、伯姫を宋の恭公に嫁がせました。ところが恭公はこれを喜んで迎えようとしなかったので、伯姫も恭公の命令に従いませんでした。伯姫が恭公に嫁いで10年して恭公は亡くなり、伯姫は未亡人となりました。景公の時代に伯姫は火災に遭い、左右の者が「早く逃げてください」というと伯姫は「嫁した女は婆やなしに夜家から出てはなりません。不義の行為をして生を求めるくらいなら、義を守って死んだ方がましです」と言って猛火に包まれて亡くなりました。

(第5巻)節義伝

ここでは楚昭越姫の話が取り上げられています。楚昭越姫とは、勾踐(こうせん)の娘で楚の昭王の側室のことです。節義伝では以下のように書かれています。

楚昭越姫は越王勾践の娘で楚昭王の側室です。昭王の宴遊の際、蔡姫は左に越姫は右に並びました。昭王は自ら馬車に乗って走らせ、祭祀用の台に登って雲夢の庭園を眺めました。

士大夫たちが馬を走らせ追ってくるのを見ると、二人の女性に「楽しいか」と聞きました。

蔡姫が「楽しゅうございます」とこたえると、昭王は「わしはお前と生きるのもこうありたいし、死ぬのもこうありたい」と言いました。

蔡姫は「昔、蔡の君主は人民の労役をもって、君主の馬足に仕えさせました。私もつまらない身分でしたが、今は妃となりました。もとより生を楽しみ、陛下と共に死にたいと思っております」と言いました。

昭王は歴史官の方を向いて蔡姫のこの言葉を書き留めさせ、蔡姫に殉死の許可を与えました。

昭王は越姫にも「楽しいか?」と聞くと、越姫は「楽しいことは楽しいのですが、いつまでも続くものではないでしょう」と答えました。

昭王が「わしはお前と生きるのにこのようでありたいし、死ぬのもこのようでありたい。それは無理な願いだろうか?」と越姫にも同じことを聞きました。

越姫は「昔、先君の荘王は3年遊びくらして、政治を行いませんでした。しかしその後態度を改めたので天下の覇者になりました。王が政治にいそしむのであれば私は殉死も致しましょう。でも今王はまつりごともせず遊び暮らしているのですから、私が死んでも意味のないことです。

王は束帛と馬を我が祖国に送って私を求め、太廟で私を娶られましたが、殉死の約束はしませんでした。おばたちは「婦人というものは死ぬことで君主の善を明らかにし、君主の恩寵を増すものですよ」と私に言いましたが、無知によって死ぬことを光栄とするなどという話は聞いておりません。ですからそのご命令は聞きません」

そこで昭王はその言葉を理解し尊重しましたが、それでもなお越姫を寵愛し続けました。

(第6巻)弁通伝

斉の鐘離春。戦国時代の斉の国の女性です。別の名を鐘無塩、鐘無艶ともいいます。

鐘離春はきわめて醜かったと書かれており、その顔は目の下がくぼみ、顔の上下の比率が変で、骨太く男の顔のよう、鼻は天井を向き、首は太くてのどぼとけがあり、額の真ん中はくぼみ、髪の毛がほとんどなく、皮膚は漆のように黒い色をしていました。

ある日のこと、鐘離春が斉の王宮に行って宣王への面会を求めました。そして手を挙げ膝を叩いて「危ない!危ない!」と叫ぶや斉の国の問題点を具体的に挙げ、今すぐこれらの問題を解決しないとこの国は滅ぶだろうと言いました。

これを聞いた宣王はしきりにため息をついて鐘離春の諫言(かんげん…戒め)を聞き入れ、そればかりか斉国の繁栄をこの智慧と勇気のある女性に導いてもらおうと彼女を王妃にしたのでした。

(第7巻)孽嬖(げっぺい)伝

この巻には周の末代皇帝・幽王の后で、笑うことがなかったという褒姒(ほうじ)の話が入っています。

『列女伝』が後世に与えた影響は大きく、中でも息子の教育のために住まいを3回換えたという「孟母三遷」の話はよく知られています。