朝令暮改
※『漢書』とは:前漢(B.C.206~A.D.8)の歴史書。中国後漢の時、班固、班昭などによって編纂された。前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。
※食貨志とは:土地制度、専売制度、貨幣制度など、王朝の財政経済に関する事柄が記述された編目。
「朝令暮改」の由来
「朝令暮改」は中国の前漢の時代、晁錯による文帝への上奏文が由来となってできた言葉です。まずはこの時代の年表と当時の歴史地図を見てみましょう。
「朝令暮改」の故事の時代
「朝令暮改」の故事の場所
「朝令暮改」の故事
では「朝令暮改」の典拠となった上奏文を原文、書き下し文、現代語訳の順に紹介していきます。
「朝令暮改」の話の原文
勤苦如此、尚復水旱之災、急政暴賦、賦斂不時、朝令而暮改。
「朝令暮改」の話の書き下し文
勤苦此の如くなるに、尚復た水旱の災あり、急政暴賦、賦斂時ならず、朝に令して而も暮に改む。
「朝令暮改」の話の現代語訳
農民の苦労はこのように大変なものであるのに、その上水害や灌漑に苦しめられ、加重な税を性急に求められ、しかもそれが頻繁であり、朝出された命令が夜には変更されているといったありさまです。
この文は前漢の文帝・景帝の家臣晁錯による文帝への上奏文です。当時役人などによる農民への搾取が激しく、多くの農民が窮迫し、流民化していくさまを危惧した晁錯がこれを放っておいては大変だと文帝に訴えたものです。
原文にある「賦」とは「農業税」のことです。
上奏文とは……皇帝・王に対して意見・提案を述べた文のことです。
前漢とありますが、こういう王朝名があったわけではありません。正式な王朝名は「漢」です。漢は一度滅亡し、やがてまた再興されます。そこで最初の漢を「前漢」、再興された漢を「後漢」(ごかん)と呼びます。この呼び名は日本だけで、中国では「前漢」を「西漢」、「後漢」は「東漢」です。なぜ「西漢」かというと、漢の国の西側にある長安に都があったからです。「東漢」の都はそれに対し「洛陽」にありました。長安に比べると東側ですので「東漢」になりました。
中国人とこの漢についての話をする時「前漢」「後漢」では通じません。逆に日本では「西漢」「東漢」があまり知られていません。
さて「漢」という名称はどこから来たのでしょうか?「漢」は長江の支流である「漢水」に由来し、前漢の初代皇帝・太祖である劉邦が根拠地とした「漢中」という地名から来た言葉です。その後劉邦が天下を統一し、その支配は前漢・後漢合わせて400年に及んだため、中国という地、中国人、中国文化を指すものとなりました。「漢字」の「漢」もここから来ています。
「朝令暮改」の関連語
「朝令暮改」と間違えやすい故事成語に「朝三暮四」があります。
「朝令暮改」と同じく前漢時代の話が元となってできた故事成語には、「塞翁が馬」「百聞は一見に如かず」「窮鼠猫を噛む」などがあります。
「朝令暮改」の中国語
中国語 | 朝令夕改 |
---|---|
ピンイン | zhāo lìng xī gǎi |
音声 | |
意味 | 朝出した命令を夕方にはもう変えること。法令が絶えず変わって一定しないこと。 |