前漢【皇帝の時代別による解説と歴史地図・年表】

前漢

前漢秦王朝の次の統一王朝で、高祖・劉邦項羽との戦いを制して興した国です。武帝時代に黄金期を迎えた後は徐々に衰退し、最後は外戚の王莽に権力を簒奪されて滅亡しました。

※上の画像は漢の宮中を描いた絵。

前漢とは

前漢(ぜんかん…B.C.206~A.D.8)は、高祖・劉邦による漢王朝建国から王莽によって滅亡するまでをいい、王莽の興したを滅ぼして光武帝が再興した漢王朝後漢といいます。

中国では前漢を西漢、後漢を東漢と呼ぶのが一般的ですが、それはそれぞれの首都の場所にちなみます(前漢首都の長安は、後漢首都の洛陽の西にある)。

劉邦の興した前漢王朝は高祖・劉邦が亡くなると、権力は妻・呂后とその一族に簒奪され、その後文帝・景帝の安定した時代を経て、武帝による前漢黄金期を迎えます。武帝亡き後は、若くして亡くなった天才将軍霍去病の異母弟・霍光による執政が行われますが、その死後霍一族は滅ぼされ、皇帝の親政に戻ります。やがて漢王朝は儒教色、特にその神秘思想に覆われるようになり、儒教による政治を唱える王莽にのっとられて滅亡しました。

前漢初期の地図
前漢初期の地図。
前漢中期の地図
前漢中期の地図。
年表
年表。前漢は秦の次、新の前の王朝です。後漢とは血縁が続いています。

前漢の建国期

劉邦
劉邦。

漢王朝を起こした高祖・劉邦が遊侠の親分のような身分から、大帝国の頂点に立っていく物語は、戦国期や三国志の時代と並んで中国史の花です。

ストーリーが面白いだけでなく、登場人物の一人ひとりの個性が際立ち魅力的です。中でも漢を興した劉邦は不思議な魅力を放っています。

劉邦には元々いずれ中国を統一してその帝王になってやろうなどという野心はなかったのに、あれよあれよと周りから推し立てられ、気が付いたら帝王になっていた人です。

だからこそ死の間際に、后の呂后が呼んだ名医が治療をしようとすると「自分のような身分の者が天下を取ったのは天意である。だとしたら死ぬこともまた天意だ。治療などして効くわけがない」と言ったのでしょう。

彼は野心満々のギラギラした英雄というより、時代の流れに身を任せ他力本願的に生きることで、冷静で客観的な観察眼を次第に養っていった人物に見えます。

といって知的なリーダーではなく、いつも汚い言葉で人を罵り臆病で非情でもあり、お金や美女にだらしない無頼の徒そのものです。

どこが取り柄かわからないのですが、部下に説教されれば素直にその言葉に従い、自分の非力を認め、自分が天下を取れたのは自分より優秀な部下に働いてもらったからだ、と決してうぬぼれることのない、その点で稀有な人物でした。

秦代末期の地図
秦代末期の地図。

秦末、沛県(はい…現江蘇省)の農民の子として生まれた劉邦(りゅう・ほう…?~B.C.195)は農業を嫌い遊侠無頼の徒だったといわれています。不思議な魅力を持ち、周囲には子分たちがいつも付き従っていました。こうした子分から後のそうそうたる武将が育っていきますが、最初は皆しがない身分の市井の若者でした。

