客家の歴史と文化
客家(はっか)は中国の主要民族である漢民族の1グループですが、古代の漢民族が戦乱を避けて南下したことにその起源があるといわれています。勤勉さや教育熱心さから、優秀な人材を輩出しています。
※上の画像は伝統的な客家建築である福建土楼。
目次
- 1. 客家とは
- 2. 客家が注目される理由
- 3. 客家の特徴
- 4. 客家はいつ南にやってきたのか
- 5. 「漢民族 命」の客家精神
- 6. 客家文化・「土楼」
- 7. 客家のネットワークとエネルギー
客家とは
客家(はっか)とは、多民族国家・中国の一民族名ですが実は少数民族ではなく、元々北方に住んでいた漢民族です。彼らは秦朝以降の長い歴史の中で、数回にわたって政治の中心地・中原(ちゅうげん…黄河中下流域)における戦乱などを避け集団で中国南部に流れてきた人々で、「客家」は「よそもの」という意味です。
中国人は北方と南方とでは顔立ちや体格がだいぶ異なりますが、数百年以上自分たちだけで暮らし子孫を残してきた客家は、北方の外見を残している人が多いと言われます。またその言葉も、南方に住んでいながら南方の中国語とは異なり、古代北方の中国語の特徴を残しています。
客家の人口は本によってかなりばらつきがありますが、一説には大陸に8000万、海外に1500万と言われています。これに基づくなら合わせて約1億、大陸・台湾その他各地に散らばる中華民族の約7%です。
客家が注目される理由
「客家」という言葉が時に日本でも耳にするのは、中国や台湾、シンガポールの有名人に客家出身者が特別多いからです。たとえば中国大陸では、近年の中国経済の立役者・鄧小平を始め、中国革命の元老たち・朱徳や葉剣英がいます。台湾では親日家として有名な李登輝もそうですし、中華民国を作った孫文、その妻の宋慶齢、その妹で蒋介石の妻・宋美齢もそうです。シンガポールでは、世界有数の金持ち国を作り上げたリー・クワンユーもまた客家です。彼らはみな中国史にその名を残す人物です。中国で「客家…よそもの」と呼ばれる、主流からはずれた人々からなぜこんなにもスゴイ人たちが現れるのか…?元々は北方に住む漢民族だったというのであれば、彼らを漢民族の中で際立たせたのはその血以外の何によるものなのか…?
いろいろな意味で客家は好奇心をかきたてる存在です。
客家の特徴
客家はよそからの流れ者ですから当然流れ着いた土地の人からは白眼視されつまはじきに遭います。時には武器で襲撃されることもあったでしょう。
そこで彼らは人里離れた山間部などで彼らだけで固まって住み、生き延びるために団結し、勤勉に働き、子供たちにしっかりとした教育を施し、ふるさとである北方漢民族の古い文化と伝統を伝承し、誇り高く生きてきました。
こうして数百年あるいは千年以上が経ち、彼らは他の現代中国人とはやや異なる特徴を持つようになりました。
団結心・進取の気性・文化や伝統を守る・教育を重んじる・きわめて勤勉・政治への関心が高いなどです。こうしてざっとその特徴を並べるだけでもなかなか立派な民族であることがわかります。この中から上記したような有名人が出てくるわけですが、さもありなんです。
中国から他国に移住した人たちを「華僑」と呼び華僑は世界中にいますが、彼らは仕事としては一般に商売、特に飲食業を選びます。ところが華僑が客家の場合、特に東南アジアでは教師、軍人、警察、政治家などを選ぶ傾向があるといわれます。
私たち日本人のイメージでも華僑といえば中華料理店の経営者や貿易商ですが、客家、おそらくは二世以降でしょうが、中国大陸以外、特に東南アジアなどでは職業として教師や軍人、警察、政治家を選ぶというのはやはり独特な印象を受けます。士農工商で言えば華僑のイメージは「商」、客家は「士」のイメージです。
客家は「仲間を裏切らない」という定評があります。これも「士」のイメージですが、客家にリーダータイプが多いのもこうした資質と関係があるのかもしれません。
客家はいつ南にやってきたのか
北方に住んでいた客家が戦争や国の乱れ、食糧難などで南に移動した時期は全部で5回あったと言われています。
