韓信【漢を勝利に導いた大将軍の生涯・歴史地図・年表】
韓信は前漢の高祖・劉邦配下の将軍で、張良・蕭何とともに漢の三傑の一人です。ずばぬけて優秀な将軍でしたが、最期は呂后の命令で命を奪われました。さまざまなエピソードが残されています。
韓信とは
韓信は淮陰(わいいん)の人で、若い頃は貧しく寄食生活を送って人に侮られ、町でならず者の股下をくぐったり、川で老女から食べ物を恵んでもらったりしていました。後に項羽軍に入りましたが、策を献じても取り上げてもらうことはなく、劉邦が関中に入ると劉邦軍に身を投じました。そこでも取り立ててもらえないので脱走すると、劉邦の片腕・蕭何が追いかけてきました。劉邦は、蕭何が国士無双とまでほれ込んだ男ならと上将軍に取り立て、韓信の策に従って項羽攻めを始めました。
韓信の戦いで有名なものに、趙軍と戦った「背水の陣」の戦いなどがあります。韓信の強さは、項羽が自分と劉邦、韓信で天下三分策を持ちかけるほどでした。やがて韓信は劉邦に疑心を抱かれ、最期は呂后に図られて命を奪われました。
韓信の股くぐり
韓信(?~BC.196)は淮陰(わいいん…江蘇省清江省清江市の西南)の出身で、若い頃は貧乏な上に素行が悪く、役人になりたくても相手にもされず、といって商売をやる能力もなく、いつも他人にたかって暮らし、人から嫌われていました。
淮陰の田舎の亭長(宿場の役人)の家で何か月も居候をして、その妻に嫌われやがて食事の世話もしてもらえなくなりました。そこで韓信は憤然としてその家から出ていきました。
ある日韓信が淮水(わいすい…黄河と長江の間を東西に流れる中国第三の大河)のほとりで釣りをしていると、何人かの老女が絮(わた…蚕繭から絹糸にする途中の状態のもの)を川の水にさらしていました。
そのうちの一人が韓信がすきっ腹をかかえているのを見てとり、それからというものしばらく食事を与えてやりました。韓信は喜び「いつかお婆さんに恩返しをするからね」と言うと、老女は腹を立て「りっぱな男が食にもありつけないでいるから同情したまでさ。恩返しなんか求めるもんか」と言いました。
淮陰で屠殺業を営む若者の中に韓信をバカにする者がいました。「お前は図体が大きくて刀なんかぶら下げているが、ただの臆病者だろう」と罵り「その刀で俺様を刺してみろ。それができないなら俺の足の下をくぐれ」と言いました。
韓信はその言葉にこのならず者の顔をじっと眺めると、腹ばいになってその男が広げた足の下をくぐりました。それを見た町中の人は韓信を臆病者とあざけりました。これが「韓信の股くぐり」としてよく知られているエピソードです。
大志を抱く者はちっぽけな侮辱などにこだわってはならないという意味で使われています。
韓信、劉邦軍の配下に入る
項梁(こうりょう…楚の武将。秦末、秦を打倒するために甥の項羽とともに決起した)軍が淮水を渡る時、韓信は刀を杖代わりにしてその配下に入りましたが、その名を知る者はまだ一人もいませんでした。
項梁が秦の章邯(しょう かん…秦の将軍)に敗れて命を失うと、その甥である項羽の配下に入りました。
項羽軍の中で郎中という役を与えられた韓信はしばしば策を進言しましたが、項羽に採用されることはありませんでした。
同じく項羽軍の配下にある劉邦軍が、秦の関所・函谷関(かんこくかん)を破って関中(かんちゅう…春秋戦国時代からの秦の領地)に入ると、韓信は自分を取り立てようとはしない項羽の元から逃げ出し、劉邦の配下に入りました。ただしこの時もまだ無名の一兵士でした。
それからまもなく、韓信はとある事件に連座して斬首の刑を言い渡されてしまいます。
13人が処刑されていよいよ自分の番になった時、劉邦に仕える武将の一人・夏侯嬰(か こうえい)の姿が目に入りました。韓信は夏侯嬰に「なぜ漢王(劉邦のこと)は天下取りをしておられるのに、私のような壮士を斬ろうとなさるのか」と尋ねました。
夏侯嬰はこの言葉にもその面構えにも感じるところがあり、罪を赦して斬首の刑を取りやめました。