やがて始皇帝亡き後の混乱の中で、陳勝呉広の乱が起きますが、これに呼応する形で劉邦グループも旗揚げします。

途中旧楚の貴族の流れをくむ項羽に合流してその下につきますが、やがて劉邦軍は秦の元々の領土の関所である函谷関をいち早く突破します。

函谷関
函谷関。
函谷関
函谷関。周囲が崖になっています。
関中の地図
関中は函谷関の西一帯のことです。

項羽軍団ではこの函谷関を突破した者が最終勝利者という暗黙の了解がありましたので、項羽親分の了解を得ずに勝手に抜け駆けをした劉邦に項羽は敵意を抱きます。

これに劉邦は恐怖しました。項羽の強さは天下無敵だったからです。

そこで二人は鴻門(こうもん…現陝西省西安市)という場所で会見します。劉邦が項羽親分に詫びを入れる場所としてセッティングされたのです。

鴻門の会の場面
鴻門の会の場面。

項羽の軍師・范増はここで劉邦の命を奪うべし、さもなければこの先項羽に目はないと、劉邦暗殺を項羽に促すのですが、情にもろいところのある項羽はそれをしません。

そのスキに劉邦はすたこら逃げてしまいました。

これが「鴻門の会」という、項羽と劉邦の覇権争い中の名場面です。

そして歴史を後から振り返った時、この場面こそ将来の覇者は項羽なのか劉邦なのか雌雄を決定した瞬間でした。

ここで勝負の流れは一気に劉邦に向かい、やがて項羽は四面楚歌の中、落ち武者となって自刎することになります。

こうして漢王朝が樹立します。もともとヤンチャ系の集団ですから政治の運営なんてまったくのシロウトです。どうやって政権を作ったのか。

劉邦軍には蕭何という元秦の地方役人がいました。役人としての手腕は確かで中央政府に呼ぼうという声もあったくらいです。

秦末という激動の時代に、蕭何は顔見知りだった遊侠無頼の劉邦と交流を深め、あれよあれよという間に戦いの渦の中に巻き込まれていきました。

劉邦が戦いに明け暮れている間、蕭何は劉邦の本拠地で兵站(食糧や軍需物資の調達)を受け持ち、これを終始滞りなく進めて劉邦の勝利に大きな貢献をしました。

劉邦軍が秦の宮殿に入った時、蕭何は財宝など目もくれずに秦の行政関係の書類を持ち出し、これが新国家を運営する際おおいに役立ったといわれています。この時もし蕭何が持ち出していなかったら、その後項羽軍が宮殿に火を放っていますので、国家運営に支障をきたしていたかもしれません。

兵站はいくさの命、前政権の行政書類は国家運営の肝、こうしたことをきちんとやり遂げ、先が見えた蕭何畏るべしです。

そしていくさそのものには参加しなかった蕭何を尊重し続けた劉邦もやはり優れた将軍というべきで、ただのヤクザもんではありませんでした。

漢の国家体制は秦のような完全な中央集権とは異なり、戦いに功績のあった武将にはそれなりの国土と王の称号を与えました。いわば漢王朝は彼らと財力や権力を分け合ったのです。

大きな戦いの後の論功行賞として当然だったかもしれませんが、漢王朝の政権基盤はもろくなる可能性があり、これを感じ取った高祖・劉邦はその後自ら戦いの先頭に立って、王にした韓信や黥布などかつての盟友を次々と滅ぼしていきました。

呂后の時代

高祖・劉邦が亡くなると、呂后との間の息子が即位して恵帝となりました。

この若き皇帝は父にも母にも似ず心優しい人柄でしたが、皇帝の器ではありませんでした。

それは父・劉邦が最もよくわかっていて、側室の戚夫人との間の男子・如意を二代目に立てようとしましたが、呂后が劉邦の腹心・張良に相談して奇策を立て、劉邦亡き後は無事自分の息子を皇帝につけることができました。

呂后は如意を皇帝に立てようと画策した戚夫人を許さず、無残な姿にしてこの命を奪うと、それを見た恵帝は朝務を続ける気力を失い、若くして亡くなりました。

恵帝には子供がいなかったので、呂后は女官の子供を利用して3代目、4代目になる幼帝を立て、その後ろで呂后自身が権力を握りました。

やがて呂后の一族が前漢王朝を乗っ取る形で権勢をふるうようになりましたが、呂后の死とともに呂家一族全員が滅ぼされました。

呂后はその残酷さから中国三大悪女の一人と呼ばれていますが、残酷さは朝廷の外に出ることなく、呂后の時代は民が落ち着いて仕事に励むことのできる良い時代だったといわれています。

