背水はいすいじん

意味
決死の覚悟で戦いにいどむこと。
例文
彼、今回は背水の陣だろう。これでダメだったらもう後がないよ。
出典
『史記』淮陰侯わいいんこう列伝

「背水の陣」の由来

背水の陣」の由来となった話は、中国の秦の時代が終わり、劉邦が漢王朝を打ち立てる前の紀元前204年のことです。劉邦の部下の韓信が、川を背に陣地を敷いて勝利します。

「背水の陣」の故事の時代

「背水の陣」の故事の時代(年表)
背水の陣」の故事の時代(年表)。紀元前204年の出来事です。紀元前206年に秦が滅び、紀元前202年に劉邦が項羽を破ります。

「背水の陣」の故事の場所

「背水の陣」の故事の場所(歴史地図)
背水の陣」の故事の場所(歴史地図)。「井陘いけいの戦い」としても知られています。

「背水の陣」の故事

韓信。
韓信。淮陰侯わいいんこうと書いてあるのは韓信が淮陰という地域を治めていたことから。

項羽軍(楚)と劉邦軍(漢)が一進一退の攻防を繰り広げていた時、劉邦の部下である韓信は、項羽側の趙を討伐しようと一万の兵を率いて太行山を越えていきます。趙は二十万の兵力で太行山の東側の要路・井陘口でこれを迎え討とうとしていました。井陘口の西側は道が狭く両側が山です。ここは韓信がやってくるなら必ず通る道なので、趙軍の軍師・李左車は、正面から戦うのはやめましょう。後ろに回って韓信軍の食糧を絶ち、井陘の狹道で挟み撃ちにするのです、と進言します。ところが趙王は「韓信の兵力はわずか数千、しかも千里のかなたからやってきて疲労困憊のはず。もし我らがこのような敵さえ避け、正面から勝負しないのであれば笑いものにされるであろう」と言ってこの策を受け入れませんでした。

韓信は趙側に放っておいた間諜からこの情報を得るや、いそいで兵を井陘の狹道に進ませ、井陘口から三十里離れた所に陣を敷きました。夜半、韓信は二千の軽騎兵に漢軍の赤い幟(のぼり)を持たせ、小道から趙軍の陣営の後ろに回って待ち伏せさせます。韓信は彼らに「趙軍は我らが敗走したと見れば追撃してくるだろう。その時お前たちは無人となった趙軍の陣営に入り込み、趙の幟を抜き取って我が方の赤い幟を立てるのだ」と指示します。

漢軍の兵士は井陘口に向けて出発し、川を背に陣を作りました。高いところからその様子を見ていた趙軍の兵士たちは韓信をあざ笑いました。

夜が明けると韓信は自ら大将旗を持ち陣鼓を鳴らして井陘口に向かいます。趙軍も軽騎兵を率いて陣地からどっと出てきて、韓信を生け捕りにしようとします。その時韓信は旗や鼓を捨てて河辺の陣地に逃げ戻るふりをしました。そこで趙軍は兵士全員が陣を出てこれを追い、韓信の陣地に襲い掛かりました。川を背にした韓信の兵は逃げ道がないので全員が必死に戦います。双方はしばらく死闘を繰り広げましたが、趙軍はどうしても韓信軍を打ち負かすことができません。そこでいったん自陣に戻ろうとすると、その陣地には漢の赤い旗が打ち立てられているではありませんか。趙軍は大混乱に陥り、韓信はここぞとばかりに反撃に打って出ます。こうして趙軍は大敗を喫し、趙王は生け捕りにされました。

背水の陣。
背水の陣により韓信が勝利します。

戦いが勝利に終わった後、将兵たちが韓信に「兵法では山を背にし、川に顔を向けて陣を組むべしと書かれているのに、今回はその逆、川を背にしたのになんと勝ってしまいました。これはいったいどう解釈したらいいのでしょう」と聞くと、韓信は「兵法に『これを死地に陥れて後に生き、これを亡地に置いて後に存す』とあるではないか。お前たちはここに気づいていなかっただけである。わしはまだ将兵の心を掌握していない。まるで市場の群衆を戦わせているようなものだ。これを死地に置き必死で戦ってもらわない限りみな逃げてしまうだろう。そこであの陣にしたのだ」と言いました。諸将はこれを聞いて「なるほど、おみごと。それは我々の考えの及びもしないことでした」とみな感服しきりだったということです。この韓信の戦いが後に故事成語「背水の陣」になりました。

韓信の像。
韓信の像。

「背水の陣」の関連語

四面楚歌」は、「背水の陣」の戦いの後、垓下で項羽が囲まれている場面が元となった故事成語です。

捲土重来」は、「四面楚歌」の場面のさらに後の項羽を描いた話が元となった故事成語です。

「背水の陣」の中国語

中国語背水一战
ピンインbèi shuǐ yí zhàn
音声
意味決死の覚悟で戦いにいどむこと。

意味は日本語と同じですが、「背水之陣」とは言わず「背水一戦」と言います。川を背にして戦う、という意味です。また中国語の「水」は川や海、湖という意味にもなります。