漢書【歴史書の解説と班固・班昭の兄妹が完成させるまで】
『漢書』(かんじょ)は前漢から新までの正史で、後漢時代に班固・班昭の兄妹によって書かれ、前漢王朝を賛美する内容になっています。
漢書とは
『漢書』は、高祖・劉邦が打ち建てた前漢王朝の歴史書で、後漢の班固(A.D.32~A.D.92)とその妹・班昭(A.D.45?~A.D.115?)によって書かれました。
全100巻で、『史記』の歴史記録の体裁を受け継いで、「紀伝体」…本紀(帝王の年代記)と列伝(臣下の伝記)から成る歴史書のスタイル…で書かれています。
内容としては、前漢の成立から王莽による政権「新」までが書かれています。
『史記』が王朝を建てなかった項羽の記述を「項羽本紀」とし、農民一揆の指導者に過ぎなかった陳勝を「陳渉世家」としたのに対し、『漢書』ではそれぞれを「列伝」とし、秦王朝のすぐ後ろに漢王朝を持ってきて漢王朝をクローズアップさせています。
『漢書』の文章は華麗で格調高く、貴族の家では文章修業のために子弟に読ませたといわれます。
『漢書』の成立過程
父・班彪
『史記』が世に出ると、それに触発され続編を書こうとする人々が何人も現れたといいます。今から2000年ほど昔、そういう人々が現れたというのもすごいですが、そういう話が今に伝わっているのもすごい話だと思わずにはいられません。
ともかくそうした風潮の中で班固の父・班彪(A.D.3~A.D.54)は後漢の朝廷から下賜された班家の蔵書を使い、その優れた文才で続編に取り組むのですが完成には至らず、数十篇書いた後は子の班固がこれを受け継ぐことになりました。
『史記』もまた父の司馬談の遺志が司馬遷に託されて『史記』を完成させますが、『漢書』の場合もそのような父から子への遺嘱があったのかどうかはわかっていません。
班固の最期
『漢書』は班固が20年取り組んでも完成はしませんでした。
班固は晩年、後漢の朝廷で当時権勢をふるっていた竇憲(とう けん)の派閥に属していました。竇憲の妹が章帝(第3代皇帝)の皇后になると、竇憲は政敵を暗殺する事件を起こして捕縛され、これを償うために匈奴遠征の車騎将軍になり、班固も従軍しました。
この匈奴遠征で竇憲は成果を挙げ大将軍にまでなります。
やがて竇憲一族は後漢の朝廷で横暴の限りを尽くすようになり、和帝(第4代皇帝)の暗殺まで謀りました。
このことが外部に漏れ、竇憲は自殺に追い込まれます。竇憲一派として羽振りをきかせていた班固も投獄され、そのまま獄死しました。
『史記』を書いた司馬遷は悲劇的な人生を送ったことで有名ですが、その後を継いで『漢書』を書いた班固もこうして非業の死を遂げました。
この因縁は次の『後漢書』にも続き、『後漢書』を書いた范曄(はん よう)もまた最後は処刑されて人生を閉じました。
才女・班昭
兄・班固が未完成のまま獄死すると、その妹・班昭が『漢書』を完成させました。
班昭は漢代の代表的な女流作家であり、宮中に招かれて後宮の女性たち…皇后や貴人の教師となりました。
人々からは「曹大家」(そうたいこ)と呼ばれ、尊敬を集めました。曹という名は班昭が曹寿という人物に嫁したからであり、大家は大姑のこと、「曹伯母様」くらいの意味でしょうか。
班固の弟は班超(A.D.32~A.D.102)で、彼は文人一家の班家にあって武人となり、西域で後漢王朝の勢力を広げ、西域都護(西域を統治する役所の長官)として活躍しました。
『漢書』の特徴
班固による『漢書』は漢王朝賛美が目的となっています。
『史記』における「項羽本紀」や「陳渉世家」を『漢書』ではそれぞれ「列伝」に落とし、秦王朝のすぐ後ろに漢王朝を持ってきました。歴史の流れを正確にたどったというより、漢王朝をクローズアップする書き方にしたのです。
ちなみに「本紀」(ほんぎ)、「世家」(せいか)、「列伝」の意味は以下のとおりです。
本紀…帝王の一代記
世家…名家の記録
列伝…著名な人物の伝記
司馬遷は高祖・劉邦と戦い抜いた項羽を帝王として扱い、一農民から反秦の狼煙を挙げて、後の漢政権樹立の流れを作った陳渉を名家として扱っていて、歴史家としての一見識を表しています。
これに対し班固の著した『漢書』は、あくまで「漢王朝賛美」という線に沿ったものであることがわかります。
また当時の歴史書では「王莽帝紀」(王莽は前漢を乗っ取り「新」王朝を打ち建てた)となっていたものも、班固は「王莽列伝」として書いています。
また『漢書』では学者や文人の文章をそのまま引用しており、そのため文章は華麗で格調高いものになっています。
当時史書というのは歴史を学ぶというより、文章のお手本として読まれるものでした。貴族の家では子供の文章修業用に『漢書』を読ませていました。