儒家の歴史と代表的な人物

儒家

儒家とは儒教のことで、諸子百家の一つとしては「儒家」と呼ばれる、孔子の教えに始まる体系的な思想や宗教のことです。儒家の代表的な存在としては孔子の他に孟子荀子がいます。

※上の写真は孔子を祀った孔廟。

儒家とは

儒家とは、孔子の教えに始まる体系的な思想や宗教、すなわち儒教のことで、諸子百家の一つとしては儒家と呼び、学術・思想の面からは儒学と呼びます。孔子は仁・義・忠・孝・智・信・恕・譲・恭・敬・悌などの徳目を尊ぶことを呼びかけ、中でも特に仁を重んじました。孔子は門人に、知識を学び、教養を身につけた上で、それらを昇華して人格的な高みに立ち、政治にも関わって理想的な社会を作っていくよう求めました。孔子一門からは後に孟子と荀子が出て、荀子一門からは韓非子李斯など法家が現れました。秦朝で儒家は焚書坑儒の難に遭い、前漢武帝は儒教を重んじ、その後儒教は官僚の必須学問となりました。宋代に儒教から朱子学が現れ、元以降の科挙では朱子学が重んじられました。20世紀初頭の清朝の滅亡と共に儒教は力を失っていきました。

孔子以前

儒と呼ばれるものは孔子以前から存在していました。

需は雨と而から成る会意文字で、雨は文字通り雨、而は髪を剃った坊主頭の人で、「需」という漢字は、雨ごいをする巫祝(ふしゅく…神に仕えて儀式を執り行う人・シャーマン)を意味するといわれます。

「儒」は人を安らかにして教え導いていくという意味で、この文字の意味からすると、孔子以前に存在した「儒」は「葬儀に携わる巫祝」だったと考えられています。

諸子百家の一つ・墨家は、当時の儒について「金持ちの家で葬儀があると駆けつける葬儀屋」と見ていました。

要するに民間にいる拝み屋さんのような存在で、死者と関わる葬儀があればそれを取り仕切って生活していた人々です。

この巫祝のうち知識もあり人格も高い人々は、地元の教師の役割を果たしていたと考えられています。

孔子

孔子はB.C.551に春秋時代の国で生まれました。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。魯は右上に位置しています。

父親の職業は農民とか武士とか諸説あります。

孔子の父は孔子が生まれた当時60代で、その後妻だったと考えられている孔子の母は10代。この母が上記した巫祝すなわち儒でした。

孔子が誕生してまもなく父は亡くなり、異母きょうだいごと母の実家で育ったようです。

母方の家は儒の家で、孔子は母方の祖父などから教育を受けたのではないかという説もあります。

儒は儀式をする人ですからそれなりの知識も持つ集団でした。

そうした環境の中、孔子は15歳の時に学を志し礼を学びます。

いわゆる「十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従えども、矩をこえず」(『論語』為政)です。

当時の礼とは、周王朝初期の文化規範…国の社会文化制度、祭祀の儀礼、上下関係、社会規範などのこと…つまり教養人として生きる基本のことです。

孔子は神話の中の聖王…、また周代文王などの政治を受け継ぎ、仁・義・忠・孝・智・信・恕・譲・恭・敬・悌などの徳目を尊ぶことを呼びかけました。

この徳目の中で最高のものは仁…すなわち他者への愛ですが、これは万民平等の愛ではなく、自分の家族を最も大切にするという差別的な愛で、墨家やキリスト教が説くものとは異なります。

