項燕の生涯【楚の大将軍としての活躍と優秀な一族】
項燕(こうえん)は古代中国・戦国時代の大国・楚の名将です。秦王(後の始皇帝)が放った若武者・李信(りしん)の軍を敗走させましたが、翌年歴戦のつわもの・王翦(おうせん)に敗れ、項燕はこの戦いで命を落とし、楚は滅亡しました。項羽とともに反秦の旗揚げをした項梁は項燕の子、項羽は孫に当たります。
項燕とは
項燕(生年不詳~BC.223)は戦国時代の楚の将軍です。前漢の高祖・劉邦と覇を争った項羽の祖父であり、項羽とともに秦に対して反旗を翻した項梁の父に当たります。項家は楚代々将軍職を継いだ武門の名家でした。項燕の将軍としての名場面は戦国末期、秦の若大将・李信との戦いや老練な王翦との戦いにあります。緒戦に勝ち己を過信した若き李信の一瞬の油断を見逃さず、三日三晩追撃するというファイトでこれを討ち破り、翌年の王翦との戦いでは敗れますが、諦めず公子を立てて最後まで戦い抜き、最後は戦死だったとも自刃だったともいわれています。断じて諦めないこの戦いぶりは楚の民衆の誇りとなり、始皇帝亡き秦との戦いで、項燕の名はシンボル的に使われました。
項一族
項一族は代々楚(そ…BC.1030~BC.223)の将軍職を受け持ち、項(河南・項城)に封じられたので「項」という姓になりました。いわば楚という国の名門貴族です。この一門から項燕という名将が生まれ、活躍しました。
秦末の武将・項梁は項燕の息子です。
項梁の時代、楚はすでに秦に滅ぼされ国家としては存在していませんでした。
楚の遺民たちの秦に対する憎しみや、対秦戦争で戦死した項燕将軍への追慕の情には深いものがあり、項梁は項燕将軍の名声を頼り、項燕の直系であることを強調することで、秦を打ち倒すための軍勢を集めました。
秦滅亡後、劉邦と覇を争った項羽は項燕の孫、項梁の甥です。父を早くに亡くした項羽は項梁によって育てられ強力な武将に成長しました。秦にとどめを刺したのも項羽です。秦に滅ぼされた楚は、項羽によって仇を討ったといえるかもしれません。
さらに秦滅亡の引き金を引いた陳勝・呉広の乱で、呉広は当初まったく血縁関係のない「項燕将軍」を名乗って戦いました。民衆の中にあの強かった項燕将軍はまだ生きているという伝説が残っていたからです。
項燕と秦との戦い
さてこの名将・項燕は戦国末期、楚・秦の攻防戦に登場します。
秦王・政、のちの始皇帝が若い李信(生没年不詳)将軍に「楚を攻め滅ぼそうと思うが、将軍ならどのくらいの兵士を必要とするか?」と尋ねました。李信は「20万あれば十分です」と自信たっぷり答えました。
始皇帝は歴戦の勇者・王翦(生没年不詳)将軍にも同じことを尋ねると王翦は「60万は必要です」と答えました。
そこで秦王は「王翦は老いぼれた。若く勇敢な李信の判断の方が正しいに違いない」と考え、李信と蒙恬(もう てん…?~BC.210)を将軍として、20万の兵とともに楚討伐に向かわせました。
この対楚戦で李信は平輿(へいよ…河南省の汝南)を攻め、蒙恬は寝丘(しんきゅう…河南省固始)を攻めてどちらも大勝しました。
そこで李信は兵を引き上げ、西に向かって蒙恬と城父(じょうほ…河南省宝豊)で会合をしました。
その時三日三晩不眠不休で追撃してきた項燕率いる楚軍が、緒戦の勝利に慢心していた李信軍を撃破し、秦軍は敗走しました。
これを聞いた秦王は激怒し、すっかりやる気を失って故郷に隠居してしまった王翦将軍の元を訪れ、平身低頭王翦の出陣を願いました。王翦は「60万の兵をつけて下さるなら」と言って引き受けました。
秦王は全秦軍といえる60万の兵を王翦につけ、自ら灞水(はすい)のほとりまで見送ったといいます。こうして翌年王翦率いる秦の大軍が楚に攻め込むのですが、迎え撃つ楚の将軍はこの時も項燕でした。
王翦の戦法は、戦場に陣地を設営しその塁壁を固めて守りに徹するというもので、楚軍の挑発にも乗らず兵士を存分に休ませておきました。
攻めにいって守りに徹するというのは面白い戦い方ですが、我慢比べの末しびれを切らした楚軍が包囲を解いて撤退を始めると、充分休んで鋭気を養った王翦軍はここぞとばかりに襲いかかり、楚軍を大いに打ち破りました。
撤退する軍というのは士気が落ちるのだそうですが、これは老練な王翦将軍の作戦勝ちでした。
この敗戦で楚王は捕虜になりましたが、項燕はこの敗北にもあきらめず楚の公子・昌平君を王として擁立し抵抗を続けました。
翌BC.223昌平君は戦死、項燕は自殺に追い込まれて楚はここに滅亡しました。項燕の死については自殺説と、戦死説があります。