戦国四君【古代中国で活躍した4人の武将の物語・地図・年表】

戦国四君

戦国四君とは、戦国末期に出身の身分の高い4人を指します。いずれもおおぜいの食客を抱え、国をまたいで活躍しました。

戦国四君とは

戦国四君は、孟嘗君(斉)・平原君(趙)・信陵君(魏)・春申君(楚)を指し、中国戦国時代末期に、戦国七雄の国々に現れた政治家で、それぞれの国を超えて活躍しました。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。

この○○君という名前の中にある「君」は何を意味するかというと、一つは王族であること、もう一つは有力な武将や宰相であることです。

孟嘗君・平原君・信陵君は王族であり、春申君は将軍であり宰相でもありました。

彼らは要するに高貴な人であったわけですが、面白いことに遊侠の親分という側面もありました。大勢の食客・つまり居候を抱え、いざという時は彼らの知恵や力を借りたのです。数千人という食客の中には柄の悪い人物もいましたが、そうした人物も含めてこれら食客は四君に対していわゆる任侠的な信義を捧げ、一方四君の方は玉石混交の何千人もの人々を己の屋敷で養うという、並みではない太っ腹・包容力がありました。

彼らの生年はみな未詳ですが、没年はそれぞれ、孟嘗君(~B.C.279?)・平原君(~B.C.251)・信陵君(~B.C.244)・春申君(~B.C.238)で、始皇帝による統一(B.C.221)に先立つこと20~60年ということになります。

年表
戦国四君は戦国時代に活躍しました。

孟嘗君

戦国四君の中では最も有名で、いくつもの面白いエピソードがあります。

彼の父親は斉の王家出身で、息子が40人以上いました。孟嘗君の生母は身分が低かった上に、彼は5月5日生まれでした。斉には5月5日生まれの子供は背丈が門の扉の高さになると親をあやめるという俗信があったので、赤子のうちにあやうく命を奪われるところでした。ある日父が、母がこっそりと育てた孟嘗君の姿を目にして立腹しますが、孟嘗君は「人の命は天から授かるのですか、それとも門の扉から授かるのですか」と問いかけて父親を絶句させました。孟嘗君はやがてその賢さが周囲に知れるようになり、父親もついには彼を後継ぎにしました。

聡明で人心掌握にたけた孟嘗君の元には大勢の食客が押し寄せ、中には元泥棒とか動物の鳴きまねが特技だとかいう者までいました。

秦の昭襄王(始皇帝の曽祖父)は孟嘗君の名声を聞いて関心を持ち、ある時孟嘗君が斉の使者として秦を訪れると、彼を宰相に抜擢しようとしました。王の側近が「彼は有能ですが、結局は斉の人間です。秦のためには危険でしょう」と諫めると、それもそうだと命を奪うことにします。それを察知した孟嘗君は、王の寵姫に助けを求め、寵姫が「王への贈り物の毛皮を私にもくれるなら」というので、かの泥棒に贈り物を盗ませて寵姫に渡し、彼女の助けで秦から一目散に逃げ出しました。

秦から逃げるには、函谷関を突破しなければなりません。函谷関は一番鶏が鳴かないと門を開けない決まりでした。そこで鳴きまねのうまい食客が登場して、無事秦から脱出することができました。

孟嘗君は秦から戻ると斉の宰相になります。やがて孟嘗君の存在がけむったくなった斉王は彼を排除しようとし、これを察知した孟嘗君は魏に亡命します。魏では彼を宰相とし、秦・趙・とともに斉を攻撃し、斉王は逃亡先で命を失いました。

斉では新しい王が立ち、再び盛り返してきましたが、孟嘗君は元々の領地・薛(せつ)に戻って中立の立場を取り、斉との関係も改善しました。

孟嘗君の時代から200年ほど後に、『史記』を書いた歴史家・司馬遷は薛を訪れ、この地の気風の荒々しさを感じ取りました。司馬遷はその理由として、かつて孟嘗君がここにおおぜいの食客を養い、その中には侠客など荒くれ者も多かったから、その影響が残っているのだろうと書いています。