韓信と話をしてみるとなかなか見どころのある人物でしたので、それを劉邦に告げました。
劉邦は夏侯嬰の進言を入れて韓信を取り立てましたが、優れた人物であると思いませんでした。
ところが劉邦の天下取りを支えた三傑の一人・蕭何(しょうか)は、韓信という男を傑物だと思いました。
国士無双
秦が滅ぶと、劉邦は項羽によって巴蜀や漢中に封じられ、南鄭(陝西省漢中)を首都としました。劉邦についてきた武将たちはみな東方出身だったので、西の南鄭に行くのを嫌い、何十人もが逃亡してしまいました。
韓信も蕭何がたびたび推薦してくれたのに劉邦はいっこうに取り立てようとしないことに嫌気がさし、同じように逃亡しました。
蕭何は韓信が逃げるとそれを劉邦に告げずに追いかけていきました。劉邦は蕭何が逃げたと聞かされ、激怒するとともに落胆しました。
ところがそれからまもなく蕭何は帰ってきて劉邦に拝謁しました。
劉邦は大喜びしながらも蕭何を罵りました。「逃げるとは何事だ」
すると蕭何は「逃げたのではありません。逃亡者を追いかけたのです」と言い、劉邦が「誰を追いかけたのだ」と聞くと、「韓信です」と答えます。
劉邦はますます腹を立て「何十人も逃亡したというのに、韓信だけを追いかけたというのはウソだろう」と問い詰めました。
すると蕭何は「今回逃亡した諸将などはいずれまた簡単に手に入ります。しかし韓信のような人物は天下に二人といません(国士無双)。漢王(劉邦のこと)がこのままこの漢中の王で満足ならば、韓信のような男はいりません。しかし将来天下を争うなら必ずやあの男が必要になります。王のお心がどうなのか、今はこのことが大きな問題です」と言いました。
劉邦が「わしもいずれ東方に向かおうと思っておる。こんなところにいつまでもいるものか」と言うと蕭何は「でしたら韓信が必要です。あの男は王に用いられるならここに留まるでしょうが、用いられないならまた逃げるでしょう」と言い、劉邦は「お前がそこまで言うならあいつを将軍として用いよう」「将軍では韓信は逃げるでしょう」「それでは大将にしよう」「それはよいお考えです」
こうして劉邦が韓信を呼んで大将に任命しようとすると、蕭何は「王はなにかにつけ傲慢で礼をわきまえていらっしゃいません。もし韓信を大将に任じようとするなら、子供を呼びつけるかのように呼んではなりません。そのようにするなら韓信は王のもとを去るでしょう。どうしても韓信を大将にしようとお考えなら、まず吉日を選び、斎戒沐浴をして祭壇をもうけ、礼を尽くして任命なさることです」
劉邦は蕭何のこの言葉を聞き入れ、そのように準備をしました。この様子に諸将たちは、きっと自分こそが大将に任命されるのだろうと喜んでその日を待ちました。
ところが選ばれたのは韓信という無名の男だったので諸侯たちはびっくり仰天しました。
任命の拝礼が終わると劉邦はこう韓信に聞きました。
「丞相の蕭何は何度も貴公を取り立てるようわしに勧めた。将軍はいったいどんなことをわしに教えてくれるのだろうか」
韓信は大将の任命に感謝のことばを述べた後「王が今天下を争う相手は項王(項羽のこと)でございましょう」と聞くと「その通りじゃ」と劉邦が答えます。「王はご自分と項王を比較して、勇と仁にまさるのはどちらだと思われますか」
この問いかけに劉邦はしばらく黙っていましたがやがて「わしは項王には及ばぬ」と答えました。
韓信はさらに「私も王は項王には及ばないと思います。私はかつて項王にお仕えしたことがあります。項王は怒る時は千人がひれ伏すほど激しいのですが、優れた将軍を信じて事を任すことができません。これは匹夫の勇(ひっぷのゆう…思慮分別のない腕力だけの勇気)というべきものです。
項王が人に会う時は、礼をわきまえ思いやりにあふれ言葉はおだやか、
誰かが病気になれば涙を流して食事を分け与えます。
しかし功を立てた者に褒美を与える時はそれを惜しみます。これは婦人の仁(ふじんのじん…弱者には同情するが、強くなって活躍した者には嫉妬して冷たくする)というものです。
