敗軍の将は兵を語らず

意味
失敗した者はそのことについてあれこれ言う資格はない、ということ。
例文
負けたチームの監督がインタビューを受け、勝利チームの今後の策を聞かれると「敗軍の将、兵を語らずです」と言ってその場を離れた。
出典
史記しき准陰候わいいんこうでん

※『史記』とは:中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書。

※准陰候とは:前漢の武将、韓信のこと。B.C.230~B.C.196 淮陰(江蘇省淮安市)出身。張良、蕭何と共に漢の三傑と言われる。

「敗軍の将は兵を語らず」の由来

敗軍の将は兵を語らず」の由来は項羽と劉邦が争っている時代、劉邦の配下として活躍した韓信によって打ち破られた項羽陣営の左車さしゃの言葉です。それではまずその当時の年表と歴史地図から見ていきましょう。

「敗軍の将は兵を語らず」の故事の時代

「敗軍の将は兵を語らず」の故事の時代(年表)
敗軍の将は兵を語らず」の故事の時代(年表)。劉邦によって前漢が成立する数年前、項羽と劉邦が覇権を争った時期の話です。

「敗軍の将は兵を語らず」の故事の場所

「敗軍の将は兵を語らず」の故事の場所(歴史地図)
敗軍の将は兵を語らず」の故事の場所(歴史地図)。「井陘いけいの戦い」で劉邦陣営の韓信が項羽陣営の李左車を打ち破り、捕らえました。

「敗軍の将は兵を語らず」の故事

背水の陣
背水の陣。

紀元前204年頃、項羽の楚軍と劉邦の漢軍が中原(黄河中下流域にある平原)で戦いを続けていた時、韓信がみごとな働きで勝利を漢軍にもたらします。

その戦いの一つに趙との戦いがあります。趙には広武君左車さしゃという参謀がいました。この参謀が趙王に奇襲を献策しますが王は取り入れません。やがて韓信の「背水の陣」の戦いにより趙は破れます。韓信はこの時李左車を生け捕りにし、丁重に師弟の礼を取って「この後私は北方の燕と東方の斉を討とうと思うのですが、どうすればうまくいくと思いますか?」と教えを請います。すると李左車は「敗軍の将は勇を語るべからず、亡国の大夫は存立を図るべからず(敗軍の将軍は武勇について語る資格はなく、滅んだ国の家老は国の存立を図るべきではない)」と言って策を献じることを謝辞します。李左車のこの時の言葉が「敗軍の将は兵を語らず」の元になっています。

ところでこの後韓信はどうしたか?韓信は「すべてあなたの策に従いますから」と繰り返し李左車を説得します。李左車はそこで韓信軍はこの後どうすべきか、策を献上します。韓信がそれに従うと、果たして燕は戦わずして漢軍に服したのでした。

「敗軍の将は兵を語らず」の関連語

項羽と劉邦に関わる故事成語は、これ以外にもいくつかこのサイトで紹介しています。

「敗軍の将は兵を語らず」の中国語

中国語败军之将,不可言勇
ピンインbài jūn zhī jiàng,bù kě yán yǒng
音声
意味敗軍の将は勇を語らず。

中国語では上記のように「勇を語らず」と言います。典拠となった原文もこう言っており、日本語がなぜ兵になったのかはわかりません。意味は「敗軍の将は兵を語らず」と同じです。ちなみにこの成語の中の「兵」とは「兵法」すなわち策略のことで、「兵士」のことではありません。