平原君

平原君は趙王の弟で、趙の宰相にもなりました。平原君にも数千人の食客がいました。

B.C.259に秦の白起将軍が趙を攻め、趙の若き将軍・趙括を討って、降伏した40万の兵を生き埋めにした後、首都邯鄲(かんたん)を包囲しました。

趙王は平原君に楚に救援を求めに行くよう命じ、平原君は食客の中から優秀な者を連れていくことにしました。その時、それまで平原君にはまったく知られていなかった食客の一人・毛遂(もうすい)が自薦して、自分は嚢中の錐(才能が際立って高い人物)だといい、強引に連れていってもらいます。

平原君と楚王の話がなかなかまとまらないと、毛遂が立ち上がり、楚王を半ば脅すようにして説得して趙への救援を引き受けさせました。楚王は、同じく戦国四君の一人・春申君に軍を率いて趙に救援に行くよう命じました。魏も四君の一人・信陵君に軍を率いさせて救援に向かわせ、この動きによって、秦は邯鄲への包囲網を解き撤退せざるを得なくなりました。

信陵君

信陵君は魏王の弟で、人柄が良く、彼にも数千人の食客がいました。平原君に趙への援軍を頼まれた際、魏王は秦に脅されて救援をやめましたが、信陵君は平原君の妻の弟で、断るわけにはいかず、玉砕覚悟で食客のみを率いて趙救援に向かうことにしました。

出発前に食客の一人で70の老人に別れの挨拶をすると、この老人が秘策を授けてくれました。それはこっそり軍の兵符(軍隊を任せるという意味を持つ割符)を盗み出して、魏の正規軍を奪い取れというものでした。魏王の寵姫は以前信陵君に父親の仇を討ってもらったことがあり、これに恩を感じ、この兵符を盗んでくれました。

この後信陵君は正規軍の将軍の元に行って兵符を見せ、正規軍を引き渡すよう求めると、将軍はこれを怪しんで渡そうとはしません。すると食客の一人で肉屋だった男が包丁をふるって将軍の命を奪い、こうして信陵君は正規軍を我がものにし、趙救援に向かうことができました。

信陵君に教えを授けた老人・侯嬴(こうえい)は後に自ら首を刎ねて、事の始末をつけました。侠客の性情を持つ食客はこうして、自分という人間を信じ、養い、頼ってくれた者に命をかけて報いるのでした。

正にテロリスト・荊軻のごとき「士は己を知る者のために死す」男気の世界です。

春申君

春申君は楚の人で、頃襄王に仕えました。秦と対立が続いていた時、頃襄王の父・懐王が同盟を結ぶという名目で秦におびき寄せられ、そのまま拘束され、そこで頃襄王が即位しました。その後秦と楚は何度も戦いと和睦を繰り返しました。

その頃、春申君は使者として秦に行き、秦の昭襄王が白起に楚を攻略させようとしていることを知り、説得してそれを思いとどまらせ、楚と同盟を結ぶことに同意させます。

やがて楚は同盟のしるしとして太子完と春申君を人質として秦に送りましたが、その後はずっと二人を拘留し続けました。BC.263に頃襄王が重病となり、後継者争いが始まるため、春申君は太子を変装させて密かに楚に帰国させます。昭襄王はそれを知ると激怒しますが、宰相がとりなし、春申君も楚に帰ることができました。

まもなく頃襄王が死去、太子完が即位して考烈王となりました。新王は春申君の功をねぎらって宰相に任命し、広大な土地も与えられて、春申君はおおぜいの食客を抱える実力者となりました。

彼は晩年、姦計に引っかかって命を落としました。

李園という者が美女の妹を春申君の側室にし、懐妊すると、彼女は身ごもったまま兄の指図で考烈王の側室になります。子供がいない考烈王に子が生まれれば、次の王となり、春申君が楚の王室を乗っ取れるというもくろみです。そう囁かれて春申君はその気になり、美女は子を産んで王妃となり、李園が権勢を振るうようになりました。やがて李園は春申君が邪魔になり命を狙います。春申君の食客はその動きを察知して、早く李園を始末するよう春申君に勧めますが、李園を軽く見ていた彼はそれを聞き流し、考烈王が亡くなった直後に一族もろとも暗殺されてしまいました。

司馬遷は春申君について「若い頃の秦での活躍には英知の輝きがあったが、晩年は耄碌したというより他はない」と辛らつな言葉を残しています。