項王は覇者と称していながら関中には行かずに彭城に都をかまえています。
義帝と「最初に関中に入った者を関中の王とする」と約束したのにもかかわらず、その約束を破っています。
項王が通り抜けたところの民はみな滅ぼされました。
天下の民はこれを恨み、親しまず、ただ惧(おそ)れているだけです。
覇者とは名ばかりで、天下の人心を失っています。ですからあの強さは実は弱さを含んでいるのです。
もし大王が、項王と逆のやり方で勇を振るうならば破れない敵はなく、城邑を気前よく諸将に与えるなら帰服しない者はいないでしょう。戦いの名分を正しくし、東方の故郷に帰りたいと思う将士を従えるなら無敵です。
漢王が関中の地に入って以来、王はこの地の人民を損なうことなく、秦のむごい法令を廃し、法三章のみを約束しました。秦の民はみな王がこの地を治めることを望んでいます」等々劉邦が関中の王となって東に進軍するべきだということを縷々進言すると、劉邦は喜び、なぜもっと早く韓信を用いなかったのかと後悔しました。
こうして劉邦は韓信の策を入れて諸将を配置し挙兵しました。
劉邦はまずは、項羽軍に投降した元秦の将軍が封じられた土地を平定してから函谷関を出て、魏の河南を降伏させ、斉と趙の兵とともに項羽が支配する楚を撃ちました。
楚の都・彭城を攻めて項羽軍に逆襲され敗れて退却した後は、韓信が兵をまとめて劉邦とともに楚を撃ち破りました。
劉邦軍が彭城で敗れた時、斉や趙は劉邦を裏切って項羽側につきました。
魏も項羽側についたので、劉邦は韓信をさしむけて魏を攻め、これを撃ち破りました。
背水の陣
その後劉邦は張耳(ちょう じ)と韓信を趙、代を撃たせるために東北に差し向けました。
韓信が魏と代を降伏させると、劉邦は韓信を滎陽(けいよう…河南省鄭州)に向かわせて楚軍からの防衛を命じました。
韓信は張耳とともに数万の兵士を率いて東に向かい井陘(せいけい…河北省石家庄)で趙を撃とうとしました。
趙の宰相・陳余は漢軍の攻撃を知ると、30万の兵士を井陘に集めました。
趙の軍師・李左車は陳余にこう言いました。
「漢の将軍韓信は韓王や代の宰相・夏説(か えつ)を生け捕りにし、張耳を補佐として今趙を攻め滅ぼそうとしています。この勢いはすごいものがありますが、一方で本国から遠く離れたところでのいくさは兵站(へいたん…糧食の補給など)が難しいとも聞きます。
韓信軍はいま井陘に向かっていますが、道が狭く騎馬兵が列を成して進むことができません。兵士の列が数百里にもなるなら、糧食は前列の兵士には行き渡りません。願わくは私に3万の兵士をお貸しいただきたい。私は間道から敵の輜重(しちょう…兵糧など軍需品)を切断します。
王は溝を深くし、塁(土でつくった砦)を高くして陣地の守りを堅め、敵兵と戦うことにならないようにしてください。
こうすれば敵は戦えず、退くこともできずに敗北します。この案を取り上げていただけなければ、王は必ず生け捕られることになるでしょう」
ところが陳余は儒者の言を重んじ正面からのいくさを好んで詐術を嫌いました。
「今韓信の兵は数万と言っておるが、実態は数千だろう。しかも千里の果てからやってくるのだから将兵は相当疲れているはずだ。こんな軍とまともに戦えないなら、今後さらなる強敵がやってきたらどうするのだ。諸侯たちが我が軍の卑怯さを見たら、逆に弱い軍隊だと侮られてよけい危険にさらされるだろう」
陳余はこのように反駁し、李左車の建議を退けました。
韓信は間諜を放って趙の内情を探らせ、趙王が李左車の意見を取り入れなかったことを知ると安堵して非常に喜び、さっそく兵を率いて井陘に向かう狭い道を下って、井陘の手前30里の地点で宿営しました。
そして夜が更けると、軽装備の騎兵2000人にそれぞれ赤いのぼりを持たせ、敵に姿を見せないようにして山中を進み趙の陣営が見えるところまで行き、そこで待機させ、こう命じました。