文景の治

呂后とその一族による嵐が去った後、次の皇帝を誰にするかというのは差し迫った大問題でした。

劉邦の血を引く人間はいるものの、その周囲を調べて慎重に選ばないと、呂后時代のように外戚に権力を奪われてしまいます。

そこで代王として封じられていた劉邦の実子・恒に白羽の矢が当たるのですが、その理由は恒の母親(劉邦の側室)の一族が人間的になかなか立派だと認められたからです。

こうして代王恒が漢王朝第5代皇帝の座につき文帝となります。

文帝の治世は仁政といわれ、農民を疲弊から救い、朝廷自らは質素を旨とする政策が取られました。文帝とその子の景帝の時代は漢王朝が激動を脱して国家を安定、発展させた時代で「文景の治」と呼ばれています。

武帝時代

武帝
武帝。

文景の治の後登場するのが、漢の黄金時代を作った第7代皇帝の武帝です。武帝は景帝の9番目の王子でしたが、長男を差し置いて即位できたのは、後宮にうごめく祖母、伯母、母など女性軍団の力でした。

「あの人の息子が皇帝になるなんて許せない!」という感情が巡り巡って9番目の王子・劉徹(武帝の名)を皇帝に押し上げました。

16歳で即位した武帝はその後54年の長きにわたって漢を治めました。

彼の治世において最も目覚ましい成果としては、それまで北方の軍事大国・匈奴に押さえられていた漢が、軍事天才である将軍たちによって匈奴を押し返して軍事的優位に就くとともに、匈奴の弱体化に伴って西域…シルクロードの国々…との交流が始まったことが挙げられます。

武帝の時代に、文明発祥の地であるユーラシア大陸の東と西は出会ったのでした。

武帝の朝廷では中国史を彩る物語がいくつも生まれました。

天才将軍である衛青やその甥・霍去病は、衛青の姉であり、霍去病の叔母である衛子夫が武帝の寵愛を受けたことで、漢の朝廷に召されました。

衛子夫・霍去病の母・衛青の母親は奴隷の身分で、夫の違う子供が4人いたのですが、それぞれが后・丞相(首相)の妻・将軍などそうそうたる身分に上りつめました。

しかも衛青も霍去病も民間から朝廷に入って匈奴との戦いに挑むや、それまでの漢の将軍がなし得なかった対匈奴大勝利を収めて、東北アジアにおける軍事勢力地図を一変させてしまったのです。

特に20歳そこそこの霍去病は23歳で早世するまでに、軍事強国の匈奴相手に連戦連勝。彼が亡くなると武帝は自分の陵墓のすぐそばに霍去病の墓を作ってこれを哀惜しました。

衛子夫の長男はやがて皇太子となるのですが、後に権力争いの陰謀に巻き込まれ母子ともに自害。この元皇太子が亡くなる前に蟄居先で彼の子供が生まれ、そのまた子供、つまり元皇太子の孫で武帝のひ孫は刑務所や民間で密かに育てられたといわれます。

この子供は長じて第9代宣帝となり、こうして奴隷だった衛家は皇帝まで出したのでした。

対匈奴戦では李陵という悲劇の武将も生みました。彼をかばった希代の歴史家・司馬遷の悲劇と『史記』というきわめて優れた歴史書も生むことになりました。

匈奴との戦いを有利に運ぶために、武帝は張騫という役人を西域に派遣するのですが、当時としてはまさに月旅行のようなこの過酷な冒険において、張騫は13年の歳月をかけて西域の姿を武帝に報告し、それによって西と東の正式な交易が生まれました。

霍光時代

武帝が亡くなると第8代皇帝の昭帝が即位します。まだ8歳でした。武帝は霍去病の異母弟である霍光ら3人の将軍に後事を託しました。霍光は霍去病の引きで朝廷に入ったのですが、実直な人柄で武帝の信任を得ていました。

幼い昭帝に代わって国のかじ取りを任されたわけですが、やがて権力闘争が始まり、霍光はその中で実権を握っていきました。

昭帝が後継ぎを持たずに若くして亡くなると、霍光は民間にいた衛子夫の長男で元皇太子の孫を宣帝として即位させます。当時18歳くらいの若い皇帝でした。

霍光はその際政治の実権を宣帝に返そうとしますが、民間で育ち政治を知らなかった宣帝はそれを断り、霍光の生前は彼に政治を任せました。

宣帝にはすでに許皇后がいましたが、許皇后はのちに急死し、霍光の娘が嫁して皇后となりました。実は許皇后は霍光の妻によってトリカブトの毒を盛られて亡くなったのです。このことは後に発覚しました。

