焚書坑儒の解説【秦の滅亡を早めた始皇帝の悪行】
焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)は秦の始皇帝の悪行の一つとして有名です。焚書は秦王朝の制度をめぐる議論に端を発し、丞相・李斯の提言で行われました。坑儒は、始皇帝が切望した不老不死の仙薬作りをしていた方士の逃亡が原因で、儒者だけでなく方士たちも生き埋めにされました。
目次
- 1. 焚書坑儒とは
- 2. 焚書
- 3. 坑儒
- 4. 焚書坑儒と扶蘇の失脚
- 5. 焚書坑儒と毛沢東
焚書坑儒とは
焚書坑儒とは、秦の始皇帝時代に起きた事件で、始皇帝の命令によって「焚書…書物を焼き捨てる」と「坑儒…儒者を生き埋めにする」が行われた事件を指します。焚書と坑儒は同時に行われたわけではなく、博士の一人が郡県制度の廃止と封建制度の復活を進言したことをきっかけに、丞相・李斯の提言によってまずは焚書が行われました。次に、不老長寿の薬を研究させていた方士の逃亡をきっかけに、方士や儒家など460人余りを生き埋めにしてその命を奪いました。人望のあった始皇帝の長男・扶蘇は始皇帝を諫めましたが、かえって怒りを招き、扶蘇は北方に追いやられてしまいます。このことも秦滅亡の遠因の一つになりました。
焚書
焚書坑儒は同時に行われたわけではありません。まず焚書が行われました。
BC.213年といいますから、秦が全国を統一してから8年ほど経った頃のことです。
まだ国家の基礎はさほど安定していませんでした。
その頃、博士である淳于越(じゅん うえつ)が封建制度の復活を進言しました。
秦は「封建制度」、つまり「諸侯が君主から与えられた領地を自分で治める」というその時代の伝統的な制度を採らずに「中央集権制度」、つまり中央政府が官僚を各地に派遣し、その官僚によって各地を治めるという制度を採用しました。地方には旧楚のようにこの制度になじめない所もありました。
そこで淳于越は「殷や周は千年以上も王朝が続きました。これは親族や功臣を諸国に封じて、王朝の藩屏(はんぺい…王室の守護)としたからです。ところが秦ではこうした制度がなく、親族や功臣といえどもただの庶民となってしまっています。これでは王室を末永く守ることができません」と進言したのです。
この進言を聞いた始皇帝は臣下に議論をさせました。
すると丞相の李斯(り し)が「学者どもは君主にたてつくことが名誉だと思って、いにしえのやり方を盾に君主を誹謗するのです。これを放っておいては君主の威厳は衰え、小人どもが徒党を組みます。私は、秦の記録や医薬、占い、農業の本以外、しもじもが持っている詩経や書経、諸子百家の本はすべて焼き払うべきだと思います」と進言し、始皇帝はこれを認めました。
こうして天下の書物が集められ、ことごとく焼き捨てられました。これが焚書です。
坑儒
始皇帝は天下統一を果たすと、不老不死の夢にのめり込み、朝廷には不老長寿の仙薬を作るための方士(ほうし…不老長寿をめざしている修行者。のちに道士と呼ばれる)が多数仕えていました。
ある日、侯生、蘆生という方士が「始皇帝は横暴だ。刑罰で人をおどすことを楽しんでいる。臣下はびくびくして、帝におべっかしか言わない。天の星の気をみる方士が300人もいるのに、帝に直言しようという者はいない」など始皇帝をそしる言葉を残して朝廷から逃げ出しました。
始皇帝は二人が逃げ出したと聞くと、「方士たちは金(きん)で仙薬を作ると言っていたのに、逃げ出す者がいる。潤沢な金(かね)を渡しておいたのに方士どもは仙薬ひとつ作ることができず、かえってわしを誹謗している」と激怒し、妖言を言いふらす罪で方士や儒家など460余人をつかまえると咸陽の都で穴埋め、つまり生き埋めにしました。
これが坑儒です。ちなみに「坑」とは「生き埋めにして命を奪う」という意味です。
焚書坑儒と扶蘇の失脚
始皇帝の長男・扶蘇は「国造りは緒についたばかりで、遠方の民はまだ秦に帰順していません。法を犯した時の処罰がこのように厳しいと天下は乱れるばかりです」と始皇帝の行いを諫めました。
始皇帝はこれに立腹し、扶蘇を咸陽から北方の辺境の地に追いやり、蒙恬(もう てん…秦の名将)に監督させました。
焚書坑儒から数年、BC.210年に始皇帝は全国巡幸の旅の途中客死します。政権乗っ取りを図った始皇帝側近の宦官・趙高(ちょう こう)の謀略によって、それからまもなく扶蘇は自殺に追い込まれ、末弟の胡亥(こがい)が二世皇帝となります。しかし胡亥は趙高の傀儡でしかなく、彼もまた趙高によって自殺させられました。
人望のあった扶蘇を遠ざけることなく太子・後継者として立て天下に知らしめておけば、趙高の暗躍も起きず秦は順調に代を重ねることができたかもしれません。
そういう意味では焚書坑儒は秦滅亡の一因となったともいえるでしょう。
焚書坑儒と毛沢東
毛沢東は1958年の中国共産党8大2次会議の席で、秦の焚書坑儒に対して以下のような言葉を残したと記録されています。
「始皇帝の焚書坑儒が何だと言うのだ。彼はたった468人の儒者を生き埋めにしただけだ。われわれ共産党は46000人の儒者を生き埋めにした。
我々は民主派のメンバーと討論したことがある。『君たちは我々共産党を秦の始皇帝だと言うが、それは間違っている。我々がやったことは秦の始皇帝の百倍だ。我々を秦の始皇帝だ、独裁者だと罵るが、いずれも認めよう。惜しいことに君らは少々言葉がたりない。あの数字ではこっちで補充しなきゃならんだろうが。ハハハ』と」。
毛沢東による27年間にわたる中国統治において、数多くの政治運動が繰り広げられ、儒…「知識人」という意味も持ちますが…この運動で命を失った知識人は膨大な数に上り、始皇帝の坑儒の比ではありません。
その記録は或いは非公開、或いは不完全、或いは故意に破棄されており、正確な数字を出すことは永遠に不可能だと言われています。