「趙軍はわが軍の本隊が敗走するのを見れば、陣営をカラにしてこちらを追撃してくるだろう。その時お前たちは趙の陣営に入り、趙旗を引き抜いてこの漢の赤いのぼりを立てよ」
残りの将兵には軽い食事のみ取らせ、「今日は趙軍を破ってからおおいに食おう」と言い、将兵1万に川を背にした陣形を作らせました。
趙軍は韓信軍のこうした様子をかなたから眺め、背後が川では逃げられまい、バカな奴らだと笑いました。
夜明けに韓信は、大将旗を立て太鼓を鳴らしながら井陘口を出発しました。趙軍もまた出撃し、戦いが始まりました。
しばらくすると韓信と張耳は負けたふりをして、太鼓や旗を捨て川を背にした味方の陣に向かいました。
すると趙軍は全員が自陣を出て、韓信軍の太鼓や旗を奪い韓信、張耳を追撃しました。
この二人が川を背にした自陣に入り込むと、韓信軍の全将兵は必死になって戦いました。戦いに勝たない限り逃げ道はないからです。出陣前には軽い食事しか取っていませんから、すきっ腹を抱え殺気立っていたかもしれません。
一方先に出陣した2000の騎兵は空き家同然の趙陣営に入り込み、趙の旗を抜き取って漢の赤いのぼり2000本を立てました。
趙軍は背水の陣を敷いた韓信軍との戦いで大将・韓信をつかまえることができなかったので陣営に戻ると、陣営内は漢のシンボルである赤い旗で埋め尽くされていました。
これに仰天した兵士たちは趙王は韓信軍につかまったと思い込み、散り散りになって逃げていきました。
趙の将軍たちはこれら敗走する兵を斬りましたが、敗勢を立て直すことはできませんでした。
こうして韓信軍は趙軍を挟み撃ちにし、張余を斬り趙王を生け捕りにしました。
韓信は将兵に「李左車は斬ってはならぬ。これを生け捕りにした者には千金を与えよう」と言い、まもなく李左車が縛られた姿で現れました。
韓信は李左車のひもを解き、東向きに座らせて自分は西向きに座って向かい合い、李左車を師として敬意を表しました。
戦勝の宴会で一人の将が韓信にこう聞きました。
「兵法には、丘を右または後ろとし、水は左または前とするとあります。今回将軍はその逆の布陣を命じ、趙軍を破ったらおおいに食おうとおっしゃいました。私たちは不満に思いましたが勝利することができました。これはどういう戦術なのでしょうか」
韓信が「今回の戦術も兵法に書いてある。『死地に陥れた後に生かす』と。わしはまだ今回の兵士たちの心を掌握してはいない。こうした者は烏合の衆と同じで、命をかけて戦える本当の戦士ではない。だから彼らを死地に置いたのだ。これを生地に置いたらみな逃げるだろう」と説明すると諸将は感服しました。
韓信がこの後李左車に「私はこれから北の燕と東の斉を討伐に行きますが、どうしたら勝てるでしょうか」と聞くと李は「敗軍の将は勇を語らず、亡国の大夫は国事を図らずと言います。私は敗軍の捕虜です。そのような大事を図ることはできません」と答えました。
すると韓信は「百里奚(ひゃくりけい…春秋時代の秦の宰相)は虞(ぐ…春秋時代の国)にいて虞滅び、秦にいて秦を覇者にしました。
虞では愚か者で、秦では智者だったわけではありません。上の者が彼を用いたか用いなかったかの違いです。
張余があなたの意見を取り入れていたなら、捕虜となったのは私の方でしょう。私はあなたの考えに従うのでどうか遠慮なくお考えをお聞かせください」と言いました。
すると李左車はそれではと「今将軍は一挙に井陘を下って20万の趙軍を瞬く間に破りました。あなた様の名声は国中を震わせ、農夫までもが趙の国が亡びるのを知って耕作をやめ、あなたの命令を待っています。これは良い点です。
けれども将軍の将兵は今疲れ果てています。このままいくさに向かえば負けることがなくても勝つことも容易ではありますまい。これが悪い点です。
ですから今燕と斉を征伐に向かうのはやめた方がいいでしょう。
今すべきことは兵を休養させ、うまいものを食わせ、趙の戦没者の遺児に哀れみをたれ、燕に手紙を送って漢軍の優位を伝えることです。燕が服従したならばその知らせを斉に伝え、そうすれば斉も漢に従うでしょう。こうすれば天下は戦わずして攻略できます」
