大同小異
「大同小異」の由来
「大同小異」の故事は、中国の戦国時代に書かれた『荘子』(そうし・そうじ)の中に出てきます。
「大同小異」の故事の時代
「大同小異」の故事の場所
「大同小異」の故事
荘子(そうし・そうじ)は姓は荘、名は周といい、紀元前370~286年くらいに生きた思想家で、当時の中国は戦国時代でした。孔子は紀元前551~479年ですから荘子はそれより200年くらい後に生まれた人です。時代が下ると荘子は老子とともに道教の始祖に祭り上げられます。
『荘子』は荘子、つまり荘周によって書かれた思想書で、故事成語「大同小異」はこの本の第3部「雑編」の最後の項目「天下」に出てきます。
「大同而与小同異、此之謂小同異。万物畢同畢異、此之謂大同異」がそれです。意味は「世の中には大同にして小同と異なるものがあり、これを小同異という。これに反して万物ことごとく同じく、ことごとく異なるものがあってこれを大同異という」ということ。
つまりここで言っている「小さな同異」というのは、物事を大きく見て、その中のささいな部分が同じだったり異なったりしていること。「大きな同異」というのは、万物において、普遍的な意味ではみな同じで、個別的なものでみな異なるが、こうした同異のこと。なんだかよく意味のわからない哲学的な文ですが、故事成語「大同小異」は「似たり寄ったり」という意味です。
わかりにくい哲学書なので、一つ一つを解説すると、
ここで言う「大同」とは「大きな全体の中では同じ」ということ。
「小同異」とは「小さな部分が同じだったり異なったりしていること」
「万物がことごとく同じ」というのは「普遍的なものとしては同じ」ということ。
「ことごとく異なる」というのは「個別的には異なる」ということ。
「大同異」というのは「万物が普遍的なものとしては同じだが、個別的なものとしては異なる」ということ。
まあ言わんとすることは何となくはわかりますが、実にわかりにくい文です。このわかりにくい文は『荘子』の中に入ってはいますが実は荘子の文章ではなく、恵施という当時の論理学者による文で、『荘子』の中では詭弁として嘲笑する文脈で書かれています。よくわからず「まっいいか」とスルーしても荘子からは叱られないでしょう。
恵施による他の論理学命題としてはたとえば「道を進む車輪はどの瞬間も地上に静止しているので動いているとは言えない」とか「犬は名称しだいで羊と呼ぶこともできる」とかどうでもよさそうなものが多く、荘子によって「彼は分析力はあったが、口で勝とうとするばかりでせっかく才能があるのに蚊やアブがぶんぶん飛んで終わるような人生だった。こんな命題が万物にとって何の役に立とうか」と批判されています。
けれども二千年以上も前にこんなわけのわからない命題を掲げて議論をしあう人たちがいたってスゴイというかヒマというか…昔の中国は本当に面白いです。
「大同小異」の関連語……「小異を捨てて大同につく」
「大同小異」から派生した故事成語・ことわざに“求大同,存小异 qiú dàtóng, cún xiǎoyì”(大同を求めて小異を残す)というのがあります。意見の対立がある時小さな違いは置いておいて同じ方向性でまとまろうという考えです。面白いことにこの故事成語・ことわざを日本では「小異を捨てて大同につく」と言います。中国で意見の違いは一応取っておくのですが、日本では捨ててしまうのです。残すと捨てる、単語一つの違いですが、同じことわざが中国にもあると思って安易に使うと危険です。後で問題が起きた時、日本人は「あの時それはお互い捨てたでしょ」と思っていますが、中国人は「捨てていないよ、棚上げしただけだよ」と思っています。たかが1字、されど1字です。
「大同小異」の中国語
中国語 | 大同小异 |
---|---|
ピンイン | dà tóng xiǎo yì |
音声 | |
意味 | おおよそ同じだが細かな違いがあること。(日本語と同じです。) |