右に出る者はいない
……『史記』とは:中国の歴史書。前漢武帝の時代に司馬遷によって編纂された。
田叔とは:前漢、趙の陘城県の人。
「右に出る者はいない」の由来
まずは「右に出る者はいない」の由来となったお話の年表と歴史地図から紹介します。
「右に出る者はいない」の故事の時代
「右に出る者はいない」の故事の場所
「右に出る者はいない」の故事
漢の高祖(劉邦)が趙に立ち寄った時、趙王に対して失礼な態度を取りました。趙の宰相はそれを見て激怒し、自分たちだけで高祖暗殺を企てます。この企ては失敗し、趙王と宰相およびその仲間は捕縛され漢の都(長安…地図の中央左)に連行されました。その時高祖は「こやつらについてくる趙人は一族皆殺しにする」と宣言します。しかし田叔たち何人かは奴隷姿に身をやつし趙王についていきました。
漢の都・長安についてから、この暗殺計画と趙王は無関係であることがわかり、趙王は釈放されます。この時趙王は自分に従ってついて来た者は奴隷ではなく自分の臣下であると明かします。
高祖が彼らに謁見してみると皆すばらしい人物で、漢の臣下で「彼らの右に出る者はいない」ほどでした。そこで高祖は喜び、彼らを諸侯の宰相などに任命しました。
当時は右側が良い地位を示すことがわかる逸話ですが、実は左右どちらの方が上位なのかは時代によって異なり、漢代では右で、そこでこのような言葉が生まれたわけです。
右と左の序列について
右が上か左が上か?どちらでも良さそうな話である上、左右というのが見る位置によって変わるので、左右の偉さが決まっているとしても混乱します。
日本では古来左が上でした。これは漢代に右上位だったのが、唐に入って左上位となり、この習慣が日本に入ったからと言われます。
左大臣・右大臣という昔の官位でも左上位です。ところがこれを下座側から眺めていると右側に左大臣がいます。つまり天皇から見ての左側に立つのが左大臣、同じく右側が右大臣。これは中国の習慣に従って天皇は北を背に南に向かって立ちます。その際左側は東に位置するので、太陽の昇る東は沈む西より上となるわけです。ただ大臣たちの後ろに立って見れば、左大臣は右側、右大臣は左側になります。
欧米では逆で右優位です。日本の皇室も外交関係を考慮して左優位から右優位に変わりました。天皇・皇后両陛下の写真を見てください。天皇は天皇から見て右、皇后は左です。つまりその写真を私たちが見ると天皇は左、皇后は右となります。この場合の左右の優位は陛下御自身からの左右によって判断され、見る側ではありません。
オリンピックの一位は真ん中、二位は当人からすると一位の右、三位は一位の左ですが、それを見る側からすると二位は一位の左、三位は一位の右になっています。これも欧米風の左右観から来ています。
おひな様はどうでしょうか?京びなは古来の風習を守ってお内裏様(男びな)は人形からすると左、おひな様(女びな)は右です。つまり眺める側からするとその逆、お内裏様が右、おひな様が左です。
関東びなは今風と言いますか、欧米にならってかその逆、つまり眺める側からするとお内裏様が左、おひな様が右です。
日本はいったんルールが定まるといちずな国。国旗も同様、欧米に合わせています。どこかの国の来賓が来ると、その国の国旗と日の丸が二つ並びますが、旗からすれば右が相手国、左が日の丸です(眺める側からすると相手国の旗が左、日の丸が右)。こうして相手の国に敬意を表しているのです。
ちなみに中国の場合、外交関係での国旗の位置はどうか。私が見た限りルールは決まっていないようです。どっちでもいいじゃんという感じでもあるし、そんなこと考えたこともなかったという感じでもあります。
「右に出る者はいない」の関連語
「右に出る者はいない」と同じく、左右の序列に関するものとしては、「左遷」があります。
劉邦に関するものとしては、「鴻門の会」「四面楚歌」「捲土重来」「背水の陣」などがあります。
また、項羽の愛妻「虞美人」についても詳しく紹介しています。
「右に出る者はいない」の中国語
中国語 | 无出其右 |
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ピンイン | wú chū qí yòu |
音声 | |
意味 | 右に出る者はいない。最も優れている。 |