この李左車の建議を受けて韓信はそれに従いました。
すると燕は簡単に服従したので、韓信はこれを漢王・劉邦に報告し、張耳を趙王に立ててこの地を慰撫したいと申し出ました。劉邦はこの建議を入れ、張耳を趙王としました。
天下三分の誘い
BC.203韓信は斉を平定し、劉邦の許しを得て斉王となりました。
韓信が項羽軍の竜且を撃つと、項羽は驚いて武渉を韓信のところに寄こしました。
武渉は「諸将が力を合わせて秦を破り、今はそれぞれが領土を得て将兵を休ませています。それなのに漢王一人、兵を東進させ楚を撃っていますが、その心は天下をわが物にしようというものです。かつて漢王は命の危険があったところを項王が憐れんで助けてやったのです。それなのに危機を脱すると項王を撃ちにやってきています。
今あなたは漢王のために力を尽くしていますが、いずれ虜にされるでしょう。今項王、漢王の行く末はあなたにかかっています。ここは我々楚と連合し、天下を三分してその一つをあなたのものとしてはいかがですか」と説きました。
韓信は「以前私は項王に仕えましたが、高い位も与えられず、進言も聞き入れられることはありませんでした。そこで私は楚に背き漢につきました。
漢王は私を上将軍とし、数万の兵を与え、自分の衣を脱いで私に着せ、その食を私に与えました。これほど私を信じてくれる者を裏切るわけにはいきません」と断りました。
武渉はこうして立ち去りましたが、蒯通(かいとう)は天下を左右する秤の分銅は韓信が握っていることを知って、己の奇策で韓信の心を動かそうとやってきました。
彼もまた天下を三分し、その一人となることを勧めましたが、韓信はやはりこの言葉を受け入れようとはしませんでした。
故郷に錦を飾る
その後韓信は垓下に向かって劉邦とともに項羽を撃ち破りました。
ところが劉邦は突然韓信の軍を奪い、韓信を楚王に任じましたので、韓信は楚に向かいました。
韓信は楚に行くと、かつて自分に食を恵んでくれた絮洗いの老女を探し出して千金を与え、淮陰の南昌の亭長には百銭を与えて「お前は小人だ」と罵りました。
また股くぐりをさせて自分を侮辱した男は楚の中尉に任じました。そして諸将、諸大臣に「この男は壮士である。かつてわしを侮辱したがあの時こいつを殺せなかったわけではない。だがこんな男を殺しても名誉にはならないから耐えた。だからこそ今日の成功を成就したのだ」と言いました。
項羽の元から逃げ出した将に鐘離眜(しょう りまつ)という者がいました。鐘離眜は韓信と仲がよく、項羽の死後は韓信の配下にありましたが、劉邦は鐘離眜を恨んでいて彼を捕縛するよう命じました。
その頃韓信は新しい領国となった楚に着いたばかりでしたが、BC.201「楚王韓信が謀反を起こした」と密告する者がありました。そこで劉邦は陳平の策に従い、自らの巡幸にことよせて諸侯を集めることにしました。
南方に雲夢(うんぼう)という沢があり、諸侯には陳に集まるよう伝え、自分は「雲夢に遊ぶ」と告げて、韓信を襲うというもくろみでした。
劉邦が楚に到着するころ、韓信は劉邦に会うべきか謀反を起こすべきか迷っていました。
ある人が「鐘離眜を斬ってから陛下(劉邦)に会えばお喜びになり、あなたに命の危険はなくなるだろう」と言いました。
韓信が鐘離眜に相談すると「陛下が楚を撃たないのは私がここにいるからです。もしあなたが私を捕らえ陛下に媚びるなら、私はここで死にましょう。けれどもその後あなたも命を奪われるでしょう」と言い、「あなたは人物ではない」と罵るや自刎して死にました。
韓信の捕縛と格下げ
韓信はその首を持って陳で劉邦に謁見すると、劉邦は周囲に命じて韓信を縛り上げ、車に乗せました。
韓信が「『狡兎(こうと)死して良狗(りょうく)煮られ、高鳥尽きて良弓しまわれ、敵国破れて謀臣滅ぶ』(すばやく逃げるウサギがいなくなると良犬は食われてしまい、高く飛ぶ鳥がいなくなると良い弓は用なしとされ、敵国がいなくなると忠臣は滅ぼされる)ということわざがあるが、その通りだった」と嘆くと、劉邦は「お前が謀反を謀っていると密告するヤツがいたからじゃ」と言って、韓信に枷をはめ縄につなぎました。