1回目は秦の始皇帝の時代です。全国統一のために南に派遣されていた北方の軍隊がそのまま南に残り、最初の「客家」になったといいます。
陶淵明(とう・えんめい…陶潜とも。晋末宋初の詩人)に『桃花源記』(とうかげん の き)という有名な文章があります。一人の漁民が迷い込んだ不思議な村の話です。山深い桃の花咲く里に住む人たちは、既に晋(しん…265~420年)の世の中になっているのにまだ秦(しん…B.C.221~B.C.206年)だと思い込んでいるのです。彼らの先祖は秦の始皇帝の時代に戦乱に追われてこの地にやってきたと漁民に話します。もしかしたらここに描かれている村人もまた先祖が北方から流れてきた客家だったのかもしれません。
2回目は五胡十六国の乱の時。
3回目は唐末。
4回目は南宋末。中国を支配したモンゴル・元に抵抗して広東や福建に流れ込み、ここはそのまま現代の客家たちの住む中心的な場所になっています。
5回目は明末清初です。この時客家は西の四川省に流れていきました。鄧小平はこの四川省の出身です。
この後も清代中期には規模の小さな移動があり、台湾などに流れていきました。今も台湾の人口の15%が客家です。
「漢民族 命」の客家精神
客家について書かれた文章を読むと強烈な漢民族ナショナリズムを感じます。
こうなった歴史的原因の一つが13世紀のモンゴルとの戦いです。この時客家側の中心人物・文天祥(ぶん・てんしょう)は救国を人々に呼びかけ、それに多くの客家人が賛同し、男も女も武器を手に戦い…そして敗れていきました。元(げん)の捕虜となった文天祥は獄中で「正気の歌」(せいき の うた)という漢詩を作ります。愛国の情に満ちたこの歌に感動した幕末水戸藩の藤田東湖(ふじた とうこ)は「文天祥の正気の歌に和す」という詩を作り、勤王の志士たちを鼓舞しました。
「漢民族 命」の精神はその後も脈々と残り、同じ異民族王朝である清朝に対して起こした反乱「太平天国の乱」の指導者・洪秀全(こう・しゅうぜん)も客家でした。
さらには清王朝の息の根を止めた孫文も客家です。
中国の歴史を読んでいると、古代あれほど偉大だった漢民族がなぜお金や権力など欲望にのみ執着するつまらない民族に成り果てたのだろうと不思議に感じることがあります。漢民族を偉大たらしめた極めて高い精神性が現代中国からは感じられないからです。
中国人自身が「もう純粋な漢民族はいない」と言います。元王朝と清王朝、さらには南下する北方の騎馬民族との混血で純粋な漢民族は消えてしまった、と。
もしかしたら南方の客家は、この消えようとする純粋漢民族の最後の貴重な一滴なのかもしれません。
客家文化・「土楼」
客家はどの地でも地元民から目の敵にされ、人の住まない辺鄙な場所にのみ安息の地を見出し、彼らだけで団結して暮らしました。そこから独特の文化が生み出されています。
その1つが「土楼」(どろう…「円楼」とも)です。円形にぐるりと取り囲んだ大きな建物で、そこでは数百人が住めると言われます。シマウマが外敵から身を守ろうと円形になっているのに似て、安心感の漂う魅力的な造形です。今も福建省ではこうした「土楼」を多数見ることができ、テレビドラマの舞台などに使われています。2008年に世界遺産に登録されました。
客家のネットワークとエネルギー
客家の人口は約1億、彼らの団結力は強く、同じ客家である・同じ出身であるということを信用の基盤にする行動習性を持ちます。つまり非常に血縁・地縁を重んじるのです。
たとえば大陸の学生がアメリカに留学する場合、客家出身であるならば台湾の客家が経済援助をするなどということもあると聞きます。つまり国の体制やイデオロギーよりも「客家」という結束を優先させるのです。
彼らは非常に教育熱心で勤勉ですから、どこの国でも成功する確率が高く、そうした人たちがたとえば東南アジアにはたくさんいます。
近年経済発展の目覚ましいインドネシア・ベトナム・タイなどでは客家の華僑が活躍し、彼らは1つのネットワークを作って大陸・台湾とも共に大経済圏を作っていっています。
近年の中国の大発展もまたこうしたネットワークが寄与している面がおおいにあります。