孫武【後の世で大兵法家として扱われる呉の将軍の生涯】
孫武(そんぶ)とは、諸子百家の兵家の代表的人物である孫子のことで、『孫子の兵法』の著者です。『孫子の兵法』はきわめて完成度の高い軍学書で、日本でも古来武将たちの指南の書として崇められてきました。
孫武とは
孫武(そんぶ…生没年不詳)とは、春秋時代の斉の人で、兵法13編・いわゆる『孫子の兵法』を著した兵家の代表的人物です。孫武は呉王・闔閭(こうりょ)に仕えたといわれています。
『孫子の兵法』は、日本では遣唐使の時代に中国から伝わり、鎌倉時代から武将や軍師の指南書となりました。現代でもさまざまな解説書が出版されていて、日本における孫子の兵法人気は衰えません。
欧米では18世紀末にフランスに紹介され、ナポレオンが遠征先でも手放さなかったなどの話が伝わっています。
こうしてその兵法・戦略、戦術、戦法は広く知られているのに対し、その著者である孫武については実在さえ疑われてきました。『孫子の兵法』も孫武の子孫といわれる孫臏(そんぴん…生没年不詳。紀元前4世紀ごろの斉の軍師)が書いたのではないかといわれていました。
ところが1972年山東省にある銀雀山から発掘された竹簡から『孫子の兵法』の一部や、それまで幻の書といわれていた『孫臏の兵法』の存在も確認されたのです。これにより孫武の実在と、『孫子の兵法』は孫臏ではなく、孫武の著作であることが証明されました。
孫武の生涯についてははっきりしたことはわかっていませんが、呉王・闔閭(こうりょ…B.C.514~B.C.496)に仕えてその将になったと伝わっています。
ちなみに闔閭の息子が夫差で、夫差(ふさ…?~B.C.473)と越王・勾践との戦い…呉越の戦い…はとても有名です。
孫武が将となった後の呉は、3万の兵を率いて20万の楚軍を打ち破り、楚の都に侵入しました。北方ではB.C.484に魯と組んで時の大国・斉を破り、その2年後は同じく大国であった晋にも脅威を与え、こうして呉は一躍天下の耳目を集めるまでになりました。この時期の呉王は闔閭の息子の夫差でした。
夫差の率いる呉は勾践率いる越に押され、やがて滅亡します。
呉が衰退していく様子を目にした孫武は呉を去り、隠棲したと伝わっています。『漢書』刑法志では、何らかの罪によって処刑されたと書かれていますが、それが事実かどうかはわかりません。
孫武のエピソード
司馬遷の『史記』孫子呉起列伝には、孫武にまつわる面白いエピソードが書かれています。
呉の闔閭(こうりょ…生年不詳~B.C.496 春秋時代の呉の王)がその家臣・伍子胥(ごししょ)から『孫子兵法』を献上され、著者である孫武を将軍として登用するよう繰り返し進言されました。
闔閭はそこで孫武を招き、「先生の兵法の書13編を全部読みました。この兵法の書がどれほど役に立つのか、この兵法にのっとって我が国の兵士を訓練してみせてほしい」と頼みました。さらにその訓練の対象は女性でもいいか、と聞くのです。
孫武は「よろしゅうございます」と言い、こうして呉の宮中の美女180人が選ばれ、彼女たちは宮殿の庭に下りました。孫武は彼女たちを90人ずつ2つのグループに分け、全員に矛を持たせました。そして呉王・闔閭の寵愛を受けている二人の姫をそれぞれのグループの隊長としました。
孫武が官女たちに「私が前と言ったら胸を見、左と言ったら左手を見、右と言ったら右手を見、後ろと言ったら背中を見てください」と命じると、女性たちは「わかりました」とうなずきました。
孫武はこの命令を繰り返し練習させたのち「命令に従わないと処罰しますよ」と言って、彼女たちの前に斧を起きました。
その後太鼓の合図とともに孫武が「右!」と号令をかけましたが、宮廷の美女たちは大笑いするばかりでまったく動こうとしません。しかたなく孫武が再び説明をして練習をさせ、もう一度太鼓の合図とともに孫武が「左!」と言うと、女性たちはまたもや大笑いです。
そこで孫武は王の寵愛を受けている二人の隊長を罰せんと斧を振り上げました。闔閭があわてて家臣を庭に立つ孫武の元にやり、「先生のやり方はよくわかったからあの二人を斬ったりしないでほしい。そんなことをされたら私は食事ものどを通らなくなってしまう」と頼みました。
すると孫武は「私は王によって将軍役を命じられたのです。将軍とは戦場にあっては王のご命令であっても聞かないこともあります」と言って、その場で二人の美女を斬り捨てました。
それからその亡骸を女性たち全員に見せ、彼女たちの中から別の隊長を二人選びました。
孫武がまた同じ訓練を始めると、女性たちは全員合図に応じて一糸乱れぬ動きを見せ、声一つ立てませんでした。
そこで孫武が呉王闔閭に「訓練は終わりました。王よ、どうぞ彼女たちをお試しください。王のご命令が下されれば彼女たちは水にも火にも飛び込んでいくでしょう」と言うと、闔閭は「よくわかった。訓練はもうけっこう。わしはもう見たくない」と言いました。孫武は「王は軍事理論だけがお好きで、実際の運用はできないのですね」と言いました。
闔閭は孫武を呉の将軍に抜擢し、孫武将軍は3万の呉軍を率いて、20万の楚軍を破り、楚の都に侵入しました。北方でも斉や晋を怖れさせました。こうして呉は一躍大国に躍り出たのです。
呉は闔閭のあとの夫差(ふさ)の時代になると衰退し、その様子を見た孫武は呉を去って隠棲したといわれます(『漢書』では何かの罪によって処刑されたとも)。
上記のエピソードはとても有名なのですが、この訓練の仕方が「孫子の兵法」の説と一致しないということで、後の時代に作られた話ではないかともいわれています。