百聞は一見に如かず
※『漢書』とは:前漢(B.C.206~A.D.8)の歴史書。中国後漢の時、班固、班昭などによって編纂された。前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。
※趙充国(B.C.137~B.C.52)とは:前漢の将軍。字は翁孫。隴西郡上邽の人で、後に金城郡令居に移住した。
「百聞は一見に如かず」の由来
「百聞は一見に如かず」の故事は『漢書』の中に出てきます。漢の皇帝が羌の軍勢について老将軍の趙充国にたずねると、趙充国は実際に見に行きます。まずはこの出来事の年表と歴史地図から見てみましょう。
「百聞は一見に如かず」の故事の時代
「百聞は一見に如かず」の故事の場所
「百聞は一見に如かず」の故事
「百聞は一見に如かず」の典拠の文は短いので原文、書き下し文、現代語訳を紹介しましょう。
「百聞は一見に如かず」の故事の原文
上遣問焉、曰
将軍度羌虜何如、當用幾人?
充国曰
百聞不如一見。
兵難踰度。
臣願馳至金城、図上方略。
「百聞は一見に如かず」の故事の書き下し文
上遣わして問わしめて曰く、
「将軍、羌虜を度ること何如、当に幾人を用うべきか?」
充国曰く、
「百聞は一見に如かず。
兵は踰に度り難し。
臣願わくば馳せて金城に至り、図きて方略を上らん。」
「百聞は一見に如かず」の故事の現代語訳
前漢の宣帝が使者をつかわして、趙充国にこう尋ねました。
「将軍は漢に従わない異民族の羌の勢力がどれほどであると思う?あやつらの反乱を鎮圧するには、どれほどの兵力が必要だと思うか」と。
趙充国はそれに答えて「百聞は一見に如かずです。軍事の現場はここから遠く予想がつきません。願わくば、私が自ら金城(涼州金城郡。現在の甘粛省)に馳せ参じ、地形を図に描いて、それから方策をたてまつりましょう」と言いました。
ここで出てくる趙充国が仕えた宣帝とはB.C.74~B.C.48没の前漢第9代皇帝のことです。武帝のひ孫で、前漢中興の祖と言われます。
この故事は羌虜と書かれている異民族羌討伐に関する物語ですが、羌とは何者なのかについてちょっと紹介しましょう。
羌は古代から中国西北部に住む少数民族で西羌とも呼ばれます。中国大陸に住む民族としては最も古くから姿を見せている部族の一つで、『後漢書』の「西羌伝」でその詳細が記されています。
劉邦が項羽を破り漢王朝を成立(紀元前202年)させた後、紀元前200年に劉邦(高祖)が「白登山の戦い」で匈奴に破れると、漢は匈奴に膨大な貢物を贈り、属国のような状態になります。
このころ羌も同様に匈奴の属国のような状態でした。その後、漢の武帝が匈奴を破り河南(黄河の婉曲部の南、長安の北)の地を奪取(紀元前127年)するなど、漢側が優勢になります。そのあたりで羌は漢側につくようになるのですが、その後もたびたび漢とは対立します。このあたりがこの故事の時代背景です。
後漢末に黄巾の乱(184年)が起きると、羌は漢民族の一部と組んで独自の勢力を築きます。三国時代(220年 ~ 280年)には、魏と蜀の国境地帯あたりで勢力を保ち、趨勢に応じて魏についたり蜀についたりして戦っています。
五胡十六国時代に入ると、羌は「後秦」を建国(384年)するのですが、417年に後の宋・武帝によって滅ぼされます。
唐代から北宋の時代には再び勢いを盛り返し、やがて宋を圧迫して「西夏」(1038年~1227年)を打ち建てます。北宋が金に滅ぼされると金に服属するのですが、チンギス・ハーン(ジンギスカン)によって滅ぼされます。こうして羌という民族は、西夏滅亡後は歴史上の活躍はなく現在に至っています。
これが羌二千年の歴史です。この民族の興亡の歴史はこうしてざっと眺めただけでも感慨深いものがあります。
「百聞は一見に如かず」の関連語
このあたりの地域の話から故事成語になった言葉に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」があります。漢と匈奴と楼蘭の話です。
「百聞は一見に如かず」と同じく前漢時代の話が元となってできた故事成語には、「塞翁が馬」「朝令暮改」「窮鼠猫を噛む」などがあります。
「百聞は一見に如かず」の中国語
中国語 | 百闻不如一见 |
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ピンイン | bǎi wén bù rú yí jiàn |
音声 | |
意味 | 人から何度も聞くより、自分で一度見た方がよくわかる。 |