過ぎたるは、なお及ばざるが如し
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」の由来
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」という故事成語は孔子の言葉を集めた『論語』から取ったものです。とても短い話なので原文・書き下し文・現代語訳で紹介します。まずはこの話の時代の年表と歴史地図から見ていきましょう。
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」の故事の時代
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」の故事の場所
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」の故事
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」の原文
子貢問 師与商也孰賢 子曰 師也過 商也不及 曰 然則師愈與 子曰 過猶不及
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」の書き下し文
子貢問う、師と商と孰れか賢れる。子曰く、師や過ぎたり。商や及ばず。曰く、然らば則ち師愈れるか。子曰く、過ぎたるは猶及ばざるがごとし。
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」の現代語訳
子貢が「師(子張)と商(子夏)ではどちらが優れているでしょうか」と孔子に尋ねると、
「師は度が過ぎている。商は物足りない」と答えました。
「ということはつまり師の方が優れていると言うことでしょうか?」と更に聞きますと
孔子は
「いや、度を越しているのは、物足りないのと同じことだ」と答えたということです。
※師(子張)と商(子夏)は共に孔子の弟子の名前。
この話で孔子は適切な度、つまり中庸を求めているわけで、足りないのもだめだし、行き過ぎているのもだめだ、と教えているのです。良いことだからとそれを過度に推し進めていくと、ある時点から良いものではなくなってしまう、実生活でもよく経験することです。
「猶」は漢文では再読文字と言って、まず副詞として読み(「なお」)、次に返り点に従って助動詞として読む(「ごとし」)、つまり同じ文字を二回読むわけです。
現代中国語の“犹”(猶の簡体字)には「~のようだ」という意味と、「なお」という意味、二つの意味があり、両方が重なって「なお~のようだ」となることはありません。
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」の関連語
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と同じく『論語』が元となってできた故事成語には、「不惑」「温故知新」「和して同ぜず」などがあります。
『論語』から漏れた孔子一門の説話を集めた『孔子家語』が元となってできた故事成語には、「良薬は口に苦し」「水清ければ魚棲まず」などがあります。
「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」の中国語
中国語 | 过犹不及 |
---|---|
ピンイン | guò yóu bù jí |
音声 | |
意味 | 日本語と同じです。 |
中国語も日本語もまったく同じです。中国語は4文字、日本語は14文字です。「過猶不及」を日本語として解読する場合、意味が通るように言葉を補わなければならず、その分字数が増えるのです。