洛陽に到着すると、劉邦は韓信の罪をゆるし、楚王の位から淮陰侯(わいいんこう)に位を下げました。
韓信は劉邦が自分の才能を怖れ憎んでいるのを知って、この後は参内せず行幸にも従わず、日々劉邦を恨み、位下げを恥じました。
以前劉邦が韓信と諸将の能力の品定めをしたことがありました。劉邦が韓信に「わしならいかほどの兵士の将となれようか」と聞くと韓信は「陛下はせいぜい10万の兵を率いる将でしょう」と答えました。
「それならお主はどうだ」と聞かれて韓信は「私なら多ければ多いほどよろしい」と答え、劉邦は笑いました。
「それならなぜわしの配下にくだったのだ」と聞かれ韓信は「陛下は兵の将になることはできませんが、将の将になることができます。これが私が陛下の配下となった理由です。陛下のこうした能力は天が与えたもので、人の力ではどうにもなりません」と言いました。
韓信の最期
陳豨(ちん き…漢の武将)が鉅鹿(きょろく…河北省邢台)の太守に任命され、韓信の元に別れを告げに来た時、二人はともに庭を歩きました。
韓信が陳豨に「君は陛下の信任があつい。人が謀反を企てていると密告しても陛下は信じないだろう。けれどもその密告が3度にわたれば陛下は必ず君を滅ぼしに向かう。その時私が君に呼応して立ち上がったら天下は我らのものになる」と言うと、陳豨はふだんから韓信の才能を知っていたので「その時は必ずあなたの言うとおりにします」と応じました。
BC.197陳豨が謀反を企て、劉邦が自ら征伐に向かいましたが、その時韓信は病気のために従軍できませんでした。
韓信は陳豨に使いを送り「これから君を助ける」と伝えました。
韓信は夜中に陛下のご命令だと偽って書官に所属する囚人を放ち、これを兵として呂后と太子を襲うことにしました。
その時韓信のけらいが罪を犯したので、韓信がこれを捕らえて処刑しようとすると、その弟が韓信の動きを呂后に密告しました。
呂后は韓信を呼び出そうとしましたが、これに応じないかもしれないと思って蕭何と謀り、宮中に「陳豨は死んだ」というニセの情報を放ちました。
諸侯も群臣もこれを喜んでいる中、蕭何は「病気とは思うができるだけ参内して慶賀するように」と伝えてきたので、韓信は参内しました。
呂后は参内した韓信を周囲に命じて縛り上げ、長楽宮の鐘室でこれを斬りました。斬られる前韓信は「蒯通の忠告を聞いていればよかったものを。婦女子に欺かれて命を失うとは無念だが、これも天命だろう」と言ったといいます。
韓信とともにその三族も滅ぼされました。
劉邦が陳豨を滅ぼして戻ってくると、韓信の死を知って喜ぶと同時に哀れみました。
そして最期に何と言ったかと呂后に聞き、「蒯通の計を用いなかったのが残念だと言いました」と答えると、劉邦は蒯通を捕まえ、その命を奪おうとしました。
蒯通は「秦の支配がゆるむと関東(函谷関の東という意味)はおおいに乱れ、英雄豪傑があちこちから現れました。秦はその鹿(天下を意味する)を失い、英雄豪傑がこれを逐いました。そこであなた様がこれを仕留めたのです。
韓信を知った頃私はあなた様のことは存じ上げませんでした。天下にはあなた様を真似ようとする人がたくさんいますが、これをみな処刑することができますか」と言うと、劉邦はその罪を赦しました。
司馬遷はその著『史記』の中で、かつて彼自身が淮陰に行った時のことを次のように記しています。
「私が淮陰に行った時、淮陰の人が私にこう言った。韓信はただの平民だった頃から志が他の者とは異なっていた。母親が死んだ時貧しくて葬式も出せなかったのに、広い土地を選んでそこに墓を立て、将来墓守が置けるようにした、と。私はその墓を見たがまさにそのとおりだった」
そして、韓信がその才能に慢心せず謙虚であったなら、漢の功臣として子々孫々祀ってもらえただろうに、と述べています。