儒家

やがて教養人としての孔子の名は人に知られるようになり、教えを乞う人が増えたため孔子は学校を開きます。孔子30代半ばのことでした。

こうして門人たちを教え導く中、孔子は教養人として人格豊かな儒・巫祝をめざして修養しました。

孔子以前の巫祝を「儒」と呼び、孔子から始まる儒を「儒家」と呼びます。

孔子は門人にたびたび「君子の儒となれ、小人の儒となるなかれ」と教えています。

小人(しょうじん)の儒は教養の乏しい儒であるとともに、孔子は知識をひけらかすだけの儒もこう呼んでいます。

孔子が求めたのは、知識を学び、教養を身につけた上で、それらを昇華して人格的な高みに上った存在としての儒でした。

孔子は西周のような理想的な社会を実現するために、政治にもかかわっていくことを目指しました。

これが「修己治人」です。己を修めるととも人を治めて理想社会を作っていくのです。

こうして孔子の門人たちは各地で仕官し、政治に参加するようにもなっていきました。

孔子の晩年、戦国時代の初期には儒家はかなり影響力のある精神的集団になっており、孔子は弟子たちにより聖人化されていきました。

孟子と荀子

孔子が亡くなった後、孔子一門から出た儒家としては孟子(B.C.372~B.C.289)と荀子(B.C.313?~B.C.238)が有名です。

孟子は儒教の徳目のうち「仁と義」を尊び、仁義を持つ王による徳治と性善説(人は生まれながらに善である)を主張しました。

一方荀子は「礼楽」(礼節と音楽)を尊び、性悪説(人は生まれながらに悪である)を唱え、王が定めた礼楽によって民を矯正する礼治説を主張しました。

荀子の弟子からは法家(法によって国を治めることを主張する学派)の韓非子(B.C.280?~B.C.233)や始皇帝に丞相として仕えた李斯が出ました。

焚書坑儒

秦の始皇帝は強大な権力を振い、「焚書坑儒」(儒家の書物を含んだ書を焼き、儒家の学者などを穴埋めにしたこと)を行ったことでも有名です。

書を焼かれ、穴埋めにされたのは儒家だけではありませんでしたが、この行為を最初に主張した淳于越は反儒家の学者でした。

この行為に始皇帝の長男・扶蘇は「学者たちは皆孔子を手本にしているのです。こういうことをすれば天下は混乱するでしょう」と父を諫めますが、始皇帝はこれに立腹、扶蘇を上郡の地に流して蒙恬将軍に監督させました。

人々から敬愛されていた扶蘇の流刑はやがて秦滅亡の遠因となります。

のちに唐の玄宗皇帝は、生き埋めになった儒者を憐れみ、跡地の坑儒谷に廟を建てて追悼しました。

四書五経

儒家の思想を表す主な書物を「経書」といいますが、「経書」の中で、「大学」「中庸」「論語」「孟子」を「四書」といいます。

「五経」とは「周易(しゅうえき)」「書経(しょきょう)」「詩経(しきょう)」「礼記(らいき)」「春秋(しゅんじゅう)」のことで、前漢の武帝はこの五経を専門に研究する「五経博士」を置き、五経それぞれの研究を博士一人ずつに担当させました。

こうして儒教は国家の官僚をめざす者が必ず学ぶべき学問となり、以後清朝が滅びるまで中国の知識人たちの主たる思想になりました。

後漢以降は経典に対する解釈学が盛んになっていき、唐代には解釈学の集大成『五経正義』が作られました。

朱子学の登場

六朝(りくちょう…222~589)以降になると仏教と、道家の教えを元として作られた民間宗教の道教が儒教に対抗する勢力になっていきます。

こうした中で宋代(960~1279)になると、儒家思想を革新する動きが出てきました。

これが南宋の朱熹(しゅき…1130~1200)によって大成された「朱子学」です。

朱子学はまた「宋学」「道学」「性理学」などと呼ばれます。

朱子学は「五経」よりも「四書」を重んじました。また仏教や道教を異端として退けながらも哲学的な影響を受けたといわれます。

朱子学は、修養して自分の道徳性を高めることを重視し、政治にかかわる士大夫(したいふ…北宋以降の役人・地主・文人の三を兼ね備えた者)の思想や教養の基盤となり、日本など周辺国にも影響を与えました。

また元代以降の科挙、すなわち高級官僚登用試験においては、朱子学的解釈でなくては合格できなかったため、近世において中国社会に影響を与えたのは朱子学でした。

科挙が廃止され、辛亥革命によって清朝が滅びると、王朝と結びついた経学…四書五経の時代は終わり、朱子学も力を失っていきました。