宣帝は霍光の生前は彼を尊重し波風を立てませんでしたが、霍光が病死すると霍一族の勢力を削いでいくようになりました。

亡き許皇后との間の子供を皇太子とし、霍皇后との間の子供は皇太子にしなかったことをはじめ、霍一族の特権を次々に奪っていきました。

それに耐えかねた霍一族が謀反を企むと一族を滅ぼし、こうして宣帝の親政が始まりました。

民間で育っていた宣帝は、遊侠を好むと同時に儒教も学んでいたといわれますが、知恵もありヤワな皇帝ではなかったのです。

儒教の時代

宣帝が亡くなると、その子・元帝が立ちました。宣帝は政治の手段として法律と儒教の教えの両方を用いましたが、元帝は儒教に偏りました。この時代そのものが儒教の神秘思想に染まっていたのです。

当時の丞相が春先、町を歩いていて乱闘に遭遇してもこれは気にせず、牛が舌を出してあえいでいるのを見ると非常に気にかけました。

なぜなら春なのに牛が舌を出してあえぐような暑さであるのは陰陽が乱れているからであり、陰陽の乱れは丞相としての職務の重大事だったのです。

このように天意が自然を通して人間に伝えられる…という儒教の教えは、当時の人々にとって非合理なことではありませんでした。紀元前30~50年頃の話です。

こうして前漢も終わりに近づくと、時代は儒教色、特にその神秘思想に染まっていきました。

そしてこのことも、儒教中心の社会を作ろうとした王莽の登場、ひいては前漢の滅亡を招いたともいえます。

王莽の登場と前漢の滅亡

第11代元帝の皇后は元后と呼ばれますが、王という家の出身で、やがてこの王家が皇帝の外戚として権勢をふるうようになりました。

王莽は元后の甥で、第12代成帝末期に大司馬という高い地位に就きました。

第13代哀帝が亡くなると、元后は当時9歳の平帝を立てて元后が朝廷に出向き、王莽が摂政となりました。

王莽は密かに平帝を亡き者とし、自らを仮皇帝と称し、人々には摂皇帝と呼ばせました。

平帝の皇太子としては2歳の幼児を擁立しましたが皇帝にすることはなく、それからまもなく、天命が王莽に下ったという儒教の神秘論にのっとったしるしを各地ででっちあげて皇帝の地位に就きました。ここに前漢は滅び「新」王朝となりました。

漢代の制度・経済

漢代の制度は「郡国制」と呼ばれますが、これは秦の中央集権体制である「郡県制」と、一族や建国の功労者を王として各地に封建する体制を組み合わせたものでした。つまり国内に、中央政府から直接役人が派遣されて治める地域と、江戸時代の大名が治める藩のような地域が混在していたのです。

この複雑な支配は後に「呉楚七国の乱」という呉王、楚王などによる反乱を招きました。景帝によりこの乱は平定され、この後漢王朝は基本的に郡県制…中央政府による直接支配となっていきました。

財政としては、匈奴との戦いを繰り返し財政がひっ迫した武帝時代から、塩と鉄に対して専売制度を実施しました。塩は人体に不可欠ですが、中国は海岸線が短く、塩の生産と流通は大きな問題でした。鉄は農機具として不可欠であり、こうして塩と鉄の生産者や販売業者は巨万の富を得ていました。国による塩と鉄の専売は、民間における利益を国庫に吸い上げるためのものでした。

武帝を継いだ昭帝の時代には朝廷で「塩鉄会議」というものが開かれました。儒者は政府が専売制度を採るのは民の利益を奪うことだと反対し、政権担当の役人は国家財政の重要性を説きました。この結果は儒者側に軍配は上がりましたが、国は財政の観点から専売制度をやめることはできませんでした。

この会議の記録は今も残っていて読むことができます。